きづき(日記)

きづき、またかんがえたことをしるす (いっぺい)
Last modified : Mon Oct 01 00:39:02 +0900 2007

2007年10月01日(月)

どうしてだろう。 私の処理能力は基本的にそう低くないと思うのだが、全然仕事が進まない。

自転車のハンドルを腕をクロスさせて逆に持つ、すなわち左のハンドルを右手で、右のハンドルを左手で持つとたちどころにバランスをくずす (危険なので試さない方がいいです)。 これは普段自転車に乗る時はバランスが左に傾いたら右手を押し出し、 逆にバランスが右に傾いたら左手を押し出すことが無意識に行われているからだろう。 これはきっと、条件反射だ。 意識を経由せず反射で行うことができるため、我々は自転車に乗りながら周囲へ注意を払いつつ、さらに考え事もできるのだろう。


2007年10月02日(火)

『らき☆すた』視聴完了。 まーそこそこ楽しんだ。

今期の目標は、惰性で見ないこと。 また、「ここまで見たのだからこの先も見ないと勿体無い」という慣性をつけないために そもそも最初から見ない、を心掛けよう。

衝立の向こうで日増しにアニヲタ度を高めている学生を生暖かく見守っている。 漏れ聞こえる話から知ることには、ハルヒとからきすたとかスクイズとかへは到達したらしい。 そういやこないだ「京アニ」という単語は出て来たな。 声優系の単語はまだ出て来てない。


2007年10月03日(水)

『地球へ』アニメ完了。 後半は惰性だなあ。 ちと長い気がするが、テレビアニメはその辺の調整が難しいからこんなもんなのかもな。


2007年10月04日(木)

MAJOR の小学生から海堂まで。 なんか行き当たりばったりシナリオを作ってる気がする。 小学生でのライバル女の子投手も薫に対置するという構図が見え見えで、 アンケートで人気がなかったのか露骨に退場させられたし。 そういう一本芯が通ってない感じが主人公の吾郎の行動に影響し、 なんか傍若無人なだけの嫌な奴に見える。 絵はスピード感あって綺麗だと思うが、漫画としてはやっぱり好きではない。

『ぼくらの』アニメ完了。 なんだろう、こいつら結局何やってたのかなぁ。 というわけでイマイチ。 漫画の方も読まんとな。


2007年10月05日(金)

学生から一時的に借りた USBメモリに「melty blood」というフォルダがあった。

「♪だっだっだだだだ、だ、だだんだん」 事あるごとに恋のミクル伝説のイントロが口遊まれる環境はどうかと。


2007年10月06日(土)

『アイドルマスター』アニメ終了。 なんかハッキリしない終わり方。 思い返すと、設定とか背景とかが一番面白かった。 「あのアイマスがサンライズの手にかかればロボットアニメになるなんて!」とか、 ゲームではアイドルだった彼女ら自身はアニメではアイドルではなく、アイドルマスターだとか、そういうコンセプト(コンセプトデザイン?)が一番面白い。 なんかもっと分かり易い世界にして13話構成くらいにした方が良かったんじゃないかなあ。


2007年10月07日(日)

姉夫婦と母がドライブするというので便乗して淡路島上陸。 ステーキで贅沢なランチを食した後、自転車で一人ツーリング。 淡路島を大雑把に1/3周くらいしてきた。 彼岸花のシーズン。 そして村祭のシーズン。 神輿がそこかしこで担がれていた。

『天元突破グレンラガン』完了。 分っかり易ー。 すごいよ。 面白え。


2007年10月08日(月)

『地球へ』の原作漫画。 密度高ー。 今時だったら、才能のある作家がもっとページ数を多く使って表現するともっと良くなりうるとは思う(もちろん、悪くもなりうるだろう)。 しかし、これが出たのが 30年前ということを考えると結構他の追随を許さぬ感じだったのではなかろうか。 他に読む物がなければ何度も何度も読み返すだろうし、そうであるならば噛めば噛むほど味が出るということで、これくらい高い情報密度の方が良かったのかもしれん。

家に中途半端にある漫画を揃えて読んで売っ払おう計画その1、『RED』。 スカーレットが可愛くて可愛くて仕方ない。 アクションの迫力も十分だし、面白かったー。


2007年10月09日(火)

小学生の頃の科学雑誌に、ストローの頭を押さえていればそれでジャガイモを貫けるという記事があった。 それは「ストローの中の空気が動けないためストローが強化される」というような説明だったのだが、今考えるとこれは眉に唾をつけたくなるような話だ。 ちと気になるなあ。


2007年10月10日(水)

仕事に就いてからプリントアウトは両面2ページ左とじが基本。 体積あたりの情報密度が「標準プリント」の4倍に! これだと4ページまではホチキスせんですむのが嬉しい。 最近、さらに両面4ページに進みつつある。 少し読み難くはなるが、省資源な感覚と紙の厚さがさらに減るのが嬉しい。

プリンタドライバに平綴じ順序でプリントアウトしてくれる機能ってないかなあ。 例えば両面2ページ左とじなら、表ページに4,1ページ目を、裏ページに2,3ページ目の順で印刷してくれるような。 両面4ページ左とじなら、紙の表ページ上段が4,1、下段が8,5、その裏ページ上段が2,3、下段が6,7ページにしてくれるような。 いや、Nature Podcast を最近再開したのだが、その起こされたテキストを小冊子にしたいので。 今のところ4ページ割り付け片面印刷で冊子にしていて、両面使えると厚さあたりの情報密度を倍に上げられるのが魅力的なんだけど。


2007年10月11日(木)

どうも文章を練り込む習慣が仕事の邪魔になっているようだ。 科研費の申請なんかは少数の人に一度読まれて捨てられるようなもんなので、 もっと文章としての品質は低くていいはずだ。 こういう文章をもっとラクチンに書けるようにならないと他の仕事に回すべき時間がどんどん削られていってしまう。

Adobe CS3 買っちゃった。 家でも仕事をできるようにするために Illustrator は必要だったのだが、 Gimp があるから Photoshop は必ずしも要とは言えない。 しかしまあ今迄色々な場面で使わせてもらった感謝の念も込めて購入することにした。 譬えGimp があっても、Photoshop と両方使えて悪いことはあるまい。


2007年10月12日(金)

家に中途半端にある漫画を揃えて読んで売っ払おう計画その2、『るろうに剣心』。 線は綺麗だしキャラデザもいいんだけど、シナリオはそこはかとないつまらなさ。 中途半端に現実的な理由つけとか。 例えば志々雄の異常体熱は発汗組織が壊滅したのが原因というのはいかがなものか。 ある程度科学を知る人なら40℃を越えると蛋白質が変質してやばいということを知っていると思う。 よく分からんが燃える、くらいの方が変なこと気にせんとすっきり読めると思うのだが。 あとネームがちとうざい。 ひょっとこ=火男とか、蒸気船の狂歌とか、「ボク知ってるんだよー!」というのが前面に出てるあたり。 でも俺が何か物語を作ったら、同じミスを犯す傾向にありそうで怖い。 ファンレターとかに対して公然と、誠実に対するのは、こいつは正直すぎて危うい気がする。 和月伸宏そのものが放っておけない感じ。 キャラデザの考え方についてはすごく参考になる。 キャラデザでの考え方を晒している部分が、この単行本で最大の価値がある部分ではなかろうか。

ふと思った。 おれはラッキーマンを克服すべきではなかろうか。


2007年10月13日(土)

カレッジTOEIC の試験を受けに大学に。 午後は研究室で寝て、さあ仕事にかかろうかというところで犬大将が大阪に来ていることを知り、飯の算段を付けると時間がもうなかった。 まあ帰ってから仕事したのだが。


2007年10月14日(日)

予定にあった自転車練習はやめて仕事してた。 仮に2.5時間走ると、その消費時間以外にも体力を失うことで仕事の能率が落ちるので。 なんとか数学演習の配布プリント作成(12ページ)は終わった。 口頭説明用テキストも作らんとあかんなあ。


2007年10月15日(月)

『Pollyanna』(初音ミク×MOTHER の英語の歌)がすごく良い。 MOTHER はいつかやりたい。


2007年10月16日(火)

演習の準備で死んだ。 26:30までかかった。 当然泊まり。 明日は1限終わったら適当に早退しよう。


2007年10月17日(水)

私は不愉快なことで感情が変動することを愉しみ得る人間だ。

『話を聞かない男、地図が読めない女』(アラン・ピーズ+バーバラ・ピーズ)。 めっちゃ面白かった。 ……こんなに不愉快になれるなんて! こんな酷い本がこの世にあるなんて!! 胸が激しくムカムカしている。 『社会調査のウソ』(谷岡一郎)、『詭弁論理学』(野崎昭弘)あたりの知識があるとより一層、愉しめると思う。

「できるだけ堅苦しくならないように、日常よく見聞きする会話や状況、考え方をおもしろおかしくちりばめた」(p.18)とのこと。 正しくその通り、描かれている男女の行き違いの一幕は作者の意図した通りの効果を発揮しているだろう。 私の在り方がその彼らの在り方と異なっても、 「いや、これは私じゃない−−私はこんなことしない!」と反論するのは本に述べられているように筋違いであり、 著者らが述べているように「私たちが取りあげるのは、男女の平均像である」(p.27)ということを頭に入れておくべきだ。 ただし私はこの「平均像」は平均ではなく、かなり誇張が酷いように感じた。 「著者らの主観による、典型的な男性/女性像」だと私は思う。 それもかなり女性視点に寄ったものであって、男性像にリアリティがない。 この本はピーズ夫妻による共著ということになっているが、 本当に男女共著であるのか私には疑わしく感じる。 この辺の齟齬はまあ、この本が日本人について書かれたものではないからかもしれないが。 この著作におけるピーズ夫妻の役割分担がどのようなものか私には知り得ないが、 この本は妻のバーバラの主観によって主導された議論のように思える。 「これ本当にアランの方も書いてるのか? 基本的にバーバラの妄想なんじゃねえのか?」 という疑念さえ、私の頭によぎった。 とはいえ「真に平均的な男性/女性像」なんてものは人間が得ることのできないものだし、 また最初に個人差の方が大きいということを(少しだけだが)触れているし、 これはこれでいいのかもしれない。 ……の割には「全ての男性/女性が〜〜である」という論調の文が多かったように感じたが。 まあ断定形の文章が多くて気に障るのは、英語の訳本という事で致し方ないのかもしれない。

読者が「この本で述べられていることが正しい」と感じるのならば、 それは「血液型性格分類が正しい」と感じる事と同じ構造をしていると思う。 例えば、完璧主義とずぼらな性質は基本的には相反する性質だが、 私は完璧主義な性質とずぼらな性質の両方を持ち合わせている。 というか、殆どの人が(「完璧主義とずぼら」に限らず)こういう両面性を持ち合わせていると思う。 「自分はこういう面ではロマンチストだが、こういう面では現実主義だ」とか。 なので「あなたはロマンチストな面を持っています」という表現に対し、 本当は誰にでも当て嵌ることなのに、自分のことを言い当てられたように感じるものだ (参考:wikipedia「バーナム効果」)。 「男性はこういうものだ」という命題を持ち出された時、 それは確かに正しく「男性には確かにこういう面がある」わけなのだが、 そう思った時には「その命題が正しくて価値がある」ように感じてしまうものなのだ。 ……たとえ男性と女性の大多数も同じ傾向を持つとしても。 あと「自分に当て嵌る事と当て嵌らない事の両方が表記されてたら、 自分に当て嵌る部分だけが印象に残り易い」という効果もあるだろう。 こういう性格とか性質について論じている文章を読む時には一般に、 その効果を割り引いて「その文章(命題、表現)に価値があるかどうか」を考えなければならないと私は思う。

(wikipedia「バーナム効果」の概要。 「誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、 自分だけに当てはまる正確なものだと捉えてしまう心理学の現象」。)

データに科学的信憑性が乏しい。 科学に慣れてない人は「科学的」という単語それだけで「100%厳密に正しいもの」と錯覚してしまうようなのだが、そんなことは決してない。 著者らによって提示された「科学的」なデータを見た読者が同じような錯覚をしてしまうのではなかろうか。 というかそもそも著者ら自身がそのような誤解をしているようにも見えるのだが。

天動説だって、中世では立派な科学だった。 現代に生きる人間が「天動説なんてありえねえ」などと嘲笑うのは勝手だが、 もしそうするのならば、現時点で科学的に明らかになってない点について「自身が後世の小学生に嘲笑われる事」を許容しなければならない。 科学とは100%正しいことを保証するものではなく、 実験などによって得られた結果からこの世界を形作るルールを、真実を探り出そうという営みに過ぎない。 その実験や調査、考察がどの程度確からしいものなのかは、それがどのように行われたかに依存する。 だから真っ当な科学データならば、そのデータがどのように得られたのか、その考察がどのような論理で導かれたのかという点に最大限の注意が払われる。 しかしこの本ではその社会調査が「どのように標本を抽出して/どのような文面で/どのような選択肢を提示して行われたものか」が示されていない。 また引用元の文献名などが示されていないためそれを読者が確かめることができないし、どのくらいの信頼性のある雑誌に掲載されたのかすら判断できない。 例えば『ムー』に掲載された記事だって、立派な「科学的」(あくまで括弧付きの「科学的」)データだ。 邪推するならば、科学的な価値の検討に耐えられないからこそ、それが示されていないと見ることもできる。 「科学的なデータ」というのがこの本のセールスポイントの一つらしいのだが、こんなものを『科学的』と言って欲しくないと、科学を志す者の一人として思う。

議論(科学的な意味での discussion)に真摯でない人達は、まず結論を用意し、それに合致するデータと論理だけを利用する。 著者らはこの愚を犯しているように私には思える。 まず「男性とはかくも救い難き衆生である」という結論ありきで、それに合致するデータだけを紹介している感じで牽強付会の感が否めない。 『ムー』レベルまで含めると、「科学的」データというのは有象無象どの方向(所謂トンデモ方向も含めて)の物も時々刻々と発表されているわけなので、 自分の結論に合致した方向だけ取捨選択すれば、自説に「科学的」な裏付けを取ることなんて至極容易なわけで。 この辺に注意しながらテストステロン(男性ホルモンの一種)の害悪を論ずる辺りを読んでみて欲しい。 『僕が/私が考えた男女のしくみ』というよな小中学生の夏休みの自由研究レベルの論理でしかない。 さすがに純粋な文章力は小中学生を凌駕しているが、ね。

仮に真っ当な統計調査によって相関性が見出されたとしても、そこに因果関係があるかどうかを論じるにはより厳密な論証が必要だ。 しかし著者らは統計的な相関性があることだけを根拠に「『男性的』な諸悪は、テストステロンという男性ホルモンが根源である」と断言する。 この辺、著者らには相関性と因果性の区別がついていないように私には見える。 「パンは危険な食べ物」というジョークとの類似に注目しても面白いかもしれない。

統計データは切り口によって、それこそ玉虫色に読み取れるものだ。 著者らは統計データを自説の都合のよいようにしか見てない。 また著者らは「自分の知らない物は存在しない物」と決めつけている。 真っ当な科学を知る人間なら、あるいは真っ当な人間なら、それはすべき事ではないと知っている筈のことだ。

「肉体上は男でも、大なり小なり女っぽい脳を持っている人は全体の十五〜二十パーセント存在すると考えられ、その多くはゲイになる。」(p.84)などと 地球上で5億人程度がゲイであると告発しているのだが、まあそれは単なる誤りだろうから放っておこう。 それにしても、ゲイに関する記述は特に酷い。 ピーズ(両)氏が持つゲイへの嫌悪感からこのような独善的な表現がなされ、結論が予め定められていたのではないかと愚考する。 「国立ガン研究所が行った別の研究では、ホモセクシャルの家系が存在することが明らかになった」(p.243)とか書いているが、 そんな遺伝子があるとすれば、普通に考えてそれはすぐ絶滅するだろう。 何故そんな遺伝子が生き残るのかについての考察は不要なのか? ゲイが本当に遺伝子に起因するものかもしれないが、それをいうにはもっと厳密なデータと論証が必要だろう。 「こんな仮説を唱えている人がいる」という事に対し、ピーズ氏らは「こういうことなんだ」と拡大解釈して言ってしまっているだけではなかろうか。 ピーズ氏らの自説にとって都合の良いことを学者が言っていたら、どんな学者がどんな確信の強度で言っていてもピーズ氏らは事実として取り入れているのではなかろうか。 というかゲイはホルモンの所為とか言うてなかったか、この本。 この辺は論理展開がひどくてまともに読めなかったので、私の認識が間違っているのかもしれないが。

言う間でもなく著作活動は商業的なものだ。 だから厳密な論理は商業的には必ずしも正しいものではなく、 より多くの人間に娯楽を提供しているという意味で、 この本は正に商業的に正しい本だと思う。

この本のセールスポイントの一つに「男脳・女脳テスト」という物がある。 30ばかりの選択肢を選んで、その選択肢に対する点数を加算していく形式で、男脳の持ち主は低得点(0〜180点)、女脳の持ち主は高得点(150〜300点) になるという。 このテストの配点は受験者の性別によって異なり、選択肢 a を選んだ時の点数が男性の場合10点、女性の場合15点となっている (ちなみに選択肢 b,c は男女共通でそれぞれ +5点、-5点)。 これはおかしい。 恣意的に結果を偏向させている。 自分の性格とは関係なくランダムに選択肢を選んでも、この配点では男性と女性のテスト結果の期待値は、それぞれ 100点、150点と大きな差が生じる。 極端なこと言えば、性別によって配点を変えることが許されるのならば、 選択肢ごとの点数を男性ならば 0〜6点、女性ならば5〜10点というようにすればいい。 典型的なテスト結果として紹介されているように、 男性は0〜180点の間に、女性は150〜300点の間に入るだろう。 こんないい加減な、恣意的な結果を導かさせられるテストであっても、読者の多くは男性っぽい男性と女性っぽい女性なので、テスト結果を受け入れてしまうものなのだろう。 データを、そして読者の認識を恣意的に誘導しているという事が、私にとって非常に許し難い。 著者らがデータや論理、そして読者に対して不誠実であることの顕れだと私は思う。

というか男脳・女脳テストはただ行動傾向を要約するものであって、脳がどういう作りだとかとは全く関係がない。 いやまあ「脳」という単語には「精神の方向性を決める枠組み」みたいな意味合いがあるのでそういう意味では間違いではないとも言えんでもない。 しかしながらこの本の文脈では、精神的構造ではなく脳の物理的構造に端を発した議論に続いての「男脳・女脳テスト」なので、この寛容的な解釈は妥当ではないだろう。

日本語では、「だ」に対して「だろう」は確信の強弱ではなく、それが推論によるものであることを意味する。 英語においてはその結論が推論に拠るものであることだけを示す簡潔な表現はない。 助動詞 would を使った表現は、それが推論であることを示すというより、確信の弱さを示す。 こういうことを勘案すると、日本語訳する時には「だろう」「だと思われる」という表現の方が日本語の科学的な文章には適すると思う。 しかし科学的な文章ではないと割り切ってしまえば、「だ/である」で断定した表現の方が歯切れ良くセンセーショナルに聞こえるので良いと思う。 そういう意味でも、商業的には正解なんだろう。

大雑把に、7割方の文章で女性を持ち上げているように感じる。 読者が女性だったら読んでいて気持ち良く感じるかもしれない。

公平性のために男性を持ち上げている文も挙げておこう。

ただし最初に述べたように、7割方は女性を持ち上げている。 平等に扱うよりターゲットを女性に絞った方が売れ易いだろうから、これも商業的には正解だと思う。 セールスポイントの一つである「男脳・女脳テスト」についても、「女脳」度が高いほど高得点になるように作られているのは、女性をターゲットにしているからだと思う。 多くの人は高得点に快感を感じるものだろうから。

あんまりにも(不)愉快だったのでアマゾンにも書評を出そう。 ……アマゾンのレビュー、800字だった。 10kbの文章をどうやって 1.6kb にまとめよう……。

(良書として)勧めてくれた人にどう返事を返そうかは只今勘案中。 なお、この本はここ数年増加のなかった不愉快棚への殿堂入りも果たした。 ということで現時点の不愉快棚リストは以下。

あー俺なんでこんなつまらんもんの評論を真面目にやって、真面目にすることに使うべき時間を浪費してんだろ。


2007年10月18日(木)

母の胸部レントゲンに影があったらしい。 CT で調べてみても、何かがあるのは確かとのこと。 最悪の場合の覚悟は必要か。


2007年10月19日(金)

すげー伏線の効いた綺麗なストーリーの夢を見た。 このまま忘れるにはあまりに勿体無いから、起き出してメモった。 かなり朝早いのでそのあと寝てもよかったが、意識が冴えてしまったのでそのまま学校に出ることにした。 ということで今日は2時間くらい睡眠が足りてない。

どうして伏線の効いた夢が生成されることがあるのか不思議だったが、 どういうことか少し分かったような気がする。 夢は物語じゃないので設定は明示的に語られず、 「こういう設定」みたいなもののコアイメージが、言語化されずに脳内に直接浮かぶ。 それぞれの設定が矛盾することもあるだろう。 その殆どはそのまま忘れ去られるのだが、あとの展開でうまくつながる設定があったらそれが呼出されて、あたかも伏線として機能していたように思えるのだろう。 私のイメージでは DNAコンピュータのようなものなのだが、これも分かり難い喩えだよな。


2007年10月20日(土)

mp3 の再生で歌詞を表示したい。 もう UNIX でとか贅沢は言わん、Windows でもいいと思って軽く調べてみた。 WinAmp + Gucchi's Lyrics Plug-In というのがそこそこ定番らしいのだが、 最近の WinAmp では Gucchi's Lyrics Plug-In がエラー吐いて死んでしまう。 時間に余裕があれば UNIX でそういうスクリプトを作る時間もあるだろが、今は無理。

Windows で、というか PowerDVD で flv を再生したいのだがなあ。 今のところ mplayer on UNIX で再生してるけど、mplayer で倍速再生できるのか分からん。 というか(1.5〜2)倍速再生できりゃ何で動いてもいいんだけど。

塩の街。 『図書館戦争』でも思ったがこの人読み出しで読者をツカむ、そういう世界を作るのがうまい。 この世界はどうしてこうなっているのだろう、などの疑問が次のページを開きたい欲求を心地良くくすぐる。 美しく、一個完結した世界としてよくまとまっていて面白かった。 エンターテインメントをよく理解していると思う。 最後のイラストを挿入する技法は、漫画的なメクリをよく心得ていて非常に効果的だと思った。


2007年10月21日(日)

私の mp3 ストレージは 50GB ほどに達しているのだが、 これのバックアップをどう取るかという話。 DVD-R に年一度程度その時のスナップショットを取ることを去年からの方針としたが、 なんかしっくりしない。 仮に次世代DVD の類のメディアを導入しても少し便利になる程度で抜本的な解決にはならないだろう。 ストレージ容量が既に次世代DVD の最大容量の水準である 50GBを超えつつあるのだし。 ということを考えていて、USB-HDD をストレージ/バックアップメディアとして使えばいいと思い付いた。 いやまあ普通の人は苦もなくそのように使ってるんだろうが、 私は HDD というのは据え置き装置だという固定観念に捕われてしまっていたわけだ。 考えてみれば、250GB の HDD なら体積効率は DVD-R より上だろう。 それに速いし追記、修正に制限がほとんどないし。 DVD-R 50枚分が大雑把に 2500円とすれば HDD はその4倍くらい高いが、 その取り回しのラクさは、私にとっての7500円くらいの価値はあると思う。 しかし耐久性は光ディスクに比べてかなり劣りそうだな。 駆動系は動かしすぎても、長時間動かさなくても故障しやすくなるし。 光ディスクなら記録メディアと駆動系が別になっているので駆動系の故障に大変強い。 しかしまあ高々1〜2万円の出費なら、一度試してみても面白いと思う。 パズル的にちょっと面白いので、もう少し最適解を考えてみよう。

考えてみた。 結論。

ここで使っているバックアップとストレージのそれぞれの意味は、私独自の意味かもしれないので補足しておく。 私の意味するところのバックアップは一般のバックアップと同じで二重化することで障害に備えること。 ストレージはどうかというと、純粋にデータを貯えること。 具体例を挙げる。 DVD-R を焼くという行為はその目的によってどちらにでもなる。 メイン HDDが壊れてもデータを復旧できるようにするためにするならばバックアップだし、 メイン HDDの容量が手狭でそれを空けるためにするのならばストレージだ。 バックアップはコピー(cp)、ストレージは移動(mv)、と考えればとても良く一致すると思う。 勿論私なりの位置付けなので、一般にそれらの単語がその意味で使い分けられているのかは分からない。

この(私的な)位置付けが理解できれば、先に結論付けた方針は理解し易いものと思う。 ストレージの段階では、そのファイル名やフォルダ構成を度々変更しうるものだ。 新しく導入されたファイルをストレージに追加することは頻繁に行われる。 この為にはメディアに対する修正などの作業性が最優先される。 しかしそのストレージも必ずバックアップが取られなければならない。 そのバックアップ用途には、作業性よりも記録の堅牢性が優先される。 そもそもバックアップは「ある時点の状態を凍結して別に持っておく」のが目的なので、 修正作業がないことを仮定しても決して間違いではない。


2007年10月22日(月)

一つの目標値であった、大学→家の12キロの走行時間で30分を切った。


2007年10月23日(火)

教育に関して私が思うこと。 学生はそれを必要と感じなければそれを学習しない。 大学の無味乾燥な授業でも勉強するのは、その単位が取れなければ卒業できないからという動機も無視できない。 しかしそれが自分にとって真に必要だと感じたり、それを学ぶことそのもの楽しいと感じた時は、学生は授業時間外も自身で勉強するものだろう。 私は、教育において最も貴重なリソースは学習する学生の時間だと考える。 だから授業というのは90分間学生を机に縛り付けて最低限それだけの時間学習していることを強制するためのものであるよりも、学生をモチベートして授業時間の外でも学習する意欲を湧き立たせることを優先すべきだと私は思う。 勿論理想論であることは分かってる。 楽しい学習よりも楽しい遊びやバイトを優先することもしばしばあるだろう。 しかし。

私が3回生のときのシステム工学の授業は、たぶん講師クラスの教員による授業だったのだが、授業の構成が大変巧みで「これを知れば、こういう手順で計算すれば、プロジェクトを効率的に進めることができる」と学生の意識を誘導していた。 あれはレポート問題に取り組んでいても楽しかった。

私の担当にPC関連初等教育の演習授業がある。 教えるべきはC言語。 演習は講義よりも「伝える」という意味合いが軽いので、内容を伝えるという意味では担当者の責任は比較的軽い。 しかしこれは「学生にはモチベートするだけでよい」というのを実践(実験)してみる格好の機会ではなかろうか。 前年度までの担当者から50枚クラスのスライドをもらったし、このくらいの「授業」をやっちゃっていいんだな? ということで週末丸々使ってゴリゴリ作業進めていたら、まとめ役の人が連絡ミスしており、そんなものは求められてないことが発覚。 徒労感。 というか、この忙しい時期に時間が失われたのが痛い。


2007年10月24日(水)

なんかゆきづまりを感じる。 俺にとって研究って何なんだろう。 それは面白いのか? 自分で分野を見つけなければならないのに。 その時間がない。 隙間の時間があってもそれを活用する気力がないのか。

帰りは自転車にしようと校舎を出た30秒後に驟雨。 自転車を仕舞って再度外に出ると雨はやんでいた。 そして終電で帰った。


2007年10月25日(木)

最近忙しゅうてピッチング練習する時間がねえ。 せっかくピー皮付きのスパイクを買ったのに。 色々時間がねえ。

盛大にこけた。 大きな車道脇に車が侵入できないようにプラスチックの杭が立ってるスペースがあって、その隙間に侵入しようとしたら前輪がはねてハンドルを取られた。 どうやらプラスチックの杭の何本かが根本から折れており、その切り株に乗り上げてしまったらしい。 そこそこな速度は出していた筈だが、季節相応の服装だったため幸いにも外傷はそれほどでもなかった。 しかし左手を捻ってしまったようだ。 痛い。


2007年10月26日(金)

なんとか申請1本目を上げる。 もう1本なんとかなるか? 週末が勝負!……なんだがなあ。 土曜は丸一日用事が入ってる。 日曜だけで本当に行けるのか?

科研費LaTeX なんてものができてる! 素晴らしい! 思い返せば、科研費の申請書を書くのがしんどいと感じるのは MS-Word を扱わなければならないというストレスが少なからずあったのだということに気付いた。 ひょっとすると、ひょっとするぞ。 これは。


2007年10月27日(土)

高校の友人の結婚式。 他の友人と話していて、なんか俺達もいい大人な年齢なんだなあと。


2007年10月28日(日)

ニコ厨してしまった。 TASさんは人間じゃない。


2007年10月29日(月)

なんかもう恋愛不適合者なんだなあ、と。 具体的な何かがあったわけではないけれど、なんか凹んでる。


2007年10月30日(火)

KDYさんところで紹介されてた『デジタル「写真の学校」』(キット タケナガ)という本を読んだ。 私にとって、5割方知ってること、2割方知らなかったこと、2割方知らなかったけど適当に意識していたこと、1割方知らなかったけど知らなくてもいいと判断したことといった感じ。 読み易くサクサク読めるし結構いい買物だったと思う。 とりあえず JPG をやめて TIFF にしようとしたところ、 D70s は TIFF 画像で保存できないということが分かった。 susie でも Gimp は RAW データを扱えるには扱えるが、 サムネイル用の小さな画像しか扱えない。 susie は見るだけだからそれでもいいっちゃが、レタッチソフトである Gimp でそれでは扱えないも同じことだ。 しかし Photoshop は RAWデータも難無く扱ってくれた。 Photoshop を買ってよかったかもしれんと思った瞬間。

しかし Nikon製 Picture Project は本当どうしようもない。 写真ファイルを一々登録しないと使えないようだ。 自分だけで編集から整理まで全てのことをやろうとしているダメアプリっぽい。


2007年10月31日(水)

学生の課題に選択問題を含めた。 1つは 0.1 を100万回加算するなどの結果から演算誤差を論じるということ。 もう1つはフーリエ級数から得られるπを求める式を使ってπを求めるというもの。 両者を比べると前者の方が計算機の論理的構造を理解していないと答えられない問題のため難易度が高いのだが、数式の出ている後者の方が一見難しく見えるという罠を仕掛けている。 案の定「前者の方が簡単そうに見えた」という奴が沢山釣れた。 「馬鹿だなあ、数式があるってことはその通りにプログラムすればいいだけなのに」などとほくそ笑む。 その上で分かる奴には、「こっち(後者)の方がヒントが沢山あるし簡単だろう」と言外のメッセージが伝わったようで、個人的にかなり愉悦にひたれた。 いやいやこいつらは両方の問題に取り組む猛者だったわけなのだが。 さて、どんなレポートが出てくるかな。

大学の教員には研究者としての側面と教育者としての側面の両方を求められる。 合格点を60とした自己評価では、俺の研究者としての適性は 40、 教育者としての適性は 90くらい。 俺の本当の適所は高専かもしれない。 まあ事務処理能力はある筈だし、上手くやれば研究者としての能力ももっと鍛えられるかもしれんが、 しかし今更こんなことを言ってる時点で本当にもうどうしようもない。


最新日記の各日付が当該月の日記へのリンクになっています。 さらに過去のものはトップページから辿れます。

| トップページ | bbs |