きづき(日記)

last-modified: 2011/12/14 02:54:56. JST

2006年04月01日(土) 「私はウソをついたことがありません」

久々に日本酒を買いに行けた。 それから散髪。

姉夫婦と恒例の会食。 ワインの味はやっぱりよく分からん。


2006年04月02日(日)

勿論、引越しは私一人だけが働いたわけではなく、私が多めに働いたと愚痴っても、それは私が勝手に動いただけのこと。 本当にしんどいのだったらその前に無理矢理でも仕事を投げるべきだった。 同僚の先生は別の仕事を抱えていたので動こうにも動けなかった。 それを知っていたから投げ難かったというのはあるが、それでも投げるべきだったのだろう。 動けない理由があって動けなかった人に非難される謂れはない筈だ。

そして、仕事を投げ難いというのは、「仕事を投げるのが下手」というのは私の特性の問題であって、同僚の先生の問題ではない。 今迄の経験上、投げた場合に快く引き受けてくれることは容易に想像できる。

なんでウェブ日記なんかつけてるのか分かんなくなってきたな。 いや、もともと理由なんかないということに改めて気付いただけなのだが。

世界が広くなる毎に、迷惑かけずに書ける範囲は狭まっていく。 名前が公開される職業に就いてしまったんだから、この辺で仕舞いにしてしまうのが良いのだろうな。


2006年04月03日(月)

(公開しなくても、日記自体はつけるつもり)

引越しの片付けで目一杯。

あー、ダメだなあ、俺。 やっぱり仕事を振ったり、直接言ったりできるようにならなくちゃ。


2006年04月04日(火)

今日は頑張って計算機を稼動させるところまでやった。

先生と呼ばれるに足る人間ではないことは重々自覚しているが、 先生と呼ばれることを拒絶するほど子供でもない。

暫く考えたけど、日記やっぱり続行しようかな、と。

自分の在り方を誤ってしまうことは少なからずあることだが、 バカはバカなりに誤りを正してもらえる機会を減らすべきではない、ということ。 そんとき他人に迷惑かけてしまうかもしれない。 すまないことだが、それはそこで正してもらわねばこの先の何処かで他の誰かに迷惑をかけることかもしれない、ということで。

ここで書くことをやめても、またどこか別の処で同じことをしたくなるかもしれない。 それはフェアではない。

考えてみれば、人に許されている自由というのは他人に不利益を及ぼさない限りにおいて認められているわけであって、俺の行為は自由の範囲を逸脱した行為だったわけだ。 こういう当たり前のバランス感覚をいついかなる時でも保てるようにならないといかん。


2006年04月05日(水)

言葉の使い方って難しいんだなあ。

テトリスをやり始めてしまった。 ダメ人間の螺旋階段を一段ずつ降りていっている気がする。


2006年04月06日(木)

行事関係で忙殺の日。


2006年04月07日(金)

一日中研究室の片付けとかそんな。 作業量的にはようやく五分に達したか、というところだろうか。


2006年04月08日(土)

今年の桜は長い。 通勤路脇の桜は、今日あたりが満開なんだろうな。

名前を晒している人でもブログを付けている人はいる。 不可能ではないことだ。

名前がバレている人が日記を付けることが危険なんじゃなくて、 バカが具体的な人を攻撃してしまうことが危険なのだ。 この辺包丁の議論と一緒だな。 包丁が暴力犯罪に用いられることがあるからといって、包丁を規制することは合理的ではない。 包丁そのものは非常に有用なツールであって、これがなければ料理が極めて困難になる。 包丁そのものが悪なのではなく、使い方で善にも悪にもなる、というのが道具というものだろう。 バールのようなものとか。

というわけで、私は Winny や P2P 自体は悪ではないと思う。 Linux のインストールDVD-R イメージのような巨大なものは FTP サバに置くと負荷がかかりすぎるので P2P で配布する、という戦略を CentOS は取っているが、これは全く合理的だと思う。


2006年04月09日(日)

某経由で地球大進化。 私はドキュメント番組が好きなので普通に面白かった。

犬は視力がよくないので顔で表情を出しても読み取ることが難しい、だから顔の表情は発達しなかった。 代わりに、もっと形で分かり易い尻尾で感情を表しているのだろう。

番組では群のタイプとして、鳥と人間のものを対比させていた。 曰く、魚や鳥は個体同士を区別せず集っていた方が有利という数だけの問題だが、 人間は個体ごとの特徴を理解して有機的な社会を形成する、とのこと。 でもこれは霊長類だけの特徴じゃないと思う。 狼は群で狩りをするし、飼犬は家人を区別して格付けを行う。 ならば犬は群の中では個体ごとの特徴を理解していると見るべきだろう。 ……銀牙のように。

風車小屋 50号スキャンデータ公開中。


2006年04月10日(月)

研究室の新歓コンパという名の宴会。 歓迎する側が2年目2人、残り8人が新人という構成。 キチンとおごれなくてスマナイとは思う。 が、我々おごる側も去年おごられなかった(むしろ学生におごった)のだと思うと、彼らはまだ恵まれているという解釈もできる。

二次会はカラオケ。 1時間だからあまり歌えなかったけど、持ち味は十分に発揮できたと思う。 (ロマンスの神様→”ヘーコキ”ましたね→カントリーロード)。


2006年04月11日(火)

研究室の片付け。 随分先が見えてきた。


2006年04月12日(水)

たまたま飯屋で隣席になった別研究室の M1 に「ロマンスの神様歌ったらしいっすね」と言われた。 どうやら同学年の横の情報網で流布しているらしい。 「めっちゃ上手かったらしい」とのことなので気分は上々。

『団地ともお』。 この作者はものすごく頭の良い人じゃないだろうか。 少なくとも、言語感覚とかそういう意味では。


2006年04月13日(木)

めっちゃ忙しい。 今年から使えることになった部屋には、前人の荷物塵芥装置薬品廃液が残されていた。 それを片っ端から片付けていくというのがこの年度末からずーっとやってる仕事。 このようになった経緯はともかく(「べき論」では、出て行く人間が全て片付けていくべきだろう、ということ)、 与えられた状況としては、けれどまあやらにゃあならんことやからなあ。

教員で一番下っ端の俺は授業を持っていない。 だから一番余裕がある。 だから一番そういうことをやるべきだ。 勿論、無制限にやるという意味ではない。 その失敗は今迄に何度も何度もしているのでさすがに避けようとは考えている。 でもその「妥当なライン」の見極めはいつも難しいんだよなあ。

まあ授業を持てるようになれるように頑張らなければならない、ということもあったりする。

たぶん多くの人が持つ性質だろうけど、雑務を処理しているだけで仕事をしているような気分になってしまうというのも問題だろうなあ。 本当にやった仕事で随時 自己評価できるように意識せんと。

どうして俺は、あのとき掃除機を使おうと言ったのだろうか。 落ちたブレーカー、その結果マザーがいかれたっぽい。 その原因究明や不調機器の特定などに数時間浪費。

学生時代に一番まずかったと思う点は、研究の区切りとなる終着点が論文だという意識が全くなかったことだと思う。 いつも目の前のデータを出すことに汲々としていて、目の前の計算機の仕込みに汲々としていて、目の前の学会発表の仕込みに汲々としていた。 どうやら自分が納得する論理が組み立てられればそれで良かったらしい。

そういうわけで、もう随分前に一通りの結果を出している研究成果を論文にするのに苦労している。

あるサバをイントラネット内とインターネット上の特定のアドレスから見えるようにどうしようかと悩んでいたところ、「LAN カード2枚差しにしてやったら?」と教えられた。 成程、というか、私はLANカード2枚差しはルータにする場合しか頭になかったなあ。


2006年04月14日(金)

エクセルのウィンドウの分割を覚えた。

仕事を早めに上がって造幣局の通り抜け。 八重桜にはまだちょっと早かったけれど、それでも多くの人が通り抜けていた。 ちなみに私は、約20年振り2回目。

酒飲んでていつもの如く知識をひけらかしていたら「学がありますね」と言われた。

私にとって公開する形で日記を書くということは、自己の鍛錬としてそこそこ有効だったんだと思う。 その日得た知識をも一度反芻したり、読んで分かる形になるようにロジックを整理したり、推敲したり。 そういうことがなんぼか効いてるんちゃうかなあ。


2006年04月15日(土)

NHKのサイボーグ番組。 うさんくさいなー。 とんでもなくうさんくさいなー。

真面目な軍事研究の最先端は素人目には荒唐無稽に見えるだろうから、あれはあれで正しく、それなりの勝算があることなのだろう。 だけど番組のネガティブキャンペーンっぽい演出のためか、眉唾な印象なものが多かった。


2006年04月16日(日)

兵庫 JR 福知山旧線廃線跡、生瀬(なまぜ)から武田尾(たけだお)まで。 まっくらなトンネルを歩きに行った。 長く続くトンネル(413m)で、中でカーブしているために視界は完全な暗闇に閉ざされる。 その中を懐中電灯片手に、てくてく歩いていった。


2006年04月17日(月)

研究室の片付けで水銀が出てきた。 なんといっても、常温で液体の金属だ。 毒性さえなきゃあ眺めていてこんな面白い物質はないのに。 ……銀晶球を手にした若かりし日のグラン・ローヴァの気分。 「わしはその、きらきらとした綺麗な物を自分の物にしたくてたまらなくなった。でもわしは、そうしてはいけないこともよく分かったのじゃ」(原典が手元にないので不正確)とか。


2006年04月18日(火)

京都へ日帰り出張。 そしてやらねばならない仕事の量にうんざりしながら帰る。

酒飲んで帰って、布団に転がってるとだんだん落ち込んできた。 本格的な鬱というものの片鱗か? とりあえず肉体的に疲れてるんだろう、と意識的に意識を切って寝た。


2006年04月19日(水)

寝て起きたら回復。 睡眠重要。

金属加工施設の講習。 ボール盤とか旋盤とか切断機とか。 面白かった。


2006年04月20日(木)

なんとなく不調な気分。 片っ端から片付けて行かにゃあ。


2006年04月21日(金)

不注意からあるファイルを失った。 決して致命的なものではないのだけれど、自分のデータ/ファイル管理に少なからず自信を持っていたのでその面でのショックが大きい。

Windows のごみ箱の仕様が一番恨めしい。 UNIX でファイルを削除する際には rm の動作を変更し、~/.trash に入れるようしている。 Windows ではごみ箱を利用するようにしている。 しかし Windows(XP)はネットワークドライブのファイルを削除する際にはごみ箱ではなく、いきなり削除してしまう。 UNIX の Samba はもちろん ~/.trash に入れるようなことはしてくれない。 ということで「不注意にも Windows で削除してしまったファイル」がそのファイルだったわけだ。

なんでそんな仕様になってるかというと、おそらくネットワークドライブは転送速度が遅く、相手のファイルシステムが不定であり、同一ファイルシステム内でのファイル名変更のような簡便高速な手段でごみ箱に入れることができないからだろう。 でも「ネットワークドライブのファイルもローカルドライブのごみ箱に入れる」というオプションが欲しい。

バックアップは毎日取っている。 しかし「毎日取っている」ということは機械的障害にはほぼ十分な備えを取っているといえるのだが、これは人為的なミスによるファイル喪失はある程度無視した形になる。 この管理体制の弱い点を突かれた形だ。

しかしまあ、色々手は打っているのだが、一番弱いところをすりぬけて障害が発生するものだなあ、と実感した。 ……いや逆だな。 障害が発生したときには、一番弱い部分が繋がって起こることが最も多いのだ。

ある障害に至る経路は複数あり、これは並列にならんでいる。 ここである1つの経路に注目すると、種々の要因が直列に並んでいる。 それぞれの要因にはそこを通過する確率的なパラメータがあって、直列回路全体を通過するにはそれらの確率の積算になる。 これらが確率の積算で計算できるということは、「ある経路で障害まで到達する確率」と「別の経路で到達する確率」とが桁違いに異なりうるということを意味する。 障害が発生したときにその経路に因る確率が 99.99% ならば、それ以外の確率は人間的な尺度では無視できる。 「事故(障害)が発生した時には、安全管理上最も脆弱な部分が連鎖的に繋がって発生する」というのは、こういうことなんだろう。


2006年04月22日(土)

ネットを漁ったが、vim でのマウスによるペースト時のオートインデント制御はどうも上手く行かないものみたい。 「標準入力の速度を見張っていて、Enter が押されてから次の入力が来るまでの間隔が0.01秒以内だったならマウスによるペーストとしてオートインデントをオフにする」とかの機能を組込めば九分九厘然るべき動作をすると思うのだけど、ダメかなあ。

まあとりあえず、Emacs に回帰しようと思う。 でも1年以上 vim メインで生きてきたので指が慣れない。

現時点の設定では、日本語ファイル名のファイル、ディレクトリで上手く動作しないなあ。 まあ環境の UTF-8 化が完了してから手を打つか。


2006年04月23日(日)

Windows で気に食わないのは、ドラッグ&ドラッグでのファイル移動/コピーの挙動が、移動元と移動先のドライブによって異なるということ。 同じドライブ内ならば移動になるが、異なるドライブならばコピーになる。 このため移動/コピーしようと思った時にはユーザはその判断を要求される。 それよりはドラッグ&ドロップのデフォルトは移動、shift 押しながらだとコピーとしてしまった方が多くのユーザの作業コストは下がるだろう。

人間が環境を変化させうるこの時代は、人間にとって有益である、という生存戦略が成り立つのだな、と思った。 益虫・益獣は保護されるし、害虫・害獣は駆除される。 また、食って美味いものは乱獲されないように、捕る量を調節されるとか。


2006年04月24日(月)

早く目が覚めたのと、やるべき仕事が一杯あったので 7:00 に研究室。 20:00 まで目一杯労働。

個室に対するあこがれみたいなのは持っていたけれど、助手ごときがそんな環境にあるべきではないと思う。 だから学生部屋の一角に入ろうと思っていたのだけれど、なんか色々あって今年は個室になった。 まあ単純に嬉しいんだけどね。 来年は学生が増える筈なので、現在の学生部屋に入り切れなかった(不運な)学生も何人か部屋に入ってくる、のかな。


2006年04月25日(火)

ブラインド設置。 オフィスっぽさが4上がった!

やることいっぱい。 しかし昼のうちに終わらなかったので今日はお泊まり。


2006年04月26日(水)

人間には最適化しようという性質があり、ルーチン化された作業を行う場合にはこれが強く働く。 よりよく知れば、定められた手順になにも工夫しないことが最適である場合も多いのだが、その時点での自分の常識で「これくらいの簡略化は構わないだろう」と簡略化してしまう。 この最たる例がかの動燃の事故だ。 作業員は臨界という現象を知らず、「物質を一箇所に集めることが現象のキッカケになる」ということは彼の常識にはなかった。 一般人の感覚もそうだろう。 彼は2回に小分けして運んでいたが、毎日続けるうちにこう思うようになるわけだ。 「2回に分けて運んでいた容器を、大きな容器に入れて1回にして運んでしまっても良いのじゃないか?」

勿論、定められた手順から逸脱した彼にも非があるだろう。 だが規則を定め、作業手順を考える側は人間のこの性質をキチンと認識しておく必要がある。 「なぜそのような手順が必要なのか」ということを理解すれば、彼がそのような簡略化を試みる可能性は格段に減少する筈だ。 教育訓練とは、規則を伝えるのではなく、なぜその規則が必要なのかという点も含めて教育しなければならないと思う。

規則がそうなってるから、あるいは規則さえ決めれば良い、というのは人間の性質をよく理解していない立場だ。 「人間が手順を簡略化しようとする」というのは、人類の歴史の中で生存に必要な資質だったわけで、人間とは厳然としてそういうものなのだ。

去年たまたま聞くことになったある講義でそんなことを言っていた。 なお、その講義では規則を守らせるために効果的な方策を幾つか提示してくれた。 一つは上記の「なぜその規則が必要なのか」ということをキチンと教育すること。 「規則を守る側の人と一緒に規則を作る」、「一番規則を破りそうな人に相談する」ということも効果的だと言われて、成程と納得した。


2006年04月27日(木) 桜田門 ひらがなで書けば 「さくらだもん」

「IE と netscape だけに対応してるんじゃ困るんだよ」と声高に叫ぶ人がいる、とのこと。 (大学の)先生というのは一度も社会に出ず、そういう社会性を身に付けずに来てしまう人がいる。 私がいうのも何だけど。 自戒、自戒。


2006年04月28日(金)

メールは相手と自分との情報が必ずあるので、メールの整理をする際には相手の名前でやれば良いと考えて、メールを相手の名前で整理し直した。 しかしこれはあまり上手な方法ではなかったようだ。 というのは、相手が複数になる場合があるから。 3人以上でやりとりするすることも多々ある。 単純な「相手の名前で分類」はこの場合に対応できない。

そこで対案として考えたのが人間のグループで分類すること。 例えば私の場合は、仕事、寮、サークル、家族、取引(Amazon とか)、各種ML、等。 ここで考えの鍵になるのは、例えば寮と大学というような別種のグループの人間が1通のメールに混在することはほぼ考えられないということ。 以前ファイルの整理のときに「直交性」と呼んだ考え方だ。 実際の分類指針としては、1通のメールで複数宛先で共通させることがありうるか、まず考えられないか、でグループを構成する。

仕事(大学)でも学科、専攻、学部とかいろんな括りがあるけれど、これらは独立したグループとして扱うべきだろうか? いや、これらは容易に混在し得るので独立したグループとして分離するべきではない。 また今の大学の人と、前の大学の人といるが、これらについても共同研究が行われることは考えられない事ではないので、独立させるべきではない。 やはり、仕事は全部で一塊にすべきだろう。

上記の「今の大学の人と、前の大学の人」の例だが、実際に混在するまでは別グループに分類しておくのも良い手だと思う。 分類するのは手間がかかるが、統合するのは簡単だから。 細かめに分類しておいて、混ざるメールが出現した時点で統合する、というのも悪くない指針だろう。


2006年04月29日(土)

XCrySDen が FreeBSD で動いた。 これで無理して Linux で X を動かす必要がなくなった。 ……てことは、VASP も FreeBSD で動くんじゃなかろうか…… と思ったけれど、これはさすがにやりすぎだろう。 余興的なテストとしては面白いけれど。

ふと思ったのだが、メイン PC も FreeBSD やめて、Linux にした方が良いのかな。 今は Linux の設定ファイルの位置とかを記憶していないのでいざというときに一手間かかる。 ほぼ惰性で FreeBSD を使い続けてきたわけだが、一度 Linux というものを深く知っておいた方が良いかも。 両方使って初めて分かることとかあるだろうし。 とはいえ、私の使い方では FreeBSD/Linux に依存する部分があまりなく、違和感なく使えてしまうような気もするのだが。 時間に余裕ができたら少し検討してみよう。

車と船を比較すると、一般に船の方が燃費は悪くなると思う。 というのは、船はスクリューが後方に押し出した水の分だけ前方に加速され、その際水の運動にエネルギーの一部が失われるから。 車も車輪によって地面を後方に蹴るわけだが、地面は固いため地球全体を後方に押し出すことになり、これによって失われるエネルギーはほとんどないことになる。

船、特に大きな船で荷物を運んだ方が効率が良さそうに感じる。 しかし、そのスケールメリットが数式の上でどのようにでてくるのかよく分からない。 「効率良さそうに感じる」のが錯覚であるような気もする。


2006年04月30日(日)

NHK スペシャルの北朝鮮の奴。 問答無用に面白かった。 どうしても嫌悪感が先に立ってしまうのだけれど、冷静に見ると北朝鮮の外交手腕ってすごいと思う。 人としてあのような姿勢はどうかと思うが、腕前は認めざるを得まい。

私の考える事務処理能力というもの。 まず「すぐ行動する」というのが大前提。 その上で、以下のようなことだと考える。 処理しなければならない仕事というのはしばしば確率的に発生するが、ある時同時に複数の懸案を抱えることがあったとする。 この時、複数の懸案のそれぞれに適切に優先順位を付け、然るべき順序で処理して行くこと、後からキューに入れた仕事を忘れずに実行すること。

自分フェーズと他人フェーズの混在する仕事があるならば、他人の仕事には一定の時間がかかるので、その時間に自分フェーズの(他の)仕事をこなしておくとか。 すなわち、優先順位を決める際には他人フェーズを控えている仕事は優先すべきだ。 他人が仕事をしている間に自分が別の仕事をするというのは、並列処理とかパイプライン処理とかいう表現もできそうだ。 CPU の処理効率化の感覚は人間の仕事処理にもかなり当て嵌まる。

義兄の台湾土産は唐墨(からすみ:鯔(ボラ)の卵巣の塩漬け)と「ぶたでん(豚の田麩)」。 ふと、唐墨には海苔が合うのではないかと思って試してみると、滅法美味かった。 好物珍味第一位の座を韓国海苔から奪い取った瞬間だ。


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