きづき(日記)

last-modified: 2011/12/14 02:52:17. JST

2005年11月01日(火)

FreeBSD の立場に立って Linux の短所を挙げる時に「ディストリビューションが沢山あること」と言うことがある。 それは「どれを選んで良いかが分かり難い」とか、「トラブルシュートがディストリビュ ーションによって異なる表現をしなければならない(e.g.「RedHat系では〜〜、Debian系では……」)」ということを指摘している。 でも、沢山ディストリビューションがあるおかげで、あるトラブルを回避するのにディス トリビューションを替えるだけで対応できるケースがあるのだと気付いた。

「自分以外の価値観を認めない価値観」。 少なくともその価値観の差異がどこにあるのかを突き詰めることまでは私の基準では正当なことだ。 差異の起因する処が理解できたら、あとはそれを取り入れるか取り入れないかだけの問題になる。 私が相手と議論をするところまでは妥当だろう。

てゆーかさ、議論って勝ち負けじゃないのに。 なのに身構える人が多いこの世界は少し悲しい (恐らくは「負けたくない」との思いに身構えられて)。 私は自分のあるべき姿を模索しているだけなのに。 私が間違っているのならそれを論理的に正して欲しいのに。

私は相手が間違っているのならその人を正したいと願っている。 それによって相手が将来受ける不利益を軽減したり、言わば人生をより良くすることができると信じているから。 でもそんな考え方をする人はあまりいない気がする。 もう面倒だから自分が正しいと信じられればそれで良いと、相手に働きかけるのはやめにしようかな。

……まあ相手によるか。


2005年11月02日(水)

PC組んで Linux 入れるという単純作業もその8倍の仕事になると結構手間。 どの作業を優先するかを決めるのも結構メンドい。

冷静になってテキストエディタに書き出してみるとどれを優先すべきかは一目瞭然だったりする。 やっぱりテキストエディタとメモツールがないと(効率的に)仕事ができん。


2005年11月03日(木)

WERDNA 攻略! MAHAMAN 2発消費したけれど。 ちゃんとリセット禁止プレイでここまで到達した。 ここに来て漸く私は、 迷宮街に住む資格を得ることができた。

なお、さらに縛り事項として GOOGLE 禁止を課していた。 ある意味最強の呪文かもしれんからな。 昔 Wiz5 をリセットプレイでクリアしたことがるので、その時の記憶のみで戦いますた。 やっぱマップは自分の手で埋めるのが楽しいよな。

さて、Greater Damon を狩ろうか。 リセットプレイも情報収集も解禁です。

文化の日、ということで寝坊。 起きて、さあ寝袋を買いに行こうか、学校に行こうか。 まずは寝袋を買ってから考えよう。 と家を出た瞬間雨がパラついた。 やる気がなくなってひきこもり。


2005年11月04日(金)

昨日の夜から研究室の PC にアクセスできなかったのだが、来てみると死んでいた。 調べてみると X を動かすと死ぬらしい。 ビデオカードを持ち帰って調べてみるとやはりコイツが機械的にダメになってたようだ。 てゆーかヒートシンクとコンデンサが隣接してるって、設計からしてアカンやろ、と今見て思った。 しゃあない、ビデオカード買うかぁ。 研究で使うものなので校費で買えるのだが、手間が面倒。

ビデオカードより PC 本体を刷新したいんだけどな、本当は。 VIA-EDEN で小さくて可愛い筐体で組みたい。 でも5年物の Celeron 400MHzとそのマザーは、何かタフだ。 まあ動かなくなってから新調するとなるとその間のタイムラグが痛いので 今の内に手を打っておくべきかもしれん。 ついでに調べておくか。

新規導入 PC への Linux インストールが大変。 仕事柄最新に近い計算機を使う場面が多く、そうするとどうしてもデバイスドライバとかで苦労する場面が多い。 これは締切がちょいとタイトな仕事だし、かつ私の予定として来週から雑用で忙しくなる筈なので終電間際まで粘って作業。 でも終わらず。 本当は研究室で泊まりにしたかったんだけど、寝具がないので仕方なく帰る。 昨日寝袋買いに行こうと思ったのは「その内必要になるだろう」ということだったのだが、こんなに早く必要になるとは。 ちょっと間に合わなかったよ。


2005年11月05日(土)

Linux インストールのために出勤。 しかし18:00に家族と飯を食うという約束があったので思うように時間が取れず。

Gentoo 悪くないな。 手軽に何でもやってくれるインストーラはないけれど、インストール作業そのものが UNIX システム管理のツアーになっている。

カタンはなかなか勝てんなあ。 出目の偏りをカバーする戦略を考えなならん。

ライフセイバーって武器の名前っぽいね。


2005年11月06日(日)

学校行って計算機のセットアップをするつもりだったのだが、停電で不可能に。 停電が復旧したとしてもネットワークが止まってては作業できないし。 そして、停電ってウチの研究室は範囲外だろうと見切り稼動させていた計算機の HDD に異常がないことを祈るばかりである。

授業の演習の解説をする必要があって数学の勉強をやっている。 その関連で『無限と連続』(遠山啓)という本を勧められた。 ちょっと理解が追い着かず読み進んでなかったんだけど今日時間がポッカリ空いてしまったので根詰めて終わりまで読んだ。 分かり易く、物理との繋がりも軽く触れてくれる良書だと思う。

よく出来ていると思うのは、表現が平易で分かり易いということもあるが、 ちょっとした例え話に伏線が効いていること。 第1章に整数の話をするところで「ホッテントット人の数え上げ方法」をちろっと出しておいて、第4章で「理想的要素と現実的要素との対比」で再掲するとか。

群論がどういうものかが大体分かった。 とはいえ私のやっている結晶物理なんかではとっくに理解してなければおかしい物なんだけど。

群の類別をするための同値律という考え方を初めて知った。 ファイルの整理とかについて考える際の一つの礎になるかもしれん。

変換群とか射影という観点で遠近法、特に広視野像の歪みを整理できんやろか。

勉強するのって楽しい。 やっぱり何かをするのには覚悟が一番大事なんだと実感する。 一年前まではこんなに勉強せんかったなあ、博士課程に籍を置いていながらも私は学者になるつもりはさらさらなかったんだな、と今更のように思う。 今からでも取り戻せるよ、たぶん。 やるよ、俺。

吸熱反応がどういうことなのか理解できてない。 反応物から生成物への変化によって自由エネルギーが低い状態になること、その時のエネルギー差が駆動力となって反応が進行する。 この自由エネルギーの差分が熱などの形で外部に放出される。 これが熱力学的な理解なんだけど、吸熱反応では自由エネルギーが高い状態へ遷移する。 吸熱反応の進行する加熱環境下では「自由エネルギーが高い方が安定」ということになっているのか? そんなわけないだろう。

一つ仮説を立ててみた。 2つの状態の間に一方通行の経路が正方向と逆方向に1つずつあるとする。 このとき、吸熱方向の活性化障壁が低く、発熱方向の活性化障壁が極めて高いとする。 すると吸熱方向の反応は高々吸熱エネルギー分 + α程度で反応が進行するが、 発熱方向にはほとんど反応が進行しないことになる。

「地球惑星科学連合」。 地学系を統括する学術組織の正式名称とのこと。 イカした名前を付けるなあ。

ウチの猫の不思議なのは、動物番組の時だけテレビをじーっと見ていること。 動くものでも機械とかだと全然興味を示さない。 彼には映っているものが何なのか、少しは理解できているようだ。


2005年11月07日(月)

雑用ウザい。

今は『高校数学でわかるマクスウェル方程式』(竹内淳:ブルーバックス)。 名著とは言えないだろうけど、この方面の知識の乏しかった私には十分な本。 大学教員の中にはこういう平易な本を嫌う人がいるんだけど、私は可能な限り平易な本を沢山読んで、それから難解な本に進むべきだと考えている。 読む分量は増えるけど、その方が理解にかかる時間の総量が減るだろう。 「大学の生協が平易な本しか置かなくなった」というのは退化ではなく、理解するための最適解に近付く進化だと思う。 難解な本はそもそも専門化した少数しか読まないんだし、そういう本は図書館が揃えている筈だし。

そもそも教育(学習)において最も貴重なリソースは学習する人(学生)の時間なのだ。 その時間を最小にする為の、あるいは彼が学習の時間を自発的に確保する意欲を持つ為の方策について我々教員はもっと貪欲になるべきだ。


2005年11月08日(火)

雑用を効率的に処理するために作った表を褒められた。 なんか嬉しい。 漫画でも褒めるってのは大事なんやろなあ。

はじめてのおとまりかい。 さくさく Linux を使えるようにしなければならないので、出勤退勤の時間を惜しむということで研究室に泊まってみた。


2005年11月09日(水)

土曜日に購入した寝袋はかなり快適。 ある程度調べた上で「研究室で寝泊まりするのに使うので使用気温や収納性は全然タイトじゃない」と決めていたのが良かった。 良い買い物をした気分。 だけど床が固いなあ。 研究室に毛布を持って来なくては……。

このサイトでかろうじて社会の役に立ってそうなのが『UNIX 今日の技』というコンテンツ。 これは元々研究室内ローカルネット限定 UNIX 教育コンテンツだったのだが、某氏の勧めに従って外に公開したものだ。 頻繁に更新してた時期は D3 の春〜冬と、客観的にはもう研究とか博士論文からの逃避と受け取られても仕方がないようなもの。 毎日1トピック更新してたし。 そして卒業してからピタッと更新しなくなったし。

とはいえそこそこ自信のあるコンテンツなのでウェブでのリンク状況(評価)はどうなってるかな、と月1回くらいかの頻度で UNIX 今日の技をググってみたり。 zsh は元々そこそこな人気コンテンツだったけど、 UNIX 今日の技/実演 vi も10/20 頃から目立っているみたい。 でダラダラ見回っていたら、どうやらそこそこな大手さんに拾われてたみたい。 だからどうということはないのだが。

書こうと思ったらまだ書ける、と思う。 (漫画描きの習性か?)ネタ帳には書くべきネタを記録してある。 でもあのテンションは完全に失われてしまって、D論みたいな追い詰められ状態にならないと書けないのかもしれない。 手動でいろいろ更新するのが面倒という問題もある。 これには手元 hiki で更新してそこからスクリプトで抜き出すというのもありだけど、それかなりオーバースペックだしなあ。 ……という技術的な問題よりも、今それどこじゃねえんだよ、雑用で。

交流電流からは電磁波が発信される→エネルギーが失われる→しかし同軸ケーブルだと内と外とで磁界が打ち消し合うのでエネルギーが失われない。 同軸ケーブルの優位性はこういうことらしい。 なるほど。 ついでに気になったので Wikipedia で ツイストペアケーブルについて調べてみた。 これまたなるほど。


2005年11月10日(木)

雑用の横で Linux のセットアップ。 随分 Linux の知識がついてきた。 あと一息。

雷の発生する仕組みとして、「雲のなかで水滴同士がぶつかることで摩擦電気が発生する」という説明を聞いたことがあるが、若干不思議な気がする。 同種の物質同士では静電気は発生しないことになってるんじゃなかったっけ?

たまたまチケットの余りを貰ったので落語を聞きに行ってみる。 まあ面白いのは面白いけど、同じ時間を使うなら今の私は本を読んだりする方を選ぶな。


2005年11月11日(金)

計算機のセットアップ完了→本格稼動。 週末までに間に合わせることができたー。 安定して走るかどうかはこれから運用してみないと分からないけれど、とりあえずキレイに動いてくれてキモチイイ状態。

あれ? 別の計算機よりクロックが速い筈なのに、計算時間は長くかかってるな。 ちょっと調べなあかんかな……。 でも今忙しいのでまた今度。

議論とは相手を打ち負かす為の口喧嘩のことではなく、自分が在るべき在り方を模索する為の(あるいは科学において真理に至ろうとする為の)手段だと私は思っていた。 だが手持ちの辞書には前者しか記載されていなかった。 「議論」という言葉には本当はその意味しかないのだろうかとちょっと煮え切らない感覚が続いていた。 そんなある日、ソクラテスの事を知った。 彼にとって議論は真理に近づくための手段であった。 ソクラテスとの議論において偽とされた命題を掲げていた弁論家は、「議論に負けたこと」に対して怒った (ソクラテス自身は勝つことに価値を見出していなかっただろうが)。 なぜなら弁論家にとっての議論とは自分の説明能力をひけらかすためのものだから。 弁論家にとって自説は真理から離れても正しくなければならないから。 ここで私の議論の捉え方はソクラテスに近い、といったら格好付けすぎだろうか。


2005年11月12日(土)

相対値でしか評価できないのは何故だろうか、それが妥当かどうかは絶対値として判断すべきじゃないのか、などと以前から思っていた。 これに対する答えとして、選択肢の有無ということに思い至った。 他に選択肢がなければそれが唯一のやり方なので、絶対値がどうであろうと結局それを選ぶしかない。 今のやり方が相対値として低いならば、より有利な方に乗り換えれば良い。 相対値が存在するということは、今のやり方以外に選択肢があるということを意味している (それが選択肢として機能するか/しているかどうかは別の議論として)。

同様に「最善」というのも相対値を前提としている。 人生において人間が為し得る選択は最善を求める選択肢であると、 つまり人生はこの選択肢の連続であると見ることができる。 ここにおいて絶対値は殆ど意味をなさない。

神の視点で絶対値を量れるのなら、それはどのように見えるのだろう? ネアンデルタール人の人生と、今の私と、1万年後の世界を生きる誰かの人生を定量的に量れるのだろうか。

『バベットの晩餐会』(イサク・ディーネセン)。 行き付けの酒屋の店主に勧められたのは映画の方だったが、手に入らないっぽいので小説の方。 うーん、まあこんなもんか、という感じ。 ただ映像にして映えそうな作品だと思った。 どうにかして映画を見たいなあ……。

一つ心に響く、というか耳に痛い台詞があった。

「(略)次善のものに甘んじて満足せよなどといわれるのは、芸術家にとって恐ろしいこと、耐えられぬことだとおっしゃったのです。 芸術家が次善のもので喝采を受けるのは、恐ろしいことなのです。 あのかたはおっしゃいました。 芸術家の心には、自分に最善をつくさせてほしい、その機会を与えてほしいという、世界じゅうに向けて出される長い悲願の叫びがあるのだと」

俺は芸術家ではないのだなあ、と。 絵に違和感を感じても、それをつきつめることをせずに妥協することばかりだったなあ、と。


2005年11月13日(日)

カレンダーの原稿修正に手をつける。


2005年11月14日(月)

雑用仕事の大詰め、つまり死ぬほど忙しい。


2005年11月15日(火)

雑用仕事終了。 そして飲み。 しかし残念ながら明日の1限に担当があるので思う存分には飲めず。

そして、研究室に泊まる。


2005年11月16日(水)

アマゾン経由古本『ニャロメのおもしろ数学教室』(赤塚不二夫)到着。 キチンと数学していて、なのに軽妙洒脱な赤塚漫画になっている。 名著だと思う。 元々は私が小学生のころに姉が持ってた本で勿論読んだことがあったのだが、 自分の本として持っておきたかったので。 小学生の私に数学の素養を与えたのはこの本と算私語録(安野光雅)だった。

早めに帰ってすぐに寝酒を入れ、そそくさと寝る。眠る。 原稿描きたかったけど体力がもうない。


2005年11月17日(木)

11時間睡眠。

仕事から帰ってお絵かき。


2005年11月18日(金)

午前5:00までかかった。 それから寝て、ちょっといつもより遅くなったけど学校に行った。 木曜日にちゃんと寝れたからまだ保つな。 原稿は午前中に速達で郵送。


2005年11月19日(土) 「あの『マイナス』をついに…ついに……克服したぞ!」

昨日郵送した原稿は今日の午前に着いたらしい。 日本の流通・配送システムは本当に優秀だなあ。 (他の国の状況はよく知らないけれど)

ユニクロで衣料の調達。 その後もうちょっと良さげな服屋に行ってみたが、ベストを着けている限り服装の幅が狭いことに気付き何も買わずに退散。 その後東急ハンズを地階〜8階まで全フロア踏破してみたり。 そこで小さなショルダーバッグを購入、うまくすればベストの機能をこの鞄に代えられるかもしれない。 あとは耳掻き、ダイス(20面,12面、8面、6面)。 ダイスは特に必要というわけではないけれど、正多面体になっているのでなんか見ていて美しい。 店には菱面30面体というのもあってある意味美しかったが、デカくて可愛くなかったので放置。

ブックオフで『マイナス[完全版]』(山崎さやか)。 10年ほど前に単行本1巻を買ったことがあったんだが、痛々しくて辛くて読めなかった。 私の魂の奥の方をゆさぶるかなり嫌な漫画だ。 ……が、嫌なものスキーとしてこれは踏破せねばならない山ではなかろうか、などと妙な使命感に捕われた。 いや、やっぱり凄かった。 そして辛かった。 すごいなー、こんな物を作れるんだなあ。

『失踪日記』(吾妻ひでお)も買った。 面白い。

片付けと平行して風車小屋49号スキャン。


2005年11月20日(日)

ますます『ムカッ腹』が立って来たぞ…… なぜ英語のためにぼくがビクビク後悔して『お願い神様助けて』って感じに逃げ廻らなくっちゃあならないんだ? 『逆』じゃあないか? どうして英語を勉強しないで済むなら『下痢腹かかえて公衆トイレ捜しているほうがズッと幸せ』って願わなくっちゃあならないんだ……? ちがうんじゃあないか?

「英語の勉強する事は避けられない」と思ったけど、そうじゃない。 これから先はどれだけ英語を勉強しても、それは全く無駄にならないんだ。 学生時代に英語の勉強をする気にならなかった主たる理由が「将来英語が有用な仕事してるか分からんし」だったのを思い出した。 学者への憧れはあったが、自分が学者になれるなんて思ってもおらず、3年後には場末の現場でプログラマ見習いかネットワーク管理者でもやってると思ってたからなあ。

「経験が無駄にならない」感覚の例えとして、FF4のパラディンになったあとのセシルを挙げてみようと思ったが、例えの親和性が高すぎる気が。 学生から学者へクラスチェンジして経験を蓄える。 それはジョブチェンジしない限り有効に働くだろう。 ……生々しくてちょっとヤな感じ。

それにしても、JOJO の台詞は使い易すぎるよなあ。

「ほっとけない世界のまずしさ」ホワイトバンド・キャンペーンというのがあるが、 自身のスタンスを表明するが実質何の効果もない行為よりも、不言実行の方が格好良いと私は思うのだがなあ(例えば誰にも知られないところで300円募金するとか)。 まあ美学の問題なので、晒すことが格好良いと思ってる人はそれで良いと思うけれど。

ホワイトバンドキャンペーンは当初募金と勘違いされて叩かれてた(実際私も嫌いになった)が、最近は売り場でもちゃんと「募金」ではありませんと明記されているので、まあ悪い物ではないと思う。 商業上面白いやり方なのでその点は評価する。

数年間書き散らかすだけにしていたネタ帳の整備をする。 漫画描かねっつってんだから整備しないで放置するのがコスト対効果的には正解なのだが、後片付けはした方が気持良いよね、という話。


2005年11月21日(月)

ちょっと茶化してみる。

「DNA は生物の体の設計図」という言われ方がされるが、生物の体のような複雑なものがどのように描かれているのか全く想像がつかなかった。 どうも「設計図」という言葉から誘起される工業製品の投影図のようなイメージが強すぎたらしい。 最近になってようやくイメージがつかめるようになった。 たぶんこれは、化学的な環境に対しての反応の仕方で記述されているのだろう。 ある器官が作られるのを誘起する環境があり、かつそれを阻害する環境がない状態に、その環境に対する反応として細胞はその器官になろうとする (環境というのは多くの場合化学物質だろう)。 そして器官が生成されればその器官自身が器官形成を阻害する環境を作ることで複数の器官が形成されるのを防ぐこともあるだろう。 生物の体を構成するのに必要な全ての反応のみが記述されていると考えるのが妥当だろう。 膨大な if 文によって記述されたボトムの部分を綿密に書き上げたコードが DNA で、それを核に行われたシミュレーションの結果が生物の体となっていると見ることができそうだ。


2005年11月22日(火)

吸熱反応の仕組みが分かったかもしれない。 室温では B→A の反応が発熱反応だが、高温では逆に A→B が発熱反応になるとする (このような反応は少なくない:例えば酸化銀の還元反応)。 以下のサイクルを考える。

  1. A を高温に上げる(ΔH1の吸熱)
  2. そこで A→B に変化させる(ΔH2の発熱)
  3. B から熱を取り出し、低温に持って行く(ΔH3の発熱)
  4. 低温で B→A に変化させる(ΔH4の発熱)
■図に描くとこんな感じ(等幅フォントじゃないと上手くいかんかも)
	         ΔH2
	          ↑
高温   A_h →→→ B_h
	     ↑    2.   ↓
 ΔH1→↑1.     3.↓→ΔH3
	     ↑    4.   ↓
低温   A_l ←←← B_l
	          ↓
	         ΔH4

E
↑          ----A_h
↑                  ----B_h
↑                          ----B_l
↑  ----A_l                         ----A_l
	→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→process
	         1.      2.      3.      4.

ここで 1.→2.→3. までの操作を考えるとほぼ自明だろう。 高温において物質は熱を取り込みながら反応するのではなく、やはり発熱しながら反応する。 全体のプロセスとして吸熱となるのは物質A と B の比熱の差が重要な役割を果たし、逆に言うと A と B のエネルギーの差、その温度依存性はそれぞれの物質の比熱に反映されていると言える。

NF 行きてえなあ、けど仕事が片付くかなあ。


2005年11月23日(水)

鼻腔内にカサブタができて、乾いては剥がし、と半年ばかりずっと治らなかったのだが、思い付いてメンソレータム塗って寝てみたら、一日で治った。 凄えな、湿潤療法。

研究室では静電気がバシバシ飛ぶ。 もうムネがパチパチするほど sparking。 それに気付かずドアノブに右手をかけるとパチッと鳴ってびっくりする。 とここで思ったのが、びっくりするのは放電が痛かったというのが予想外の事だったからというだけではなく、心臓付近に電流が流れているからというのもあるのではないかと。 体全体が帯電していて右手から放電すると、左手付近に貯まっていた電荷は体幹を経由して右手から抜けて均一化される。 心臓付近では電荷の移動、すなわち電流が流れている筈だ。

放電するのを予想していても、びっくりした時のような心臓が冷えるような感覚が残る。 ということは、「びっくり」は「予想外の事象」のみに引き起こされる感覚ではないのかもしれない。 では予想内なのに何故びっくりするのか。 我々は「その事にどれだけびっくりしたか」を評価するのに、自身の心臓の鼓動がどのように変化したかで評価しているのではなかろうか、と考える。 そうだとすれば心臓にダイレクトに刺激を与える電流は、我々がそれにびっくりしたという錯覚を与えるだろう。

吊り橋効果は、この仮説の良い参考になるだろう。 wikipedia によると、「生理・認知説は人は生理的に興奮していることで、自分が恋愛しているということを認識するというもの。実験のみで厳密に立証されているわけではないが概ね正しいとされている。」とのこと。 (「びっくり仮説」に当て嵌めると、生理的に鼓動が変化することで「その事象にびっくりした」と認識する、となる)

「充電状態でドライバーを両手で握り、ドライバーの先から放電する」という実験をしてみた。 両手で握ることで心臓付近の電荷が両手から抜けていくため、心臓付近での電流は僅かとなる筈。 ドライバーの先から放電するのは放電する点を肉体じゃなくすことで痛覚の刺激をなくすため。 結果はほとんどびっくりせず、腕の筋肉がビクっと収縮しただけだった、ような気がした。 他にも「両手をつないで指先から放電してみる」とか「片手でドライバーから放電してみる」とか試してみたんだけど、定量性があまり良くないので言及は避けておく。


2005年11月24日(木)

学生実験のレポートを見ていて気付いたのだが、実験の理論的背景について学生の理解度があまり良くないらしい。 ならば改善を試みよう、というところで気付いたのは、この手の説明はまんまプレゼンテーションと同じだなあ、ということ。 そこで如何に聴衆の意欲を引き込むかということに注意して、また途中幾つか学生への質問箇所を設けたりしながら、自分が説明する手順を示した台本を作ってみた。 今日の手応えだとなかなか上手く行った予感。 本当の結果は、来週提出のレポートの出来で分かる。

仕事持ち帰り。 学会発表のプレゼン資料は何とか形になった。 あともうちょっと背景部分を再確認しないとあかんけど。 NF には何とか半日ほど行けそうな予感。 まあ明日の仕事次第なんだが。 上手く行けば金曜夜〜土曜昼くらいまで京都に行きます。


2005年11月25日(金)

静電気の放電は電流量としては電流としては多分大したことなくて、心臓にショックを与える程じゃなさそう。 例によってちゃんと調べてないけれど。

仕事はそこそこつつがなく進んだので、退勤後直接京都へ。 ビィヤントが定休日だったので(忘れてた)、大龍亭で天津飯を頼んでみたけどこれがあまり美味くなかったのでションボリ。 そいで酒を買って漫研スペースへ行って、好い感じに酔っ払ってました。

漫画創作についての話ができて嬉しかった。 特に私の絵に対する執着のなさがある意味勿体無いという話。 指摘された通り、私は『ああっ女神さまっ』の方向性で決めてしまっていたけれど、それは本当に私が描きたい話にマッチした絵柄かどうか考えなければならなかった。 自分の(独自の)絵というものについて考えなければならなかった。 これこそが私の漫画の完成度を上げる最良の方法だと指摘されて、……指摘されてから自分が気付きながらもそれから目を背けていたのだという事を実感した。 具体的にはもうちょっとリアルから離れてデフォルメに寄せた方が良かったんだろうなあ。


2005年11月26日(土)

年寄連中と進々堂でブランチを取った後、一人NFの室内展示巡り。 美術部の去年の展示にはちょっと自己満足っぽい感じを受けたけど、今年は全体的に中々良かった。 小説同好会(だったと思う)の壁展示に『守株』をモチーフにした話があってこれが大変良かったのだが、会誌には載ってないのが残念だった。 漫研以外のイラストサークルがあったけど、ちゃんとやってる人はやっぱり絵上手いね。 デジタルフォト部(?)の展示では、ちゃんと写真やってる人の写真は綺麗だなあと思った。 そういえば写真部の展示を見なかったなぁ。 写真といえば漫研の隣の鉄研の写真も毎年楽しみで、テーマがきっちり定まってるので安心して見れる感じ。 書道部は去年、一昨年ほどにはエキサイティングな感じを受けなかったが、これは見てる私に時間的・精神的な余裕があまりなかった所為かもしれぬ。 一周して漫研スペースに戻り、そして昼過ぎに京都を離れた。

帰りに寮に寄った。 どうやら2人目のテトリスCタイプラインカンスト者が現れたらしい。

「おりひめ」と「ひこぼし」、恣意的に略すと「おめこぼし」。 なんだか卑猥な星みたい。


2005年11月27日(日)

学会のために新潟へ出発する1時間前にノートPCのVGA出力ケーブルを研究室に忘れていたことが発覚。 急いで出発の準備を終わらせて研究室、そのまま直で空港へ、そして新潟へ。 あーしんど。

雲はどうして塊になっていられるのだろうか? 風なんかで拡散されて散らされてしまいそうな気がするのだけれど。 ファンデルワールスのような力が働いているのだろうか? それともスケールの問題だろうか?

静電気除去シートの原理ってどうなってるんだろう? 導電性のあまり高くないものでアースしてるのかな。


2005年11月28日(月)

セッション間の休憩時にPCをプロジェクタに繋いでみたが映像が映らねえ。 結局他の発表者の方の PC を借りることに。 VGA ケーブルを一生懸命研究室まで取りに行った意味なし。

不利益を被った時、相手に対して怒るべきか否かは、それが相手の故意かそれとも過失によるのかに依るべきだと考えていた。 故意ならば悪意を以って私に害をなしたと見れるので相手に怒るべきだし、過失ならば次から改善して予防してくれれば良い。 そもそも過失を完全に防ぐことなんて人間には出来ないのだから、過失には寛容であるべきだ。 しかし今日、もう一種類「事故」という要素もあるのだと思った。 私の取れる万全の手を打っていたにも関わらず、何かの弾みみたいなもので私はPCを使うことができなかった。 これは「事故」であって私の「過失」ではない。 しかし、PC の VGA出力ケーブルを忘れたのならばそれは「過失」だ。 事故にあっては過失より当人の責任の度合いが下がる。 その意味で私が VGA出力ケーブルを取りに戻ったのは正しい行動だったのだと思う。

発表なんだが、どうも聴衆の反応が鈍かった。 どうも専門性が高すぎたのではないか、と元上司。 そういえば、「自分が研究を始める前の人にサクサク分かるように話をしなければならない」と自分で思っていた筈なのに、それを実現できていなかったことに気付く。 未熟だな。

出身大学の若手(?)先生方その他に混じって酒飲み。


2005年11月29日(火) I should not, but must be it.

懇親会。 新潟は酒どころ。 日本酒をメインでいったら飯が食えなかった。 私の発表はそこそこ印象強かったらしく、何人かの方が話しかけてくれた。 私はどうも説得力があるように話をするのが上手いらしい(自分でもそう思ってはいるのだが)。 発表の時に反応が鈍かったのは それで反論しにくい感じだったのかな。 すげえな俺。

懇親会後、昨日とは別件で出身大学の先生方と酒。 おさかなおいしかった。 新潟は良かところばい。

春の別学会でも同じ内容で話をする予定なのだが、上司の先生からのメールで何か根本的に考えが足りなかったことに気付かされる。 ぐええ、今回その勘違いを基に話しちまったよ。 懇親会で話をした少数にも自信満々で話しちまったよ。

私は学者になるべき人間ではないと痛感する。 どう考えても俺はその資格を持っていない。 それだけのバックボーンは備えていない。 しかし最早私は、学者にならなくてはならないのだ。 私が学者にならないことで俺以外の誰か学者になるべき人に道を譲るべきだったのかもしれないが、現状として今その道には私がいる。 だから私が歩まねばならないのだ。

ぬるま湯に浸りてえ。 どっかにぬるま湯ねーかなー。

あーでもね、ごく少数だが俺より良くない「先生」というのは存在する。 今回の学会で思った。 俺のダメなところは修正する。 絶対する。 だからあと1年待ってくれ。

愚者を見て自分の立場に安心するのは賢者の行いではないが、凡人の精神の安寧には大変効能がある。 賢者を目指す私だけれど、今は凡人の身に甘んじさせてくれ。 自分は少しは生きているだけの価値がある人間なんだと。 「まだマシ」なんだと。

本当に素晴らしい人間は自分の至らない部分を自分で見付けられる人間なのだが、私はその点では(その点でも)凡人なので指摘されるまでは「それでいいのだ」で通してしまう。 普通の人間はそうだろう。 そうして気付かせてくれる人が身近に存在することが財産なのだ。 それを直していく事が一般的なプロセスなので、今まで気付かなかったということを、(勿論恥は恥なのだが)過分に恥じる必要はない。


2005年11月30日(水)

鮭の遡上について。 鮭は自分の生まれた川に帰って来ると言われているけれど、本当なのだろうか? 「面倒くせーからこの辺の川でいいや」という奴も少数はいそうな気がするけれど。

水の味を覚えているのだろうか? でも外洋から帰って来て故郷の川の水を探り当てるのは難しい気がする。 それに何年か経つうちに川の水の味も変わってしまうかも。 別の川の水で育てて放流したらどうなるのだろう? 水の味ではなく地理感覚として覚えている、と考える方が納得できるかも。 渡り鳥の脳内磁石とか、そういう(人間から見た)超能力があってもおかしくない。

というより鮭が海でどう生活しているのかよく分からん。 回遊してるわけではなく、河口付近でダラダラしてるだけなら元いた川に戻るのもそれほど苦労はせんだろう。

Wikipedia で調べていたら 鮭児 という項があって、これは「日本の河川で生まれたもの ではなく、アムール川系のものであることが判明している。」とのこと。 ということは少なくともその鮭は生まれ故郷のアムール川ではなく日本の河川に紛れ混んでしまったと見るべきだろう。

新潟から帰ったところで仕事が二つ。 寝る前に上げにゃならん。 その仕事で 27:00 まで起き。


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