きづき(日記)

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2006年08月01日(火) 「やった、ねんがんの『風がふくとき』をてにいれたぞ!」

研究室宴会で酒。 久々に限界を越えた。

『風が吹くとき』。 方々で究極の鬱アニメと評判の逸品。 子どもの時分に見た記憶があって、絵本を買ったり色々手を尽くした。 絵本もいいけど、映画もいいなあ。 ……嫌な気分になれて。

『プリンセス・プリンセス』、なんかだるいなー。 といいつつ今10話目。 「つまらない映画でも途中で立てない症候群」に陥ってるなー。


2006年08月02日(水)

転入生がシナリオに組み込まれるパターンはまず2つに分類できる。 主人公が転入生である場合と、主人公のコミュニティに転入生が入る場合とである。 後者の場合は主にストーリーに変化を、往々にしてマンネリを打破するために用いられる。 前者では消費者のセンスに合わせた一般人が、異世界に闖入してその世界の異常さ、それゆえの面白さを消費者に紹介する役目を果たすことが多い。 すなわちこの場合の主人公は、元々その世界にいた人間に弄ばれるのがパターンである。 『プリンセス・プリンセス』では、元々のコミュニティの人間は2人、しかし不思議なことに主人公はその内の1人と同じ立場になり、他の1人を弄ぶ側に回る。 それがやや新しいように見えなくもない。 ということで、『プリンセス・プリンセス』終了。


2006年08月03日(木)

道を歩いているとカンブンが交尾しつつ路面を歩いていたので、このままだと踏まれるだろうと生垣のところに移してやった。 しかし思った。 そのカナブンが生き残ることは、そのカナブンと生存競争を繰り広げている相手にとっては子孫を残す競争において不利に働く材料になる。 また生物が生き残るためのカロリーは有限なので、次代に生き残れる生物の総量は常に一定なのだ。 私は今、目の前の虫の命を救ったが、その虫を助けたことによってその競争相手の命のリスクを増したし、総量としては何の意味も果たしていないと言えるだろう。

しかし、同時に新たな一つの観点に至った。 私がひとつがいのカナブンを救うことで、カナブンの生存競争において競争する母数を増やすし、種の中での優秀な遺伝子を持つものが生き残る可能性を高める作用があるだろう。 さらに言えばカナブンに限った話ではなく、生物全体で優秀な遺伝子を持つものが生き残る可能性を高める作用がある、とも言える。

プラネット・アースやその他の自然系ドキュメントを見ているとさかんに「絶滅寸前の」とか言うフレーズが出てくる。 人間以外の種であっても絶滅の危機から救うことは多くの人にとって正義であると思う。 私はこれを単に「勿体無い」の精神の発露だと思っていたのだが、今日一つの新たな観点が浮かんだ。 それは、将来地球に未曾有の危機が及んだとき、人類が死滅したとしても地球発の遺伝子が生き残る可能性を少しでも高めることができるということだ。


2006年08月04日(金)

『CBSドキュメント Immotality』 もし私が生物科学者で永遠の命を開発したとしたら、その成果は学会に公表せずに宗教をひらくかもしれない。

『NHK映像ファイル あの人に会いたい #100 「漫画家 藤子・F・不二雄」』。 F いいなあ。 素晴らしい人だなあ。

『つよきすCool×Sweet』第1話。 これは無理だ。 続けられねえ。

『COYOTE Ragtime Show』。 いい。とてもいい。 以下、心に残った台詞。
「12人の姉妹なんて悪趣味ですぅ」
「同感ね。頭数揃えりゃいいってもんじゃないでしょうに」


2006年08月05日(土)

ブラックラグーンのアニメを見ていて、スタッフロールに秋葉いつき(日本アニメヲタクのロシア人)の名前を見て吃驚した。 ロシア語指導か、なるほど。

小山茉美(バラライカ)の声、いいなあ。

バッターボックスにいる限り、ストライクは全て振らなくてはならないという思い込みがあった。 追い込まれたボールカウントでは精神的に追い詰められるので、その前に打ってしまいたいという気持ちもあった。 この焦りに似た感覚が私の打者としての能力を狭めていたのだろう。

2ストライクまでは甘い球だけ打つということ。 3ストライク目はターゲットを広げ、スイングの力を抜いて単打狙いで。 さらに、打者は全ての打席で打てなくてもいいのだということ。

チームバッティングの面白さ。 チャンスを作るという快感。 四球はつまらないというエゴの、なんてちっぽけなことだろう。

盗塁のやり方が突然分かった。 ピッチャーを見ているとごくたまに牽制が来ないという確信を持つことがある。 その感覚でピッチャーを見つつ、リード、スタートの細かな試行を重ねる。 そしてたまたまタイミングが合ったときに走れば良いのだ。 私は足が遅い方だという劣等感があったので、サインがなければ決して走ろうとはしなかった。 今日得た知識に依ると盗塁とはサインで走るものではないと言える。 (では、盗塁のサインは何のためにあるのだろう?) 今日は完全に牽制が来ないという確信を持った瞬間があった。 何故かは分からない。 おそらく投手のクセを無意識に読み取ったのだろう。 投手の表情、視線が完全にバッターに集中していたからかもしれない。 追う点差に後続が上位打線という、前の塁を狙うより塁に走者を溜めることが優先される状況にあって、少しのリスクも取るべきではないと判断したためその瞬間には走らなかったが、次は試してみてもいいな。

それよりは指示されていないことはやってはいけないと、高校時代に盲目的に思い込んでいたのはマズかったと思う。 このことに気付いたのは今よりは少し前のことだったけれど。 常に次の塁を狙うという感覚がなかった、というのも少し前に気付いたこと。

こんなことすら考えていなかったのか、と我ながら呆れる。 たった1日の試合でこれだけ新たなことを知れるのだ。 あのころ頭を使いながら野球をやっていたら、どれだけの高みに上れたのだろう? そして今日も思った。 俺は、『おおきく振りかぶって』と高校時代に出会いたかった。

いやしかし、勝つって素晴らしい! じっくりじわじわと勝利の快感が湧いてくる。 追われる点差が4点の最終回裏2死満塁の守備、ライトのライン際背中向きに追う難しいフライを捕球できたのも嬉しい。 しかし、あれを確実に捕るプロの選手は、一体どんな三半規管をしているんだろう。 走りながら振り返りつつ見るボールってグラグラ揺れて見えるんですけど。

STAR WARS Episode 4,5,6 すごいなあ。 本当すごい。 あんなもの作るエネルギーがあるところにはあるんだなあ。 シナリオはもうちょっとやりようがあるようには思うが (なんで弱点があんなに無防備な状態にあるのかとか)、 それでもあれだけのクリーチャーを作ったりするエネルギーはすごい。

C3PO が薄汚れたり、落ち着いた場所に行けばピカピカに磨かれたりするところがとてもいい。 清潔というのは一つの快感だということだ。 しかしずっとピカピカだとそれが浮き立たず、ただのいつもの状態になり下がる。 メリハリの問題とも言える。


2006年08月06日(日)

『INNOCENT VENUS』第1話。話が見えねえ。

大阪淀川の花火大会は金が集まらないので毎年毎年「今年で終わる」と言われているらしい。 花火大会で地元に落ちる金は大きいので、地元の商店などは協賛金を出すべきだ、と言える。 この構図はまんま囚人のジレンマだ。

	              花火が行われる  花火が行われない
寄付を出す          9              -1(寄付金が返ってくれば 0)
寄付を出さない     10               0

花火が行われた場合、寄付を出さない方が個人としてはメリットが大きい。 花火が行われない場合も、寄付を出さない方が個人としてはデメリットが少ない。 しかし、全員が全員花火が行われることを願っている。

『THE WEST WING』。 みんなよく働くなあ。 全く関係ないけれど、俺も頑張んなきゃ。


2006年08月07日(月)

フライの落下地点に走るとき、速度を幾分犠牲にしても上半身、特に頭を揺らさないように追うべきなのかもしれない。

もし高校時代の私が『おおきく振りかぶって』に出会っていたとしても、今のようには受け取れなかったろうな。 今のようにある程度考える癖が身に付いたのは、私にとっては比較的最近のことだから。

ハードワーク。 仕事をした気はするのだが、肉体労働をしてもするべき仕事は1ミリたりとも進まない。

菊の司。 ソリッドな飲み口で美味しい酒だが、同時にやや面白みに欠けるとも思っていた。 それが開けて4日目、急に変化が現れた。 これ、上手く熟成させるととても美味しくなるんじゃなかろうか。

『シムーン』4まで。 なんだこりゃ。 よく分かんないので、もういいや。


2006年08月08日(火)

『科学哲学入門』(内井惣七)。 今ようやく半分くらい。 馴染みのない分野なので理解するのに大変時間がかかる。

量子論と因果律。 アインシュタインは「神はサイコロをふりたまわず」と言ったが、その言葉の重みは因果律の重みを理解していなければ理解できない。 この言葉の意味を、「アインシュタインでも信仰によって事実の把握を誤ることがある」というように私は解していた。

「原因があったから結果がある」というのは通常の人間の直感に即した考え方であり、人によっては科学の根底に近いところに位置する考え方だ。 だから厳密に因果律に従うならば、ランダムだとされる二重スリットの光子の到達点は何らかの因果に従ってある点に収束したと考えるべきなのだ。 厳密に因果律に従うならば、A(1回目)と B(2回目)は全く同じ条件に見えるのに異なる点に収束したという理由がどこかにあるはずなのだ。 厳密に因果律に従うならば、その理由となる条件を制御することによって、人間はどこに光子が発現するかを制御できる筈なのだ。

このことに気付いたとき、目を啓かれた気がした。 ここでアインシュタインがいう神はユダヤ教徒の言う神ではなく、「科学という神」なのかもしれない。 それは Dr. 岸和田がいう「科学という悪魔」と同じものなのかもしれないが。

つまらない議論。 いや、相手の論理性の欠如に怒るという感情の起伏は私の精神にとってカンフルになるので楽しいとは言えなくもないのだが。

つまらない相手と議論することになった時、 相手が相殺を狙っているようにしか見えない時がある。 これは俺が議論に勝つことを目的にしているがためにそう見えるだけなのかもしれない。 でもそうではないと信じてる。 もういいよ、「道理が我にあるならば、百万人と雖も我往かん」だ。

慣用句って思考停止するのにとても便利。 ラク。 だからこそ多くの人はそれで思考停止しちゃうんだけどさ。

でも、私が相手を見限ることは、相手にとっては「私が勝利宣言している」ように見えたりするんだろうな。 全く、真っ当な議論を行うということは難しい。 自分が本当に、自分の求めるように行動できていると確信できないからな。


2006年08月09日(水)

『痴漢男』。 昔テキストで読んだことはあった。 今誰かが漫画にしたものを見て思ったのは、漫画って偉大なメディアだよな、ということ。 俺は漫画を愛して良かった、いや漫画こそ愛するべきメディアでありけれ。

とりあえず、ロリは性欲のはけ口として良い。 そして関西最高。


2006年08月10日(木)

やっぱり、どう考えても、俺はムカツクのが好きなのだとしか言い様がない。


2006年08月11日(金)

靖国神社参拝問題。 中韓が遺憾に思っているのは「A級戦犯が合祀されていること」ではなく、「(日本が)言うことを聞かないこと」ではないか? すなわち、「のび太のくせになまいきだぞ」と。 最初に言ったときはそれほど本気で思ってなかったけれど、相手が譲歩してくれなかったところでカチンと来て、それから理由を後付けしたのではなかろうか。 政府の上層部にあるほどの人が自他の宗教観の違いを考慮しないというよりは、こういう感情的な側面の方が事の起こりとしてはあり得る気がする。

今週はずっと研究室の私の居室と学生の居室引越し作業。 半年に2回引越しってのは尋常じゃねえ。 まあともかくようやく一段落し、盆休み前にと設定していた目標以上の仕事を成し遂げることができた。 ということで軽く打ち上げ。

帰り途、最寄り駅から家までの途上、思い立って初めての一人カラオケ。 普通に友達と行ったらできない発声練習(ロングトーン)なんかを 10分ばかしやってみた。 基本マイクなしで歌ってみたが、声量を出そうとしすぎて出しにくい音のところで無理がでる。 そうだ、携帯音楽端末で録音もできるぞ、とやってみた。

やや高めの領域で声の出し方がぞんざいになる。 あるいは出し易すぎるのかもしれない。 この部分を丁寧に(綺麗に)出せるようになったら、全体が倍良く聞こえるだろう。

強く声を出して歌うところで気合いが入りすぎてる。 マイクなしで声量出そうとしているからという理由もあるけれど。 全体を均一な品質で歌えるように整えた方が良さげ。


2006年08月12日(土)

幹事として動いていた高校の同窓クラス会終了。 ここ数ヶ月の懸案事項が片付いてホッとしている。


2006年08月13日(日)

『ひぐらしのなく頃に解』の新作(祭囃し編)が発売されるとのことで、 発売開始時刻(16:00)から少し遅れるくらいの時間を狙って日本橋へ。 今回は特に品切れということもなさそうで、順調に確保。

姉夫婦とカラオケ。 やっぱり普通の人とくらべると、随分よく声が出る方ちゃうかな、俺。


2006年08月14日(月)

一日中『ひぐらしのなく頃に解』。

俺がシナリオを作るとしたら、2つの立場を持つキャラクター同士の議論を成立させることができるだろうか。 また、議論の成り立たない人との成り立たない議論を現出できるのだろうか。


2006年08月15日(火)

終わったー。 んじゃあ、俺もやるべきことをやるかね。

私には彼と同じものは作れないが、それで良いのだろう。 きっと私にも、彼の作れないものが作れる。 ……という観念的でしかない等価論は恥ずかしいだけだな。 まあ正直、あれだけのものを作れる能力とエネルギーには憧れる。


2006年08月16日(水)

『The WEST WING 6』 「クイズだ。種が外側についている果物とは何だ?」 という問に対して大変下世話な答(半分言葉遊び)を思い付いた。 ……まあ、分かるだろ、flesh flute だべさ。 まあ fresh fruit ではないけどな。

なお、本当の答は苺らしい。


2006年08月17日(木)

盆休み開けて先週の引越しの後片付け。 丸一日かけてようやく仕事のできる状態に。


2006年08月18日(金)

研究室の整備関連の仕事で丸一日。 しんどいじゃぼけー。

しかし、研究室のリソースが物理的に離れた箇所にあるのは大変面倒。 グローバル IP 経由でしか計算機クラスタにアクセスできないし、研究室内部ページもグローバルに置かざるを得ない。 後発学科のつらいとこだなぁ。 ローカル IP で繋ぎたいところだけど、それには物理的なケーブル配線が必要で、そうなれば美観上の問題とかもあるからなあ。 無線LAN で無理矢理繋ぐとセキュリティ上イヤンな感じだし。

この辺の考慮、考案、設計、整備に時間を使いたいところだが、正直時間がない。 てゆーかそんな時間があったら論文書くわー、講義テキストを整備するわー、VASP 用 Ruby ライブラリの設計第一案を作成するわー、ということで時間がない。 でも俺がやらんと他にできる人いないしなあ。

まあ私がやらなくても、誰もやらなくても、特に問題にはならなかったりするんだろうけれどな、普通は。 でももし問題が発生したら、基本的には私の責任になるのだろうなあ。 ああ、勿論他のスタッフも責任感は感じてくれるだろうが、心の問題としては私一人でかぶらざるを得ない問題だから。 だって、私以外に対処できる人のいない問題だから。

こんな問題も、研究室が一箇所に固まってあればそもそも発生しない筈の問題なのだ。 システムで防げる筈のこういう問題に対処するのが最も憂鬱な仕事。 ……残念ながら、極めて残念ながら、これも仕事なのだ。 まあ緊急性は低いからすぐにはやらないんだけどな。

「緊急性がないと人は仕事を為さない」と私は思っている。 しないと死ぬ(例えば職を失う)ような場面でない限り、人は仕事をしたりしないと私は思っている。 それはもちろん、私自身が第一の被験者であるからだけれども。 だけれどもそれは、「緊急性がないと人は、その仕事をすることを他人に説得できない」ということもあるのではないか、と今日思った。 例えば、「俺にしかできない仕事」よりも、「誰かが今日しなければならない仕事」の方が優先されるべきに見えるだろう?


2006年08月19日(土)

11年遅れの打撃開眼。

マスターズ甲子園という昔野球少年だった人達が夢を取り戻そうとするやや大きめの草野球大会がある。 2週間前の試合がそれの初戦で、今日がその準決勝。

とにかく今日はよく打った。 打てた。 1打席目は右中間への痛烈なライナー。 結果的には相手右翼手の好守に阻まれたが、例えば私レベルの右翼手ならば三塁打になっていたに違いない。 (実際、相手の右翼手はとても上手だった。) 2打席目は2ストライクに追い込まれてから2〜3球カットで粘った末、三遊間をテンテンと破る味わい深いシングルヒット。 3打席目は 1-1 からのセンターオーバー、右中間気味に破る三塁打。 ちなみにこれは10点リードしている場面の8番トップバッターで、次は9番打者なので比較的好きに打ち長打を狙ってもいい場面。 しかし、1ストライク目は気負いすぎ肩に力が入りすぎていて、空振り。 体中ぎくしゃく。 後から思えば、このときバットに当たらなくて本当に良かったと思う。 この空振りのあと先々週に得たチームバッティングの心得を思い出し、1ボール見逃しのあと、甘い球を狙い打てた。

なお、3打席ともその回のトップバッターで、1打席目はやや残念だがトップバッターとしてチャンスを作るという観点からはそこそこ良い仕事ができたと思う。 3打席目は後続の9番が足を痛めていたこともあって、「お前が出たらバントさせる」と監督から指示されていたところで私が3塁打を放ったため9番が三振でも良い状態にできた、というのは我ながら痛快だった。

今日の試合には1年上の先輩もいて、私が高校野球部で打っていた姿はよく見られていたのだが、彼等をして「お前が右中間方向に打っているのは見たことがない」と言わせしめた。 すなわち、これが私の成長の証。 だが、私としては2打席目に2ストライクに追い込まれていながら三遊間を抜くヒットが打てた方が誇らしく思える。 確かに当たりは良くなかった。 でも今迄の私には、そう3週間前の私にはできなかったバッティングだ。 そう、この打席が特に印象深い。 ストライクゾーンの中どこを通過するとしても軽くミートできる感覚。 高校時代の私は全てフルスウィングしなければならない強迫観念のようなものに凝り固まっていたので、これを持ってバッターボックスに立(っ)てたのがとても新鮮だった。

大学で野球部に入っていたとしても、そこでは俺は大成してはおるまい。 きっと高校の延長で脊髄反射で野球をやっただけだったろう。 俺がこれだけ打てるようになるには、これだけの時間が必要だったのだ。 色々と考えて対処しようとする癖、それと『おおきく振りかぶって』、これらが必要だったのだ。

あとそれとは別に、メーリングリストでの発言に対してかなりの評価を貰っていることも嬉しかった。 俺が尊敬する同期の友人に対してもそうだし、始めて会話する大先輩にもそのようだ。 やっぱり私は、文が立つ方らしい。 ああ、俺もそう思うよ。


2006年08月20日(日)

昨日の試合では軽く雨に降られたので、グローブを袋から取り出して見てみた。 ……ひょっとして、型の付け方がおかしかったりしないか? グローブを閉じると、親指と中指が合わさる。 これだと薬指小指のスペースに当たった時にボールを弾いてしまいかねないんじゃないか? ということでちょっと調べて、親指と小指を合わせて置いてみている。 調べてたら、外野手はグローブの小指のスペースに薬指と小指を入れ、人差し指のスペースは空けるようにグローブを嵌めるやり方があるらしい。 やってみると、閉じたときに自然と親指と薬指小指が合う形になる。 ふええ、みんな知ってたんだろうな、俺だけが知らなかったんだろうな。

第88回甲子園決勝、駒沢大苫小牧 対 早稲田実業は15回引き分け再試合。 こいつらすげえ。

英会話のレッスン用に野球についての作文のために甲子園について少し調べてみたのだが、今日の時点で大会史上唯一の三連覇を果たした中京商は、その三連覇を賭けた試合を延長25回で制したそうだ。 とんでもねえな。

『ノエイン もうひとりの君へ』第1話。 暇だったらもう2〜3話見てみてもいいけど、敢えて見たいとも思わない。 ということは見るべきではないのだろうな。

『機神咆哮デモンベイン』第1話。 世界やストーリーは面白そうだけどアニメとしてはどうかなあ。 これ見るくらいだったら原作のゲームやる方が良さそうだ。


2006年08月21日(月)

やることいっぱい。 考えるべきこといっぱい。 いっぱいいっぱい。 というかいっぱい仕事が積み残っていってる。

仕事→英会話レッスン→食材買い出し、で帰宅が23:00。 買った寿司で晩飯として、明日の晩飯用にカレーを作ると 24:30。 うええ、もう明日になっちゃったよ。


2006年08月22日(火)

研究環境のセットアップでアップアップ。


2006年08月23日(水)

どうして、こぼすという意味を持つ零の字が、「ゼロ」という意味を持つのだろう。 零の字の成立よりゼロの概念の方が後だろう。 辞書を引いてみたところ「零」は「きわめて小さいこと」を示すとあり、その意味では「零細」がそうらしい。 「ゼロ」の概念が持ち込まれたときに、この意味に沿って意味が拡張されたのかな。

やっぱり俺のカレーすごく美味い。 今回はスーパーで見つけた「筑前煮の具」というお手軽アイテムが良かった。 筍、牛蒡、蓮根なんかは歯応え的には是非あって欲しいけど、1単位買うと多すぎるからな。 まあ蒟蒻は微妙だったが。


2006年08月24日(木)

人間は選択肢のあるときに最も能く迷う、ということを煙草喫いとして認識した。 煙草喫いは「絶対に煙草を喫えない状況(例えばバスの中)」では結構難無く我慢できる。 しかし、バス停で煙草を持っていないと辛抱たまらなくなって、もぞもぞしたりする。 また今喫っておかないと暫く喫えないという心理が働き、却って強い動機が発生したりする。

どうでもいいが今年の目標は購入数を年通算12箱以下にするということ。 5月で9箱になってしまったので「これは目標を達成できないかなー」と思っていたけれど、そこから1箱も買ってないのでなんとかなりそう。 でも「貰い煙草可」はルールとして弱いし、周囲から見て見苦しいよなあ。

試験監督で組になった先生が、存在する問題に対してシステム側からの解決を提案し、それを上に伝えることができる人だった。 なるほど、こうやるのか。 一つ賢くなった。 私は、システム側からの解決策の案を考えることまではよくやるけれど、それを上に伝えるでもなく個人的に愚痴として文句を垂らしてそれで満足してしまうことがよくあるので、これは良くない癖だな、と思った。 が、上にキチンと伝えるのはちょっと難しそうだなあ。


2006年08月25日(金)

最近の試合で投げられたのは基本的にはストレートなんだよな。 変化球に対応できるだろうか?


2006年08月26日(土)

野球の試合。 相手チームのプロフィール。

うええ、こんなの居るのかよ。 まあ打てない球速じゃなかったけれど。 でも草野球とは違う、ピゥッ、ズパッ、と投げ込まれるボールは、やっぱりみんな今迄のようには打てなかった。 私は、結局変化球は関係なくストレートで打ち損じた。

いいバッティングをしようと意気込むと肩に力が入る。 筋肉に過度の力が入る(=力む)とスイングのスピードがでないし、動作の精度も出ない。 だから鋭いスイングをしようとするならば、力むのではなく適度に脱力する必要がある。

ここで私が具体的にイメージしたのは、中国拳法の構え。 右手を前に出して左手は下に、肩は低く、全身に力は入っていないが、抜けてもいない状態で「備える」。 『おおきく振りかぶって』で水谷が「(力が)抜けすぎてフニャフニャすんなっておこられた」というが、これの良い対比だと思う。 野球少年に『拳児』でも読ませて、「力を抜くというのはこういうことだ」と教えたらいいんじゃないだろうか。

中国拳法でパンチを打つときは脱力が鍵となる。 余分な力が入っているとそれがブレーキとなり却って威力を減ずる原因となる。 ボクシングでもきっとそうだ。 ジャブは余分な力を入れない方が鋭さを増すらしい。 即ち、動作の速度を上げるには脱力が鍵になるということ。 そしてそれは打撃だけでなく、走ること、投げることにも通じることではないだろうか。 『やったろうじゃん』で江崎の投球が一皮剥けた場面は、その脱力によって球速が増したのだと考えればありうることだと思う。 私は元々守備が下手で悪送球が多いというのがその一つだったが、脱力を意識していればもうちょっとマシだったかもしれない。 だって、「いつも全力でやらなければならない」と思い込んでいて、その通りにしていたのだから。 私は走るのも遅かったが、これも力を抜いてスイスイスーダラダッダと走れば実は速くなったり……?

スポーツは、8割の力でプレイすることを心掛ければ 2割増しくらいのパフォーマンスを期待できるかもしれない。


2006年08月27日(日)

私の使っている携帯音楽端末(Rio Unite 130) ではファイル末尾の約2秒間を含む A-B リピートができない。 これが英語の学習には致命的で大変困っている。 仕方がないので CD からリッピングした時点で wav ファイル末尾に2秒間の無音領域を追加し、その上で mp3 へエンコードしようと画策。 原理的には可能だし、wav ファイルのフォーマットも理解したのだが、Ruby でバイナリファイルを扱う勘所がよく分からん。 自分でゴチャゴチャ試行錯誤するよりも、然るべき本を漁って勉強すべきだろうな。

しかしコスト対効果の観点からは、そんなクソmp3プレイヤーなんか使ってないで別のもっと良いものを購入し直すべきなんだろう。


2006年08月28日(月)

歴史的経緯を除けば、純粋にデザイン的には日の丸ってのは非常に美しいデザインだと思うのです。 「円は究極の図形」だしな。

バングラデシュ国旗は緑地に赤の丸。 これは日本(日の丸)をリスペクトしていて、さらに日本(日の丸)に「遠慮」して中心を少しずらしているとのこと。 そうだとしたら、この精神は日本人的感情ではとても美しいと私は思うのです。

日の丸が国旗かどうかという議論があるが、国旗でないとしたらこれを超える(単純かつ美しい)デザインを生み出す必要がある。 これはかなりの難問ではなかろうか。


2006年08月29日(火)

タスクの処理に際しての美学、これの有無と差異。 まあ「美学などというものを持たないのが自分の美学(スタイル)」という言い方をすれば全ての問題は差異と捉えることができるけれど。 ただ、美学を持たぬことを自覚的に選択していない場合は、差異ではなく有無の問題として「美学を持たない」と言ってしまっても良かろう。

私のそれはかなり強いものであるようだ。 私が基本的に重視しているのは、

美学(すなわち主観)の問題であるので、私と違う主張を持つ他者は私に非難される謂れはない。 しかし、敢えて言おう「彼らは美しくない」と。

私は10人以下の作業の「現場監督」的な業務に向いていると思う。 その際の基本的な指針。

この程度のことでも「できない」人は多数いる。 トータルコストを引き下げるために指揮する人は指揮を全うすべきだ。 だから指揮官は手作業を厭うべきなのだが、手作業をしてしまう場合がある。 ……これは「指揮する人はラクでいいな」などと指揮される人に誤解されるのはとても嫌なことだからだ。 だから指揮官はしばしば、指揮する間の余った時間を手作業に充てる。 だが分かって欲しい。 これは、単純作業に従事するよりも余程大変な仕事なのだ。

個人的な作業をする場合の指針

そういえば私が寮から下宿に引っ越したときの作業では、これらの精神が遺憾無く発揮された。 引越しにおいては現場が2箇所発生する。 搬出現場と搬入現場だ。 引越し後の片付けを容易にするために私自身は搬入現場で指揮することにした。 そこで私自身が直接指揮できない搬出現場の為に搬出手順を記したレジュメを用意しておいた。 この事自体が大変面白がられたのだが、全体のトータルコストを引き下げるためには全く正しい選択だったと今でも思っている。


2006年08月30日(水)

『科学哲学入門』(内井惣七)読了。 科学の定義って難しいんだな、ということが分かった。 すなわち、ぶっちゃけ各論の細かいところはあまりよく理解できなかったということだ。 でも「難しいらしい」という伝聞ではなく、「難しい」という事実が分かった(もしくは、主観として答えられるようになった)ことは一つの進歩と言えるだろう。 今の俺はこれでいい。 「科学とは何ぞや」という問に答えるのは、ある程度社会が求める「科学」者として為すべきを為した後で良い。 学生に「そもそも科学って何なんですか」ともし聞かれた時に、「その問に答えるのは難しい」と答えられるだけの資格を得たのだと思えればそれで良い。

実在論とは、「自然の背後にある統一的なルールがあって、科学はそれを言及すべきだ」という立場とのこと。 対して、非実在論の代表的な立場は「観察される事象を説明し、観察されていない事象について予測できればそれでいい」(道具主義)という考え方のようだ。 私自身は実在論的な立場を信じたい。 しかし、科学が社会に対して為すべきは道具主義的な役割だと思う。 他者の役に立たなければ、そのモノは残ることができないのだから。 どうやら私は、私にとっての科学と、社会にとっての科学を別物として捉えているようだ。


2006年08月31日(木)

学校のプール開放終了。 今期は2ヶ月で11回、毎回1km を40分ほどで泳いでた。 8月も末になると日が暮れるのが早く、黄昏時にナトリウムランプが灯るころにプカプカ浮いてるのがなんか面白い。


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