ある人が川へ魚を釣りに行って「釣果はマイナスだった」らしい。 さて、どういう事だろうか?
答えは、鮎の友釣りをしようとして、最初に付けた1匹に逃げられた、ということ。 釣果は「目的とした魚を何匹釣ったか」ということで数えられるべきなので、 鯛を釣ろうとして海老に逃げられてもマイナスとは言い難い、と私は思う。
さて、鮎漁をするには地域の漁協に申し込んで然るべき金を支払う必要がある。 釣果がマイナスということは、結果的には放流ということになる。 逆にお金を貰っても良いんじゃないのか、という冗談。
そもそもはローカル飲み会での肴になった話。 博識な人との話は面白いなあ。 ……多分、他所から見れば私も博識に映るとは思うが。
ついでに、鮎の友釣り(wikipedia)。
魔法を前提とする異世界を舞台にした創作シナリオを考えるでもなく考えている。 で、主人公を現代から召喚されることにしたい誘惑にかられる。 この構成は一つの定番で、既にかなりやり尽くされているパターンだ (といってもすぐには『日帰りクエスト』『魔法騎士レイアース』くらいしか思い付かないが)。 私は、基本的にはこういうことはやりたくない。 それは喩えるなら、結晶の中に異物を混入するような操作だ。 虫入り琥珀の価値や面白さは認めるが、それは結晶としての美しさではなく、異物が混入しているということで現れる面白さだ。 それはそれとして別の面白みがあることは認めるが、私の求めるものはそれではない。
それでも何故その誘惑にかられるかというと、今私が持っている全ての知識を投入できるから。 たとえば中世的世界観を舞台にすると、あまりに発達した科学知識はその世界に対して不自然になる。 数学や科学、科学哲学、ゲーム理論、社会学的な知識、等々。 これらは我々が高校で習うようなレベルであっても、その前提とされる世界ではあまりに先進的すぎるので、その舞台の人間にそのような知識があるとするならば余程上手くやらない限り不自然に見えるだろう。 日本語をベースとした言葉遊びなんかも私は好きだし、「へえ、九つで」(落語:時そば)といった文化に由来する遊びも導入できる。 中国の故事をネタに使うこともできる。
ということで現代から人物を(特に主人公を)召喚するという設定には、「消費者の共感を呼び起こす」「現代人の視点から見たその世界の相違点を消費者に紹介する」という効果の他にこういうことがあるのではないかと思った。
これに対する一つの解として三人称文体にしてしまうという手があるが、今回これは使えないだろう。 というのは今考えているメディア形態は所謂ノベルゲーであり、これは一人称文体がベストマッチするメディアだからだ。 三人称文体でやってみても面白いかもしれないが、おそらくは「紙芝居」感が浮き彫りになるだけのような気がする。
イカスミというのは美味いものだな。 これまで2店で食したがどちらも美味かった。 食材としてかなり優秀だと見做すべきだろう。
ときメモはギャルゲーの走りのように捉えられることがあるけれど、今の我々の感覚からいうとギャルゲーというよりもゲームだったんじゃなかろうか、と思ったりする。 今私がわざわざ言わんでも、何処かで誰かが言うてる事だろうけど。
製作者サイドは多分、朝日奈さんや紐緒さんといった個々のヒロインに対してそれだけで「ご飯3杯はいける」ようなフェティッシュな充足をプレイヤーに与えるつもりではなく、「完璧超人(藤崎詩織)−α」のつもりだったのではないか。 しかし特性が引き算された結果残った特徴はより強く浮き彫りにされ、それを好む人にはたまらないものとなった……。 「我々」は知っているだろう? ロリで眼鏡で巨乳でメイドといった、(背反しない限りの)ありとあらゆる属性を背負ったキャラよりも、純然たるロリの方がそれを求める人にとっての請求力が強いということを。
ときメモは製作者サイドでは、ある意味シレンのような「どれだけ深く潜れるか」というタイプのゲームを指向していたのではないか? 詩織以外のヒロインはラスボス詩織に挑むためのトレーニングとして捉えることはできないか? シレンにおいて食神やワナ師の洞窟が、フェイの最終問題に挑むためのトレーニングとして位置付けることができることと同じように。 (なお、「他のヒロインは詩織に挑むに際しての障害物として位置付けられていた」というのはどっかで読んだことがあったように思う。)
ときメモのゲームシステムは、有限な一次リソース(3年間というゲーム内時間)を二次リソース(能力値や好感度、イベント)に変換していく多くの一般的なゲームに用いられるシステムになっている(リソースの再配分)。 それに対して所謂ノベルゲーでは、選択肢はシナリオ分岐の条件としてだけ設定されていることが多い。
京都で焼肉。 名目は一応俺の誕生祝い。
寮で見せてもらった『サラリーマンNEO』が愉快だった。 『NHK でナンセンスジョークをやったら面白いに違いない』というのは野中英二の『池上遼一の絵でギャグ漫画をやったら面白い』に近い気がしたが、やっぱりちょっと違うな。
結局完徹状態で5:30発の京阪電車で帰阪。 7:30 研究室着、研究室で仮眠を取ってそのまま仕事。
他者を危険に晒すのは悪であるという認識はあったが、しかし自分が危険なのは構わない、というのはダブルスタンダードだよな。 以前にもこの認識に至ったことはあったが、忘れていた。 どれだけ注意してもミスは生ずるものだし、不幸な事故は発生するものなのだ。 自分はミスしないと考えるのは楽観視に過ぎるだろう。 自分を危険に晒すことも悪であるともう一度肝に銘じよう。
『マリア様がみてる ロサ・カニーナ』(4番目)まで終了。 なんというか、毒にも薬にもならない感じ。 とりあえず噂のレイニーブルーまでは読もう、ということで追加発注。 こんなもんに5000円/10冊、というのはワタシ的にはどうかと思うが、手軽に貸し借りできる友人が近所にいないから仕方がない。
比較すると、『涼宮ハルヒ』は文章に力があって読む事自体の面白さは高い。 だから今野緒雪よりは谷川流に金を流したい気持ちがある。 んだけど『涼宮ハルヒ』は1作目が完成されすぎてるため後のものを読みたいという気持ちにあまりならない。 ……と思いながら2作目(『涼宮ハルヒの溜息』)を読んでいる。
『スーパーサイズ・ミー』視聴。 なんつーか、陰鬱な気分になるなあ。 『ボウリング・フォー・コロンバイン』もそうだったんだけど、私はドキュメント映画というものがあまり好みではないのかもしれない。
高校時代、私の描いた机のラクガキに「うまい、もっと書いて」と傍に添えて書かれていたことがあった。 私の出身高校は定時制があったので、定時制の人からの返答だったと思われる。 も一つ描いた横に「書→描」と書いておいたら、それ以降「彼」からの返答はなくなった。
zero のメールアドレス宛のスパムがあまりに多い。 プロバイダの解約も一瞬考えたが、とりあえず zero のメールアドレスは使用しないことにしよう。 ツッコミ手段としてこのメールアドレスを用いた人はここ数年で一人もいなかったし、ここを見てる人の殆どは私の個人的な他のメールアドレスを知っているだろう。 もし必要になったらそんときに考えればいい。
話を作る舞台を構築するという作業は、俺が一生懸命遊ぶための箱庭を造ってると考えるべきか。 現代的な意味での成功に至るためには、それが他の人にとっても遊びやすい箱庭であるという観点も重要だろう。 例えば To Heart がブレイクしたのは、その世界に入り込んで遊び(二次創作)に参加し易いことが理由の一つにあったと思う。 二次創作で誰かが公開すれば、それは広告としても機能する。 二次創作の読み手の目にその「遊び」が楽しそうに映ったのなら、その「遊び」をするためにその世界に参入しようとすることもあるだろう。
遊び易さという観点で考えると、世界はあまり完成されすぎていてはいけないことになる。 一つの強いテーマを伝えるために特化した世界ではこういう遊びをしにくくなる。
二次創作のモチベーションとなるのは、殆どが個々のキャラクターとそれを取り巻く人間関係だと思う。 ということはシナリオのメインテーマを語るためだけに完成されたキャラクターはその観点では不完全なのかもしれない。 キャラクターのキャラづけにはある程度の「(余裕という意味での)あそび」が必要なのだろう。
地球−月系における衛星の挙動シミュレーション アプレット。 面白い。 ぼちぼち弄っているうちに、 衛星軌道の付近では他の天体が付近に安定して存在しにくく、 軌道の一部が交錯する複数の天体がある場合には多くの場合いつかは衝突すること (ラグランジュ点という例外はあるらしいが) が漠然と実感できた。 冥王星が惑星の定義から外されることになった条件「(合体または重力散乱で)自分の軌道の周囲から他の天体をきれいになくしてしまったもの」がどういうことかなんとなく分かった。
細かいツッコミをすると地球−月 間の距離と比較して 地球と月のサイズが大きく、そのため天体表面と衝突する(運動を終了する)条件が現実より厳しくなっていると言える。 (月までの距離 38万km に対して、地球の直径が1.3万km) でも見映えの問題からそうするのも十分アリだと思う。
今日明日はまあ余裕かなーと思って優雅に茶など啜りながら、週末に発表する学会プレゼン資料を眺めてたんだけど、昼過ぎに来たメールに何気なく「明日出張」とか書かれててビックラこいた。 どうやら連絡が私のところまで来てなかったらしい。 でそれ関連でバタバタして、ついでにセットアップ作業の進行管理とか研究室の連絡とかでバタバタバタバタとしてた。 で、結局プレゼン資料は上がらず。
『涼宮ハルヒの溜息』読了。 軽妙で、爽やかで、綺麗におとすなぁ。 ということで、大体の話を知った上でアニメ版の第1、2話を見直してみた。 出来いいなあ、面白いよ、やっぱり。
小学校の教室に居る現在の俺が、小学生の俺と会う場面の夢。 そこでバック・トゥ・ザ・フューチャー式のタイムパラドックスの懸念が浮かんで来た。 タイムトラベルした先の自分と出会ってしまうと、それだけで物理に矛盾が生じ、宇宙が爆発してしまうという奴。
ある素粒子が自分と同一の素粒子であることを認識するには、自分を認識する全宇宙で重複しないIDがなければならない。 これは現代物理学の感覚ではナンセンスだ。 異なる時間軸に属する自分と同一の素粒子(=自分の未来の素粒子)がそこにあったとしても、自分は単に同種の別の素粒子がそこに存在するかのように振る舞う筈だ。
素粒子の状態(座標、速度)は時間を変数とした絶対的なものではなく、直前の状態から導かれる遷移的な状態として逐次的に得られるものだろう(cf. 多体問題)。 てゆーか過去のある時点というのが、ニュートンの絶対時間的なイメージが強くてしっくり来ない。
もし過去に戻れたら、量子状態はどのようになるのだろうか。 観測されていないネコが生きているか死んでいるかを言い当てることができるのだろうか。
時間というものの実体は(存在すると仮定するならば)空間にあるのではなく、物質にあるのだろう?
というようなことを(半分は起きてから考えたんだけど、半分は)夢の中で考えてた。 夢の中で論理的に考えていた、ということがなんか面白かった。
名古屋出張。 選択肢があるとき、それらを一度は試すようにしている。 例えば JR を利用するか、近鉄を利用するかというような。 で、帰りは近鉄を利用したけど、2時間40分か、しんどい。 この選択肢は2000円と1.5時間の交換として機能する。
速読は目に入った文字情報を面で読むことで速度を出すらしい。 で、これと同じ能力が本屋で背表紙を眺めて目的の本を見つける能力なのだということ。 私は普通の文章を面で読むことはできないが、背表紙を眺めて目的の文字列を検索することはそれなりにできる。 学生時代に本屋で漫画本を探す作業がトレーニングになっていたとも言える。 文章でそれができないのは、そういうトレーニングが積まれていないことと、細かい文章表現が好きだということがあると思う。 情景が頭に入っても、音としての響きを楽しむために一字一句を追うために立ち戻ることもしばしばあるから。
『マリア様がみてる ウァレンティーヌスの贈り物(前編)』びっくりチョコレート。 祥子さん、あんたダメな人だなあ。
『マリア様がみてる ウァレンティーヌスの贈り物(後編)』ファースト デート トライアングル。 祥子さん、あんた可愛いなあ。
『マリア様がみてる ウァレンティーヌスの贈り物(後編)』紅薔薇さま人生最良の日。 ああ、紅薔薇さまが祐巳を「最近稀なる掘り出し物」と評価するのは、親しみ易いという特性を高く評価しているからか。
偏光フィルタを拾ったので眺めて遊んでいたら、液晶ディスプレイのバックライトが偏光になっていることに気付いた。 バックライトは導光板内の反射によって光源からの光が全面に届くようになっているらしいので、この反射によって偏光を有するようになったのかと思ったが、 話はもっと単純で液晶ディスプレイには偏光フィルタが貼られているということらしい。 ……考えてみたら当たり前だよな。 液晶は濃淡が変化する素材ではなく偏光の度合いを変化できる素材なので、偏光フィルタと組み合わせて初めて光を遮ることができるのだから。 (参考: Wikipedia:バックライト、 Wikipedia:偏光)
で、然るべき角度の偏光フィルタを通して見るとディスプレイは真っ黒に見える。 しかしディスプレイ上のホコリは白く浮かび上がるのが面白い。 もちろん、ディスプレイ上の黒い部分のホコリは暗くて見えない。
セロテープも偏光特性を持つらしいので少し遊んでみたのだが、よく分からない。 LCD→偏光フィルタの間にセロテープを固定してセロテープを通過した場合としない場合を比較する。 フィルタを回転させてみると、暗くなる角度が変化する。 この時点では、セロテープが偏光特性を持っているということしか分からず、それが直線偏光か円偏光かは分からない。
先と同じくLCD→偏光フィルタの間にセロテープを配置してセロテープを通過した場合としない場合を比較。 しかし今度はフィルタは固定、セロテープを回転させてみると、セロテープの角度によって濃淡の変化が現れる。 ということは、セロテープは円偏光ではなく、直線偏光的だと考えられる。
以上の結果から、自然光をセロテープを通すと直線偏光が得られると考えられるが、 自然光→セロテープ→偏光フィルタを通した場合、いずれの角度を変化させても濃淡に変化は現れない。 どういうことなんだろう。
午前半休、午後から市内開催の研究会。 明日から3日間、新潟で学会。 連休全部潰れます。
名古屋出張した時に、会場近くに市立科学館というのがあったので30分ばかり時間潰しに入ってみた。 それなりに面白かったが如何せん時間が足りなかった。 次に来るときはもうちょっと早く来てみてもいいかな。
丁度小学生の団体が見学していた。 そこで思ったのは、子供は操作する事が好きなのだ、ということ。 多くの子供はゲームが好きだし、「運転手さんになりたい」という夢もそういうことだろう。 考えてみたら、私が理科を好きになったのは実験という操作が楽しかったからというのがあったように思う。 初等教育では特に「操作させることで面白さを演出する」という観点が重要だと思う。
不覚。 空港から会場までの所要時間を勘違いしており、午後イチの講演を聞くためにはタクシーを使わざるを得なかった。 5000円、痛ぇ。 当たり前だが、タクシーを使いたくて使ったわけではない。
何かずいぶん鬱。 こうなりそうな予感がしたから出発前に吐き出しておきたかったんだが、どうも上手くいかなかった。
質疑応答が上手くいかず発表直後はまたもヘコんだ。 しかし発表本体は上手くできてたし、それが分かり易かったから色々質問・指摘してもらえたのだと言える。 自分の足りない点が色々明確になったわけでまあ良かったんだろうし、これで良いのだろう。
質疑応答でどうしても理解できなかった点を後から一対一で尋きに行くとちゃんと理解できた。 これから、分からない質問があって時間内に理解することができなかったら、休憩時間にちゃんと尋ねに行こう。 もしそれでも理解できなかったとしてもポインタは示してくれるかもしれない。 必要なのはガッツだぜ。
ゴマの油は絞れば絞る程出ると言われる。 もう何も出ないように見えたとしても絞れば何とか結果が出ると、彼らは私をそう評する。 しかし絞られる方はたまったものではない。 ……と思っていたのだが、考えてみたら絞る方も大変なのだ。 何といっても、絞らなければ出さないんだから。 と、絞る側の立場に立ってみて漸くそう思った。
今思うと友達にかなりの友情を示してもらっていたのだということに、後から気付いたということが幾つかある。 当時の俺はいつもそれに気付かぬニブチンだったというのが困ったもんだというか、ある意味、俺萌え! 勿論、全て男友達とのことなのでロマンティックな話では全くない。
『マリア様がみてる』レイニーブルー(ロザリオの雫)。 蔦子さん曰く「そっちの世界は、見ているだけで、一緒に写りたくはないの」。 それは全く、貴女たちを見る私の気持ち。 蔦子さんのその気持ち、いいな。
随分体力が削られてたらしく、帰りの飛行機から降りてタラップを渡っていたら気分が悪くなった。
出張時に使っているカバンがイマイチ。 肩ヒモ使用時は肩ヒモと干渉して開けにくいし、ポケットが多すぎて何処に何を仕舞ったか分からなくなる。 今まで物を失くしたと思っていたら数ヶ月後、このカバンのポケットからそれが出てきたことがある (最近では懐中時計が発掘された)。 近いうち、ちゃんと気に入ったものを買おう。
「スーパーサイズ・ミーを天一でやったらどうなるだろう」と思ったが、そんなモチベーションは成立しないわな。 別に天一は完全栄養食を謳っているわけでもないし、偶に食うから美味いということを彼ら自身も分かっている筈だ。 それに毎日同じ物しか食わなけりゃどんなものでも体に良くないということは(日本人にとっては?)半ば常識的だし、懲罰的罰金という制度のあるアメリカと違って日本ではそのような裁判は起こらなさそうに思える。
『マリア様がみてる』(10)レイニーブルーまで読了。 噂のレイニー止めといふものを、みづからしてみるものなり。 で、これくらいの引きは単行本としてもアリだと私は思うんだけど、筋が通っていないと思う点がある。 『ウァレンティーヌスの贈り物』や『いとしき歳月』は上下巻になっているが、 これらの方が各巻の独立性が高い (= 『レイニーブルー』の方がこれらよりも後続の巻への依存度が高い)と思う。 なのに前者2つが上下巻になっていて、後者が続き物であることを明示したタイトルになっていないのはおかしいと思う。 あるいは、ウァレンティーヌスなども含めて全巻異なるサブタイトルをつけておけばダブルスタンダードっぽい印象を受けずに済んだのに、と思う。
二次創作での流行を狙う一次創作において創られる世界は、ある程度小さい方が良いのではなかろうか。 ある程度制限があった方が、具体的なイメージも実感として持ち易いから。 全く白いページを与えられるより、何らかのお題を与えられた方が描き易いものだから。 全く関係ないけど、門に活の字を書いたという、曹操と楊修のエピソードを何か思い出した。
『他人の家』深巳琳子。 すげー。 素晴らしい。 恐ろしく気分が悪い。 話が通じないこの恐ろしさ。
新潟出張でプロペラ機に乗ったんだけど、あのプロペラって随分進行方向に対して平行に近い角度で付いてるのな。 考えてみれば、飛行機自体は 600km/h とかの速度で飛行するわけだから、プロペラの回転と空気の流れを足し合わせたベクトルに対して推力を生むように空気を切る必要があるわけだ。 プロペラの1枚に注目すると、根本ほど平行に近く、先に行くほどねじれるようになっている。 これはプロペラの、回転運動の外周部ほど運動速度が速くなるからだろうな。
私には自分の正義を無前提に信じる嫌いがある (まあ私に限らず他の多くの人間もそうだろうと思うけど)。 そのため他者による気に食わない行為を指摘することは、「正しい」立場から相手の非を非難することと同義になりがちだ。 そこで却って、人間関係に変な波風を立てないように、その意見を発しないまま飲み込んでしまうことも多い。
しかしその他者の行為は、私よりももっと高い視点、深い洞察からの行為なのかもしれない。 そうであるならば、私は他者の行為を不当に貶めていることになるし、自らの改善の可能性を閉ざしていることになる。 それに飲み込むこともそれなりのストレスだしな。 真に友たらんとするのなら、これくらいは言い合えるべきだろう。 そして言い合うことができない人だったならば、その意味での友たるに足らんとも言えるわけだし。
私は基本的には相対主義者な筈なのだが、自分の立場が正しいと信じ込むことはこの立場と矛盾しているように見える。 でもまあ「自分の立場が正しいと信じてしまうこと」はたぶん人間の本質だし、 「自分より正しい立場がありうるから、もしそう信じられる立場に出会ったならば考え直そう」という立場を取り得るのは相対主義的だからこそだわな。 問題は現在の自分の立場と対立する概念と出会った時に、自身の立場を固執すべきものとして捉えるか、変容しうるものとして捉えるかだろう。
それはそうと、何故このような振舞いをしてしまうのか。 それはきっと、他者が私と同じように振る舞ってくれるとは限らないからだと思う。 ここで偉そうに語っていても、やはり他者から拒絶されるのは怖いことだから。
この辺の考察ももう何度かやってるような気がするな。 でも難しいべ。 自分一人で完結できる問題ちゃうし、常にケースバイケースやし。
『憲法と平和を問い直す』(長谷部恭男)。 選挙というものに与えられる位置付けは幾つか挙げることができるが、その中の一つに構成員の利害を単純に定量化するというのがある。 この観点に立つならば、個々人は投票する際には社会全体の利益を考えて投票しては「いけない」ということになる、とのこと。 なぜならその意味での選挙では「その選択によって利益を受ける人がどれくらいいるのか」という調査をしているわけで、そこで「自分は僅かに損をするが、社会全体としてはそっちの方がずっといい」という選択肢を選ぶ投票は調査の結果を濁らせることになるからだ。 ……とのこと。 ふむ成程、その位置付けにおいては確かにその通りだ。
「もったいないおばけ」って、公共広告機構だったんだな。
現在地球の大気は窒素が8割、酸素が2割になっている。 もし大気の窒素が全て二酸化炭素だったとしたら、動物は呼吸できるだろうか。 高校生くらいの問題。
赤血球のヘモグロビンは、簡単に言うとO2の多いところでは O2 を取り込み、少ないところではO2 を放出する。 また、CO2 についても同様の機能を呈する。 もう少し厳密に言うならば、これらの反応は化学平衡に基いている点に注意しなければならない。 すなわち O2 や CO2 の絶対量が問題ではなく、雰囲気の O2 と CO2 の比によってその挙動が変わるということ。 たとえば O2 の分圧が 0.2気圧であり、 CO2 の分圧がほぼ 0 と見做せるのならばヘモグロビンは O2 を取り込み CO2 を放出する。 しかし O2 の分圧が同じく 0.2気圧であっても、CO2 の分圧が極めて高いならばヘモグロビンは O2 を取り込むのではなく CO2 を取り込んでしまう。 結果、動物はそのような環境下では呼吸によって有効にガス交換することができなくなる筈。
と思う。 実験したわけでも、またちゃんとした文献に当たったわけでもないので間違ってたらご指摘ヨロ。
タレコミによると『コロ助の科学質問箱』にこのことについての言及があったそうな。 以上の議論の少なくとも一部は裏付けられたと言えるだろう。
霞ヶ関と霞ヶ浦を混同していた男がいる。 霞ヶ関と聞くたびにチバラギをイメージしていた。 ……俺のことだ。
アリとアリクイ(むしまるQ)。 こんなに良い歌は滅多にないよな。
『マリア様がみてる』子羊たちの休暇。 今思うと、彼女たちの毎日は、伏線を消化するためにあくせくしていたように思えた。 今は、全く新しい、どう描かれるか決まっていないキャンバスを描くように、新しい毎日を遊んでいるように見える。
Windows のメーラは二度と使うことはないだろうと思っていたのだけれど、実は Becky! あたりを使うともう少し生活が便利になるかもしれない。 というのは、仕事していると Word や Excel のファイルが添付されていることが多々あって、UNIX メーラを使っているとそれを開くが面倒だから。 普段は家PC に ssh で繋いで mutt でメールを見ているわけだけど、この家PC を IMAP4 サーバにしてしまって Becky! あたりの IMAP4 対応クライアントを使えば、そのまま添付ファイルが開けるようになるのではなかろうか。 という皮算用。 暇になったらやってみよう。
金属を加熱すると変色する。 たとえば鉄板や、針先をライターで炙って、このような変色を経験したことはあるまいか? これが何故かというと、金属表面に酸化物の層が出来るから。 酸化物層は透明な薄膜であり、ここで光の干渉が生ずるから、ということらしい。
小学校の頃、掃除の時間に雑巾を洗っていた。 流水の下でゴシゴシと擦るように洗っていた。 なんとなくこれは摩擦によって汚れが落ちるようなイメージで捉えていたのだが、最近考えるところではこれは違うのではないかと。 布を洗濯する動作の基本は汚れを水に溶かし、その水を排除することだ。 結局ゴシゴシと擦ることによって、水を追い出し、次の水を受け入れることを行っていたのだろう。
細胞と細胞の間で情報を伝達するには物質に依るしかなく、これは機構として速度が極めて遅い。 対して1つの細胞内で情報を伝達するには電位差による方法がある。 そこで神経細胞は一つの細胞から繊維を延ばして、そこで電位差による通信を行うらしい。 繊維は長いものでは1mにも及ぶとのこと。
秋口に入って涼しくなったので、自転車で通勤してみた。 ざっと15km、1時間くらいかかる。 この季節、2日に1往復くらいの割合で自転車通勤しようかな、と思ってるところ。
家と大学は縦筋も横筋も異なるので、自転車通勤する際の経路の選択肢はかなり多い。 色々道を変えてみているが、市内の地理を知ることができてかなり有意義っぽい。 そうそう、住吉神社と四天王寺に今度寄ってみよう。
『憲法と平和を問い直す』(長谷部恭男)読了。 個々の人間の価値観は異なるものであり、これらは本質的に、相互に比較することができない。 価値観に関する私的な議論が公的な領域に持ち込まれ、血みどろの議論を生じさせないための装置が立憲主義、という見方ができる。 ある意味、国境もそのような機能を有するとのこと。 なるほど。 あと社会契約という概念を今回初めてちゃんと知った。 以下、興味深いとおもったことをつらつらと。
個人の自由が国家に統制されることで市民の生活の安全は最大限に確保される。 対して国家の行動の自由を統制するものは原理的には存在しない(ことになっている)。 しかし囚人のジレンマのように、プレイヤーそれぞれが合理的に行動すると全体としては最悪の状況になる恐れがある。 そこで幾つかの提案とそれに対する議論が示されたのだが、その中に「国家の行動の自由を統制する世界統一政府というアイデア」が挙げられていた。 ああ、これは『沈黙の艦隊』だなあ、と。 そういえば最近身売り前の供養ということで沈黙の艦隊を読破したのだけれど、やはり奴は熱かった。
「人権の蹂躙を見逃がすことはできない」というような人道的介入が戦争の口実に使われることがあるが、他国民がどうなろうがそれ以外の国にとってはあまり関係ないだろう。 なのにアメリカはどうして介入するのか? それに対する解答の一つは、例えば民族間の確執が深刻化するとそれがテロや紛争の原因となるということ。 世界全体の合理的な利益が最大化するのは、世界全体が戦争のない状態にあること(cf. 囚人のジレンマ)なのだが、一部の国がテロや紛争状態に陥るとそれと背反する状態になる。 ということで直接的にではないが、当事者でない国にとっても利益を損うことになるらしい。
でも積極的に戦争しに行ったら、戦争をするという不利益が直接自国に響いてしまうと思うのだが。 この辺は囚人のジレンマにおける仕返し戦略が確実に行われることを宣言、実証しているのかな。 必ず報復するという姿勢を示しておかなければ、将来の相手の裏切りを予防できないのだから。 その上で勿論、人道的介入はあくまで口実であって、大量破壊兵器による自国への攻撃のような直接的な被害を予防したいという意図であったというとても分かり易い理由もありうるけれど。
法に求められる機能として、引かれた線の位置をキッチリと定義することと、人の行動に対する傾向付けだけを行うものの2種類があることを知った。 この本の例を抜き出すと、前者は駐車違反の定義(キッチリ定まっているべき)、後者は表現の自由(人には一切の自由が許されているわけではなく、具体的な制限は他の法令や判例で規定される)とのこと。
司法の役割は3段階に分類できる。
『桜蘭高校ホスト部』最終回。 いいなあ、こういう最終回ならではのお祭り気分な演出。
いつもように酒屋で試飲させてもらっていたら、ブランデーを勧められた。 グラスを傾けると芳醇な香りが漂い、口に含まずともそれだけでいつまでも楽しめる。 鼻腔に残るえも言われぬ余韻。 素晴らしい体験だった。 コニャックらしいのだが、銘柄はちと覚えられなかった。
あと雄町という米を使った酒(長龍だったか?)の5年古酒と12年古酒があって、それぞれ良かったけどその違いも面白かった。 5年はスマートだけど幅のある味わい。 喩えるなら翡翠。 12年はより丸みを帯び、さらにふくよか。 喩えるなら璧。 酒屋の主人によると、これらの酒の特徴は雄町という米の特徴らしいのだが、そもそも雄町の生産量が少なくこれを使ってできた美味い酒というのも少ないらしい。
いろいろあってPC を新調しようということになったのだが、 目星を付けていた CPU (Intel Core 2 Duo)は出立てホヤホヤで品薄状態らしい。 もう2〜3週待った方が良いかな。
デジタル一眼レフもとりあえず覗いてみた。 近いうち、買う。 だけど安い物ではないので情報収集は入念にしないと。
アフタヌーンを買うのは何年ぶりだろう。
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