きづき(日記)

きづき、またかんがえたことをしるす (いっぺい)
Last modified : Sun Oct 01 01:43:15 JST 2006

2006年10月01日(日)

wav ファイルの末尾に無音部分を追加する Ruby スクリプトを作った。 今回の課題はバイナリファイルの入出力を行うこと。 ファイル全体を読み込んでオブジェクトとして管理しそれから書き出しているので、 動作は重い。 まあ使うのは数ヶ月に1度くらいだろうからこれでもいいか。 しかしそもそもこんなことせんならんのは、俺の持っている mp3 プレイヤーがクソな所為だ。 くそう。


2006年10月02日(月)

『マリア様がみてる チャオ・ソレッラ!』。 小説というより日記みたいで、イベントがストーリーと有機的に繋がってない。 イタリアへの取材旅行が経費で落ちたのかな、と思ったら、やはりそのようだった。 でもまあこれくらいの描写は必要なのかもしれん。 山百合会的に、あるいは姉妹(スール)システム的に重要なイベントでなくても学生としては3年間の一大イベントだから、「リリアンの修学旅行ってどんなんだろう?知りたい!」と思う読者も相当数いるだろう。 というわけで修学旅行自体を描かないという選択肢は選びにくい。 それにもし仮にイタリア旅行したことある読者なら、プラス修正が働くかもしれないし。


2006年10月03日(火)

『マリア様がみてる イン ライブラリー』。 これはかなり良かった。


2006年10月04日(水)

通勤のタイムロスを節約できないかと試みに研究室に泊まってみた。 しかし、寝ても寝ても体力が回復し切らないし、仕事への気持ちの切り替えが上手く行かない。 通勤のタイムロスを含めても家に帰った方が時間を効率的に使えそう。

うを、スケジュール管理を誤った。 鬱。 寝る前に次の日の予定を確認することを失念していた。 夏休みボケか。 二度と繰り返すまい。

学生の学習意欲向上を図るにはどうすれば良いか? 以前も書いたことがあるが、私は目的を提示することが大事だと思う。 具体的な講義のテクニックとして、講義の最初の10分でその日学ぶことがどのような問題解決に役立つのかを具体的に示すのというはどうだろうか? その後の80分間意欲的に吸収しようというモチベーションが高まると思うのだが。

私が1回生の時に受けた微積分学は何の為にやっているのかがサッパリ分からず、機械的に作業していただけだった。 当然つまらない。 今はどのように使うことができるか分かるし、純粋に数学という体系の中で微積分学が占める位置についてもある程度の知識があるし、厳密な論理というものにも興味があるからもし今学ぶならば当時とは段違いのモチベーションと吸収力を発揮できるだろう。 線形代数についても「連立方程式を効率的に解くために発展した。計算機を使って解く時に便利ですよー」ということを最初に提示してくれたら (あるいは強調してくれたら)楽しかったのに、と思う。 後年自分の目的の為に独学で線形代数の教科書を踏破した時は、そりゃもう楽しかったものさ。

一般教養と専門科目の分業はコストの面からは不可欠なことなのだろうけど、教育において何より大切な目的意識を提示するという意味ではこの分業は正直良くないと思う。 複数学科から構成される受講生相手に特定の具体的な目的を提示することは困難だから。 また、その専門で到達できる目的地点を提示する事は、その専門の先生以外ではできない事だから。

1回生の前期に、一般教養で学ぶべき科目が専門科目とどのような関係を持っているのかを提示してやる授業というのがあってもいいのかもしれない。 シラバスを精査すれば書いてあるとは言えるけど、例えば「微分積分学を必要とする専門科目を列挙し、その専門科目の目的を理解する」という事を全ての一般教養の科目について行うのは、普通の人はやらないだろう。 既に提示されている情報を逆方向にまとめた物は、新規性には乏しいかもしれんがかなり有用な情報なので、このアシストはあってもいいと思う。

私は「僕の考えた具体的なテクニック」をかなり確として持っているが、実際には講義を持ったことがないので偉そうに語りにくい。 特に公の場では。 先日開かれた Faculty Development の会議ではそういう気後れもあって発言できなかった。 でも私は講義を持ったことはないけれど、一番最近まで講義を受けていた、という立場を利用できる事に気付いた。 次の機会にはぶち上げてみようかな。


2006年10月05日(木) 「♪理想と現実、大分違うから夢から覚めなさい〜」

仕事の処理において、「効率的であるべき」という指針が私の中でかなり上位にある。 ここで言う仕事は雑務の事であり、どのような処理の仕方をしてもアウトプットが一定という性質がある。 すなわち効率的というのはその処理にかかる労力を極力減らすことに相当する。 最も効率的な処理に比べて効率の落ちる処理は、その余分にかかる労力の分が無駄になっている。 誰だって、全く同じ大根が200円と250円で売られていれば、200円の方を選ぶだろう?

以前「効率的でないから、その方法はやめて欲しい」と言ったら大層嫌な顔をされたことがあった。 多分あれは、俺の処理能力にまだ余裕があったように見えたからなんだろうな。 私の処理能力に余裕があったのならば、双方の比較不能な価値観の衝突ということで私の美学を一方的に押し付けるのは必ずしも善いことではない。 しかしあの時私は処理能力一杯一杯の仕事を抱えていて、効率的であることが美学として以上に必要性として求められていた。

平然とした顔で仕事をこなす方が格好良いと思っていたけれど、 そして「自分はこれだけ仕事をしている」と表すことは下品だと思っていたけれど、 そゆことしてると負荷がそこにばかりかかってしまう。 しんどい時はしんどいというパフォーマンスが必要なんだな。 これができて初めて社会人ということか。


2006年10月06日(金)

教育についての講演会。 個々の具体例は新鮮だったが、大筋としては既知の知識の上書きにしかすぎず、私にとってあまり意義はなかった。 それに大学運営に大きな影響を持つ教授クラスを主な対象として設定されていたみたいでやや場違い感。

プレゼンテーション技術として大きな声というのは有用な道具だと思った。 取り敢えず声がでかいだけで眠気が飛ぶし、内職に集中しにくくなる。


2006年10月07日(土)

集中力ってのはかなり貴重なリソースだ。 今まさに集中力が乗りかけたこの瞬間に、特に今でなくてもよい話を話かけられるのは大変苦痛。

まあこれが職場だったらある程度構わんのだがな。 例えば学生の対応をすることが、あるいは他のスタッフと意見を擦り合わせることが、私に与えられた仕事の欠くべからざる一部なのだから。

コシヒカリで作ったという酒が酒屋にあったので面白がって買ってみた。 変な味はしないし上品におさまってる。 が、それだけ。 65点。


2006年10月08日(日)

『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』 当時小学生低学年の俺が母と姉と一緒に劇場まで見に行った奴だ。 個々のシーンが怖ぇ。 当時の記憶が蘇える。

てゆーかセンス爆発だよなあ。 こんなもん作っちゃいかんだろう。 でも俺は好きだけどな。 今の俺は、こういう変なのが。


2006年10月09日(月)

『Kanon』のアニメ。 すげーいいニオイがする。

デジタル一眼レフを買おうという話。 今の俺にとってのベストを探る作業は適当に切り上げて、とりあえずエイヤっとやってしまうべきなんだろうなあ。 これが人生で最後のカメラ購入というわけではなく、10年後にもうちょっと良い物を買うための勉強をするために買うという位置付けということにして。

山口の金冠黒松という酒を楽しむ会。 やはり私は原酒にあまり慣れてないので比較しづらいのだが、たぶん原酒にしてはサッパリしていたと思う。 火入れした酒を見掛けたら飲んでみてえな。

1本、明らかに変な匂いを発してる酒があった。 面白いから好きなんだけどな、こういうの。 でも売れねえだろうなあ。

酵母の働きによって糖はアルコールに変えられる。 しかし高アルコール環境下では酵母が生きられないため、醸造によって作られる酒のアルコール濃度には上限がある。 30度とかいうアルコール度数の酒は一般に醸造のみでは作ることができず、蒸留などのプロセスを経ることになる。 金冠黒松では35度の日本酒というのがあるらしいので、そのことについて聞いてみたところ、やはり醸造で出来るのは17度付近なのだけれど、アルコール添加で35度まで度数を上げるとのこと。

通常日本酒は酵母の活動を止めるために適当なタイミングで火入れして殺菌する。 しかしアルコール添加で度数を上げることでも酵母を殺すことができる。 この時酵母は死ぬが酵素の活性を止めるためにやはり火入れが必要だとか。 この火入れの有無でそれぞれ味わいが異なるらしい。

なおアルコール添加は味を整えるために必要なことも多い。 美味しんぼではアルコール添加は純粋な悪だったが。


2006年10月10日(火)

科目選択の自由度が高ければ、学生は取るべき授業を選択するために自分で科目について調べるだろう。 それが自分の利得を最大にするからだ。 その結果、学生はその授業についての情報を授業が始まる前から積極的に得ることになる。 対して科目選択に自由度がなければこの必要がなく、1回目の授業が始まる時点でその授業に対する知識が皆無であるということもありうる。 「学生は授業を受ける前にシラバスくらいは調べるべき」というのは真っ当な意見だが、べき論で終わらせるのではなく、するべきことを促すシステムの方が優れていると私は思う。 近年は大学教育が規格化される風潮があり、学生の選択できる科目の自由度が減る傾向があるが、これは学習のモチベーションや目的意識を植え付けるのにはマイナスに働くのではなかろうか。


2006年10月11日(水) Tsun が Dere する5秒前

『マリア様がみてる』最新刊まで追跡完了。 まー、連載漫画を追い掛けるのと同じ程度には追い掛けてもいいかな。 それはそうと、志摩子さんがいい。 志摩子さんがいい。

『アグネス仮面』完結。 ヒラマツミノルはシリアスなストーリーを作ることを考えずに、 派手な話だけを繋いでエンターテインメントに徹するべきだと思う。

今日は Gimp をちょっと練習。 個人的には使う必要はあまりないのだけれどね。

テレビや CRT ディスプレイは光点が移動することで面としての画像を作り出している。 だからカメラで写すとシャッターが開いていた間に光った部分だけが写り、それ以外の部分は黒い帯のようになってしまう。 これがあまりに強く刷り込まれすぎていたので、パソコンのディスプレイを写すことを無意識に避けていた。 だから他の人が写した液晶ディスプレイの写真を見て吃驚してしまった。 液晶は綺麗に全面写るのだ! 考えてみれば確かに液晶はバックライトは点灯しっぱなしだし、 一秒に何度も遮光できるようなデバイスではない。 一秒に何十度も遮光←→透過を変化させられるようなデバイスではない。


2006年10月12日(木)

組織の効率的な運用についての議論があって、そこで「無駄遣い」についての意見のやりとりがあった。 私が気付いたのは、無駄という言葉の定義が彼我で異なっている、ということ。 私は「理想的な運用で必要なコストに対する、現実の運用における余分なコスト」を無駄と呼ぶことが多いが、これに対して「一つの目的のために全員のコンセンサスの下に使用されたコストなら無駄ではない」という立場もある。 前者(私の意味)では無駄な要素のない運用なんてのは現実的にはありえないため「全ての運用には無駄が含まれる」と言えるし、後者では(拡大解釈すれば)「無駄な運用なんてものは存在しない」と言える。

勿論、私はどちらも間違いではないと思うのだが、相手はこの違いに気付いていなかったような気がする。 あの場では言葉の定義なんて議論するべきではなかったのでつっこまなかったけれど。

この差は理想主義と実用主義との差、あるいはテレビゲーム的な用語では LAW(秩序) と CHAOS(混沌≒自由) の差とも言えるだろう。 こうやって考えたら、俺ってガチガチの LAW タイプだな。 自分でも、実用主義的な素養も育てなければならないとは思うのだけれども。

世で偉くなった人は、理想主義的な側面よりも実用主義的な部分が大きな人が多いのではなかろうか。 たとえば会社を上手く運営して大きくするという手腕には実用主義の必要性が大きいように思われる。 対して理想主義で大きなことを為した例は共産主義組織の首脳くらいしか思い付かない。

私はかなり、理想主義に傾倒している。 きっとそれが私の最も至らない部分なんだろう。 きっと私は、世界の在り方を捉え損なっていた。 世界はべき論で捉えるべきではない。 ただそう在るだけなのだから。 私にはもっと、諦めることが必要だ。


2006年10月13日(金)

PC ソフトを購入してみると、中身は必要とされる体積よりカサ上げされていることがある。 消費者としてはパッケージが小さい方が有難いのに、と思う。 しかしベンダの立場からすれば、パッケージが大きい方が店舗にて陳列される時に幅の広い方が棚の中で目立つという利点がある。 その分客の目に止まり購入される機会が増える。 すなわち個々のベンダには、より大きなパッケージングを行うというインセンティブが働いている。 目立つということは他との対比に相当するので、全てのソフトウェアが同じ比率でパッケージングを小さくしても状況に大きな変化はない。 またパッケージングを小さくした方が、保管・輸送コストを下げることができる。 全員が足並みを揃えてパッケージングを小さくすることが関係者全員の利益に適うわけだが、行うのが自分だけだったら自分だけが不利益を被ることになる。 軍縮と同じ構図だ。


2006年10月14日(土)

研究室に来客を迎える仕事ができたので出勤。 通勤途上に父の墓のある寺があるのでついでに墓参り。 そして通天閣をくぐってみた。

イニシアルコストをかけてランニングコストを下げることが、私の行動の基本的な指針だ。 それは例えばコンピュータをより便利に使うために UNIX に習熟したりすること。 しかし人を使って仕事を処理するという意味では、全く逆の方策を取っていることに気付かされた。 仕事のできる人を育てて彼に仕事を任せるという方策は、今迄ほとんど取ったことがない。 なまじ自分の処理能力が高いため、個々の場面では他の人が対処できるように教えるコストの方が高くつく。 そして、「彼」が望む通りに成長してくれるとは限らない。 技術とは人間によって向き不向きがあることだし、「彼」が次代に継承せずにどこかに消えてしまうかもしれない。 人を育てて仕事に当たるというのは投機性の高い、ぶっちゃけ博奕ということか。 対して自分でやること、自分を鍛えるということは極めて確実性の高い方策ということになる。 こう考えると、人を育てる方針を取らなかったことには、投機性より確実性を好む性質が影響していたと言える。 世の教育者はみなこの障壁を乗り越えてきた、ということか。 昔、某が言った「手下を育てようぜ」という言葉が胸にチクリと刺さる。


2006年10月15日(日)

子供の頃、偶に父は私達姉弟の布団の横で本を読み聞かせてくれたことがあった。 思えばあれは話の内容はどうでも良くて、ただ父が声を聞かせてくれるということが嬉しかったんだろう。 だって父が椅子を離れるまで夢の世界に落ちずにいられたことなんてなかったし、それでも満足していたのだから。

そういう本の一つが『ちいさいモモちゃん』シリーズ(松谷みよ子)。 このシリーズに『アカネちゃんとお客さんのパパ』という本がある。 大変おも(しろ)いタイトルなのでいつか読み直してみたいと思う。

『皇国の守護者』(小説4)。 ああ、丸枝中尉いいなぁ。 ガス抜き役の素晴らしき効果。 作品全体のシリアス感、緊張感が高いほどこういうキャラクターは必要だし、同時に効果は高い。

仕事。 申請書書くってしんどいなあ。


2006年10月16日(月)

論文書くのが嫌、それは英語で書くのがしんどいから。 英語でさえなければこれくらいちょちょいとこなせる気分でいた。 しかしこれが間違いだったということを、申請書を(日本語で)書いていて気付いた。 これまで私が触れた英語というのは仕事に直結し高い厳密性が求められていたので、そのための辛さを英語の辛さと混同していたのだ。 これは刷り込みに近い。 「英語は辛いものだ」という。 半定量的には、英語で論文を書く作業のしんどさは3割が論理を組み立てること、7割が言葉を選ぶことに相当している。 類義な表現の中から最適と思われる表現を探す作業は日本語においてもそこそこ時間がかかる作業だ。 よく考えたらこの日記書くのも、1日分のこの程度の文章量でも20分くらいはかかってる。 また、英会話のレッスンでは毎回宿題として A4 1〜2ページの文章を書いているが、その作業は気楽で論文を書く程しんどくはない。

ちなみに日本語で最適と思われる表現を探す作業は、大変ではあるが結構好きな作業。


2006年10月17日(火)

フツーの就職活動を一切やったことないというのはそれなりに珍奇なものなのか。 飲み会で就職活動関係の話になって全然口を挟めなかった。 まあダメオタ志望で1年足踏みすることを希望していたことなんざ言う必要なかろうが。

漫画を描くことが私の人生に与えた影響とは言えるかもしれんな。 まあ、たとえこの世に漫画が存在しなくても、他の何かで同様になっていたとは思うが。


2006年10月18日(水)

不思議だよなあ。 何でおれ、こんな仕事してるのかなあ。 この世界は、十回ほどダイスを振って俺にとって一番良い出目を選んだ世界のようにしか思えないのだ、俺には。 どう考えても他の無数の俺は今の立場を得ておらず、もっと辛い人生を受け入れているはずなのだ。


2006年10月19日(木)

研究の進め方を聞きに京都にちょこっと出張。 そこで後輩に誘われて筋トレ。 普通はしないよなあ。

例によって夜の部で酒かっくらった後、吉田寮へ。 新入寮生を捕まえて楽しく話したり、新しい漫画を読んだりしてたら終電がなくなったので、そこで泊まることに。


2006年10月20日(金)

早朝出発、しかし第一の目的地は鴨川河川敷。 後輩に誘われて早朝サッカーに参加した。 それから出勤。

アナウンスだれも聞いてねえ。 こんなんだったらわざわざ自分の労力を消費してアナウンスする必要ねえよな、といやな気分になった。 しかしまあ、奉仕的な行動は聖人君子の心を持たぬ限りすべきではないということだ。 人間社会はこういう風に出来ている。 「みんながこうするべき」とか「私がこれだけやってるんだからこれくらいして欲しい」などと思ってしまうような小人がそういうことをやると、自分も他人も不幸になる。

まあこういうことで鬱になるのは肉体的な疲労が効いてるからだ。 寝たら回復することが経験上分かっている。 ということで19:30 には布団の中で眠りに落ちていた。


2006年10月21日(土)

今週はしんどかった。 みっちり詰まってた。

手下を育てる話。 基本的に私は他人を信用してないんだろう。 自分で片付けた方が、確実に終了するし、美しく仕上げるし、メモもキチンと残せる。

てゆーか、安心して雑用処理を任せられる人間というのがそもそもごく少数なのだという気もする。 他人に仕事を投げたとしても、仕事が私の手を経由した時点で私には仕事を完了させるという責任が残るわけで、そうなると他人に仕事を投げてもそれが完了したかを確認する必要がある。 結局私の負担は減らない。 他人に投げた時点で完全に忘れるようにすべきなのか? 私はもっと無責任にならなければならないのだろうか?

マザー、CPU、メモリを買ってきた。 通電はするが画面出力が出ない。 初期不良か……?

一度試してみたかったので成分献血というものをやってみた。 するとなんだかサービスがいい。 聞いてみると、どうやら成分献血の方が赤十字的には有り難いらしい。 ナース服のおねいさんはイマイチ明快な論理で答えてはくれなかったけれど、私の推論を交えて答えを探してみると、以下のようになる。 血液の中で最も求められている資源は血漿・血小板であり、赤血球・白血球はあまり必要とされていない。 人体から失われたとき、速やかに回復されるのは前者であり、後者は回復が遅い。 なので血液提供者からは血漿・血小板のみを回収し、血球は取らないようにすれば、速やかに次回献血してもらうことで血漿・血小板を得ることができるため単位時間に得られる重要資源の総量が増えることが期待される。 これが成分献血だ。 成分献血は血液提供者の体の負担も小さく赤十字からしても必要な資源を多く確保できる手段だが、問題は一回の採血に時間がかかるということ。 それでも成分献血してくれる血液提供者には感謝してしかるべき、ということっぽい。

……ということで、今日は歯磨きセットを貰ってきました。 これで研究室に泊まった時も健康歯ライフが送れるぜ。


2006年10月22日(日) 「朝起きて、夜寝るまで昼寝して、時々起きては居眠りをする」

起きてる時間の半分以上の時間を寝ていたぜ。


2006年10月23日(月)

モノクロテレビの仕組みはなんとなく分かっていた。 今日、カラーテレビの仕組みが唐突に分かった。 ディスプレイ上をRGBRGB……と敷き詰めておいて、それらの画素の輝度を順に電子銃に伝えていけば、カラーの映像が得られる。 カラーテレビの「赤←→緑」という色調調整は、その信号を電子銃に伝えるタイミングを前後させることで行われているに違いない

教育ってコストかかるなあ。 だからこそまあ教育が商売になるわけだが。


2006年10月24日(火)

核反応の臨界という現象がある。 ある程度の濃度を越えると、ある原子核が崩壊したときに放出された中性子が別の原子核に衝突に衝突する期待値が高まり、次の崩壊が連鎖的に誘起されるという現象。 ポイントは、濃度が高くなることで効果が爆発的に高まるということ。

で、英語学習ってのは量ではなく、ある程度の濃度が必要なのではないかと思ったわけで。 英文に触れていて初めて見る/忘れていた表現に出会うことは頻繁にあるわけだが、 もちろんそれは1回見ただけで放置すればまた忘れてしまう。 そこで2回目にその表現が使われるのが前に使われた時からあまり時間が経っていなければ、学習の効果が高まると思う。 「使われる」ということには、受け取るだけではなく、その表現を自分で発信するのに「使われる」ことが含まれる。 組み合わせ(n(n-1)/2)っぽい感じだし、大体濃度の2乗のオーダーで効いてくるんちゃうかなあ。

英語社会(海外)に行くと、この濃度が自然に与えられる。 英語を学ぶために海外に行くことの効果として、「使えなければ生きていけないから」という精神論は認めるが、上記の濃度の議論は定量的な議論としてそこそこ有効なのではないかと思う。


2006年10月25日(水)

学生の面倒見るのにてんやわんや。

ラスボスを倒したとしても気を抜いてはいかん。 家に帰るまでがドラクエだぞ。


2006年10月26日(木)

学生の面倒見るのにてんやわんや。 その2。


2006年10月27日(金)

学生の面倒見るのにてんやわんや。 その3。

自分への評価というのは、どうやっても定義上主観的ということになる。 まあそれはそうとして、私は日本語に対する感覚が鋭く「なぜその表現を選んだのか」ということを論理的に説明する能力に長けている方だと、自身について思う。 ……今日の仕事はまあそんな感じ。

そういえば「『庭に出た』と『庭へ出た』の違いを文豪夏目漱石に尋ねたところ明快な答えは得られなかった」という話が最近新聞に載っていたが、私は一応説明できる。 現代語では「に」と「へ」は供に「場所・方向」を指す助詞であるが、そもそもは「に」は地点を、「へ」は方向を表す助詞だった。 例えば「そこにいる」は正しいが「そこへいる」はおかしいだろう? これは「いる」は移動ではなく、定置に存在することを表す動詞だからだ。 このことから、私は「に」から地点を表しやや具体性の強いイメージを、「へ」から方向を表しやや具体性の弱いイメージを受け取る。 「庭に出た」を用いると、庭に出た、というビシッと明瞭なニュアンスを強調できると思う。 また、「庭へ出た」だと、庭に出るという行為に重点が置かれた、やや心象的なニュアンスを強調できると思う。

帰途に日本橋。 先週買った PC は 初期不良ではなく CPU の端子をかしめるネジの回しが足らなかったためだった。 どヌル。

ということで組んでみる。 以前の Celeron 1.7GHz より速くなった気がする。 まあ普段の用途で CPU を必要とする処理をあまりせんから定量的にはよく分からん。 ベンチマーク取ってチェックする習慣ないし。 まあ速くなることよりも消費電力を少なくするということに金を払ったという意味合いが強い。 それに付随的なことだが、静かになったのがとてもいい。 すなわち、「キモチイイ」という奴……だ!

ちなみに今回の CPU は Core2Duo T5600(1.86GHz)という奴。 本来ノートPC用で、35W程度。

店で見掛けたのだが、Via Eden でまたイカしたボードがでてた。 オンボードにファンレス CPU および一揃い載っていて、12cm 角のマザーボード。 イヤン、ステキ……!


2006年10月28日(土) 「今週もしんどかった……。しんどかったぞーーー!」

Windows のスタートメニューのクラシック表示をやめてみた。 デスクトップのテーマも XP 標準にしてみた。 こいつらはなんかムカつくが、あるものを受け入れて生きるようにした方が、俺個人の幸せの度合いは高まるかもしれない。

宴会後、学生とカラオケ。 声楽でもやってはったんですか、伸びのあるええ声したはりますね、と褒められた。


2006年10月29日(日)

私はあまりヒゲが濃くない。 数日に一度思い付いて、チョボチョボと頭を出す毛の頭をピンセットや毛抜きでつまんで抜くという作業をくり返していた。 てゆーか、毛を抜くという単調作業が結構好きなんだな。 だから、だからこそそれをやらずに耐えるということが motivative に思えた。 ということで今2週間。 傍目には今かなり見苦しいし、そもそもヒゲが濃くないため最も茂った状態でも見窄らしいものにしかならないことも分かってる。 問題はどこでヒゲ伸ばしを打ち切るかなんだけど、どうしようかな。

こういうことをやっていてもある程度許容される職業に在るんだな、と (本当に許されているのかは分からない。許されていないことに気付いていないだけかもしれない)。 まあそうだとしても授業期間中はやるべきではないような気も少しするんだけど。


2006年10月30日(月)

自転車での退勤途上、ユニクロを見つけた。 出不精の私にとっては通勤のついでに寄れるというのがかなりでかい。 これで俺もユニクラーになれるか。 今迄俺はユニクラーですらなかったからなあ。

あと大きめの本屋が欲しいんだが。 私が買うような本は日本橋のオタ本屋で大抵手に入るのだが、あの辺は混雑するから自転車でもあまり行きたくない。 まあアマゾンでいいっちゃいいんだが。


2006年10月31日(火)

自転車通勤の経路選択の最適化が進む。 最初60分だった所要時間が 45 分まで短縮。

『皇国の守護者』(小説)。 今7巻。 新城は「社会に理解されぬ才人」という世の多くの人が得てして負いがちな妄想を投影する対象としての機能を持っている。


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