酒の買い出し。 これは親と共同生活してる上で必要なコスト。 カレー作り。 これはこの先1週間のトータルコストを引き下げるために有効なコスト。
学会の概要作成。 なんか上手くいかない。 困ったな。
いつになったらシナリオ作業ができるのだろう? まあ己が怠惰なのがいかんのだがな。
来週末は久々にそういうことが出来るかもしれないかと思ってたが、 共著者から論文編集作業が返って来たのでそうも行かないかも。 さらに学会発表の概要も週の前半に上げなきゃ。 結構ハードだなあ。
来週木曜日夕刻に京都に行って例会出ます。 そいで連休中はきっと京都に居ると思います。
『<子ども>のための哲学』(永井均)読了。 この本は疑問に対する答えを与えるものではないが、彼の定義による哲学と思想の違いについては大いに感じ入るところがあった。 まあ他の人による哲学というものを私は知らないので公平な評価は不可能なのだが。 彼によると、他人の哲学は自分にとっては思想でしかない。 自分にとっての哲学とは自分が根源的に疑問に思った事を掘り下げていく過程のことを言う。 そう考えると私がやっている思索の内の幾つかは哲学に類することであると思う。 この本は私に「明示的な何か」は残していないが、考え方に一つの深みを与えたと思う。
とりあえず学会発表の概要は今日中になんとか形にしなきゃ……。
「知的障害は先天的なもの」という考え方、 「頭の良さは後天的なもの」という考え方。 この両者を同時に持つことはダブルスタンダードではなかろうか。
頭の良さは完全に後天的な資質であると思い込んでいた。 この背景には「人間は生まれ付き平等である」という思想が影響している。 「生まれ付き持った資質というのは平等であり、単純に鍛え方の問題であるだろう。 同じように鍛えれば、同様に頭の良い人間ができるのだろう」と。
だが知的障害という先天的な障害が厳然として存在する。 知的障害者は画一的な評価基準では「頭の良くない人」に分類されるだろう。 しかしそれは後天的に、本人の責任でそうなったわけではない。 言うてしまえば「生まれつき頭が良くなかった」と言えるだろう。 頭が良くない方向には「生まれ付き」という理由が許され、 頭が良い方向には「生まれ付き」という理由が許されないのだろうか?
健常者とされる人についても知性の何処かに欠陥がないとどうして言えるのだろう? 普通に考えると欠陥の全くない人間というのは殆ど存在しないと考えられる。 結局線引きの問題ではないだろうか。
やや語弊があるが「人間は平等であるべきだ」という思想によって、 この色眼鏡によって物の見方を歪められていたような気がする。 平等という思想に基いて世界を正しく見るためには、 逆に人々の間に存在する差を、その存在を正確に把握する必要がある。
もっと分かり易い喩えを思い付いた。 先天的に虚弱体質な人は鍛えても鍛えても体力が上がらない。 また、同じ訓練をしても持って生まれた体質によってその効果が異なる。 個々の人間はこの間に、0/1(デジタル)ではなく連続的に分布する。 この構図は知性という資質の先天的および後天的要因の構図とかなり近いと思う。
しかし「先天的な頭の良さ」を認めるならばそれは選民的な思想を持つ者が現れる理由とならないか? この辺が少し不安になる。 まあ不安になろうがならなかろうが、 (事実が此処にあるかは置いといて)事実は事実として存在するのだが。
今んところ、私にとっての事実は「先天的な頭の良さ」を認めるところにある。 さらにそれは血統による要因より、ランダムな要因が大きいと思う。 名君の実子が暗君であった例は枚挙に暇がないだろうし(例:劉禅@三国志)、 「頭が良くない」両親の元に「頭が良い」子供が生まれる例も多数あるだろう (例:ディオ=ブランドー@JOJO:漫画だが)。
劉備は孔明に、 「もしわが子劉禅が補佐するに足りないと思ったら、 取って代わって皇帝として国家を統率してくれ」と言い残したと伝わっている。 このようなことを言えるだけでも劉備は普通の人間よりも一歩抜きん出た人物だと思う。 だが劉備は、その時点で孔明に君主の地位を禅譲すべきだったと思う。 真に孔明が、劉備が認めていたような人物であるならば、孔明は劉禅から君主の地位を奪うようなことは出来ないことは予期できただろうし、孔明はその後君主の地位を世襲せずに劉備の子孫もしくはもっと然るべき人物に禅譲するだろう。 ……私は横山三国志しか知らないので、他の三国志から見たらこうは言えないかもしれないけれど、今のところそう思う。
幼い頃、少数<多数なのに、多数<無数というのはなんか釈然とせんかったなあ。 さらに言うと無勢<多勢なのがまた。
学生に与えるテーマというのは自分がやりたいことややらねばならないことをまんまやらせれば良いんだな。 で、論文は学生が書ければ彼に書かせれば良いし、そうでないなら自分がまとめて論文にすれば良いと。 完全に独立なテーマを考えなならんのかと、今までなんかちょっと勘違いしていた。 ちょっと出来そうな気がしてきた。
なるほど。 「頭の良さ」を「回転の速さ」と捉えるのならば、それは化学的な反応速度や電気信号の速度が決定的な要因となる。 明らかな障害がない状態ならば、同じ材料で作られている人間の脳はハードウェア的には(元々の意味での「先天的」という意味では)あまり大差ないと言えるだろう。
「0〜1 の線分上の分布(多くの人は 0.8〜0.9 付近に分布)」と 「-∞〜∞ の直線上の分布」を混同していた、というと近いだろうか。
言うてることはそのまま納得できるのだが、「先天的」という言葉の定義の仕方に若干疑問が。 医学とか厳密性の高い分野では「先天的」というのは「生まれた時点でそうだった」という意味以外では使わんのちゃうやろか。 だから「本人の責任ではなく、しょうがない」と言えるのだが、「本人の責任ではなく、しょうがない」からこれを先天的と呼ぶ、というのは論理の向きが逆じゃないだろか。 「先天的/後天的」というのは責任の所在ではなく事実を述べるだけの言葉で、そこに人間が意味を加えているという順序だと思うのだけれど。 私としては「後天的資質の中にも本人にはどうしようもないことがある」という表現の方がしっくり来るなあ。 少なくとも「テレビでそのCMが……」は制御不能であっても先天的とは呼べんと思う。
「先天的に右利き」とかいう表現てするのかな? ちょと気になったのでwikipedea先生に聞いてみた。 「利き手」って先天的に決定されるとのこと。 てことは、一卵性双生児は必ず利き手が一致するということか。 へー。
子供の頃の思い込みといえば、 『「円周率が100万桁計算出来た」とか言ってるけど、円周も直径もそこにあるものなので実際に測って割れば無限に求められるだろう』とか思い込んでいた。 円周率が無理数ということは、則ち円周と直径のどちらかは無限の精度で求めることができない、ということを意味するのだと気付くのは随分後のことだった。 また、物理的な測定で精度を出すのは5桁程度でも既にかなり大変だということも。
かなり忙しかった。 まずは学会概要を出せる状態まで上げる。 研究の責任が外部なので、一応向こうの先生にメールで送る。 木曜日仕事後に京都入りの予定なので論文作業の一区切りまで明日中に上げるべ。
菓子折りに入っていた脱酸素剤に、「開封後発熱しますがそのまま捨てて下さい」と書いてあった。 酸素と化合してエネルギーの低い状態になるから脱酸素剤として働くわけだし、そのエネルギーの差分が熱として取りだせるわけだから当然と言える。 で開けてみたら結構熱くなるのな。 でもこの温かさを我々は知っているッ! あれですね、使い捨てカイロ。 中には鉄粉が入っている、と。
鉄粉が酸化されて酸化鉄になると。 酸化反応の終わった鉄粉に磁石を近づけると引き寄せられる事からこの酸化物はFe3O4なのかもしれない。 でもFeOでも、不動態皮膜として機能する→内部に純鉄が残る→磁石に付く、 ということもありそうだからどちらかよく分からない。 ググル先生に聞くと使い捨てカイロの最終的な鉄酸化物の化学式は特定できないとか。 触媒の様子や粒子によって異なることもありえそうだ。
英語の単語力を増やすべきだろう。 多くの数の単語を知るということではなく、よく使う単語をより深く覚える。 具体的には単語に対してよく使われる前に付く/後に付く前置詞や、 関係性の深い動詞と名詞の組み合わせとか。 書く時にも有効だし、聞く時の予測性を向上させるのにも有効だと思う。
電気は光速で伝わるという話。 ということは30万kmの導線を用意して回路を繋いだら、電流が流れるのに1秒かかるということだろうか? そういうことではなさそう、というのは物質の中の光速というのは真空中とは違ってくるものだから。 でも導体って光を透過しない物が殆どなんだけど、この場合でも誘電率と透磁率で定義できるのだろうか? よく分からん。 物理をちゃんと勉強したい。 とりあえず導線中の電気の伝導速度は真空中の光速より遅そうだと思った。
仕事上のミーティングが金曜日にあるため、今日中に京都入りして例会直行。 食堂前で24:00前までダベって宮崎邸で発掘した酒を飲みながら話。 批評とかについて、自分で見て見ぬ振りをしていた自分のドロドロした感情が私内で顕になったり。 あとオフラインでの情宣の重要性とか。 NF までにレジュメとか作っておくかー。 めんどいけど。
仕事の話の後、昔バイトしていた居酒屋で飲み会。 仕事よりこちらの方が今回の京都行の主眼だったとも言える。 美味しい料理と美味しい酒。 今の時期は松茸土瓶蒸しがいいなあ。 お礼参り(?)的な意味があるので私が出すべきだったしそのつもりだったのだが、 教授がお代を出してくれるというのを無理に覆すのも何なのでおごってもらった形に。 代わりに日本酒を買って帰って研究室で二次会。 気がついたら27:00になっていた。 眠くてたまらんかったので寮に戻って寝る。
お世話になった先生の一人が若干話が通じ過ぎるように感じることがあったが、これやっぱりこの日記の存在を知っているみたい。 まあそれくらいは当然覚悟の上なのだが、 オンラインでもオフラインでもヤバい話を喋りすぎる癖が私にはあるようなのでもうちょっと戒めなければならない。
包み隠さず喋ることは美徳でもあるが、 私のような不真面目な学生生活を送った者がそのことを話すのは教育者としては必ずしも良いこととは言えなさそう。 学生じゃなくなったんだから、その立場に応じた情報管理と危機意識を持たねばならないだろう。
二日酔いと戦う日記。 昨日居酒屋ではそれほど飲んでなかったが、二次会で飲みすぎた。 一日寮でゴロゴロ。
入荷漫画をダラダラ読む。 カップ麺と東龍の2食のみという偏った食生活。
『よつばと!』の凄さがようやく分かった。 誰もが持つ「はじめて」の感動を活写しているのだな。
素麺と平戸(ちゃんぽん)のみという偏った食生活。 帰る間際に「最近面白い話はないのか?」 若干面白めの話もあったのだが、喋る時間もなかったしな。 そして帰阪。
部屋が散らかってきたのでバックグラウンドでスキャン作業を走らせて、フォアグラウンドで部屋の片付け。 ということで風車小屋54号スキャン終了です。
一日中寝て体力回復につとめる。
仕事が立て込んできた。 やべえ。 ……幾つかの仕事は昨日の内に片付けておくべきだったのに。
講義もどき。 もうちょっとアグレッシブに学生に働きかけても良いかもしれない。
計算機のセットアップ。
母がいない、明日には母が帰ってくるので沢山作り置きする気もない、と外食するための状況が揃ったのでそうしてみたが、その店はイマイチだった。 ビィヤント、平戸、東龍レベルのコストパフォーマンスを実現する店はないものだろうか?
そうか、もう、こうたろうの納豆オムレツやサービスBは食えないんだな。
wikipedia 枕投げ。 惚れるなあ。 中盤は馬鹿なことを真面目に語る口調がネタなのだが、最後の「枕投げの文化的側面」で綺麗にキュッと締められている。 こういう文章は憧れるなあ。
和風Wizardry純情派の単行本を借りられたのでボチボチ読んでいるのだが、 これ感応力強いなあ。 とりあえず柔軟しながら本を読んでみたり。
今日はついに Wiz1 を開始してしまった。 てゆーか難しいよ。しんどいよ。 毒が怖いので portion of newtralize 持って地下に降りれば良いことは分かったが、300G(portion代)稼ぐ前に毒にかかっちゃう。 Thief がバタバタ倒れます。 highway man に侍がクリティカルヒット食らった。 お金が追っ着きません。 プレイヤー(俺)が上手くならんとあかんゲームなんやろなあ。
論文作業の最低限の仕事をして上司(中ボス)に投げた。 月曜日くらいに投稿しよう。 まあなんだ、英語弱者とは、あるべき事ではないが、悪ではない。 万一意図が礼を失してしまっても後で謝ることはできる、 それで多くの人は勘弁してくれる。 気にしすぎるのは良くない。 ガンガンいこうぜ。
Wiz1。 4階層くらいのところでちまちま稼ぎ中。 クリティカルヒットは怖いけど、 対策としてはそもそも相手の攻撃を当てさせなければ良いんだな。 そのためには前衛3人のA.C.をキチッと下げておくこと。
面白がって Lv4 くらいで fighter → samrai にクラスチェンジしてみたけど、 クラスチェンジの伴ってステータスが種族初期値に戻るというデメリットがあるということ、またレベルアップの機会を有効に使うためにはもうちょっと後でクラスチェンジした方が良かったんだろうなぁ。 Lv1 から上級職に出来ない場合には。
てゆーかなあ、6人ほど死人、というか灰になってる。 不良債権。 生き帰らせるのもお金がかかるし、経験値を捨てるのは勿体無いし。 死人よりハイジンの扱いが難しい、とは現代社会を見るようだ、とふと思った。
遊んでる場合じゃない? いや、英語の勉強ですよ、多分。 ……という冗談はともかく、、アメリカでは Wiz を小学生もできるとすれば、私の英語力はアメリカの小学生にも劣るということなんだろうなあ。 ふにゅう。
アサヒビールの西宮工場見学ツアーに参加。 昔特別講演か何かで「ビールを作るときに発生する二酸化炭素はビールには余るので、それを回収してサイダー等の清涼飲料水に使用している」と聞いたことがあるのでそのことについて聞いてみたら、その工場ではそういうことはしていないらしい。 しかし回収はしていて、製造工程で全て使用しているとのこと。 例えば配管の空気を押し出したり、ビール瓶や缶に詰めるときの液面付近の雰囲気制御とかに。
しかし、発生した二酸化炭素の回収ってどうやってのかな。 やっぱり一度液化させて分留してんのかな。 ここはちょっと聞きそびれた。
姉経由でカタンに感染。 ルールが単純、1回1時間以内、戦略性がありつつランダム性の要素も大きい、と良いゲームが満たすべき要件を全て満たしている。 面白いよ。 まだ一度も勝ててないけど。
夕暮れ宵の口、校舎の廊下を蝙蝠が飛んでいた。 壁に止まったのでじっと観察してみたが、蝙蝠って小さいのな。 親指くらいのサイズしかない。 成程、蝙蝠独特の変幻自在の飛行軌跡は体の質量が小さいからこそ可能な芸当なのだと考えられる。
脱酸素剤を開けてみると砂利が入れられていることがある。 これは多分、開封時に温度が高くなり過ぎないように吸熱材として熱容量を増やすために入れられているんだろう。
一日中みっちりと計算環境の整備。
卵納豆にしようと卵を割ると血が混じっていて、内蔵っぽい粒が混じっていた。 有精卵だったのか? こういうのは衛生的、栄養的には無問題で、結局は慣れの問題な筈なので 精神鍛錬だと思って食う。 が、やっぱりちょっとしんどかった。
食べ慣れないものを忌避する感覚、というのがある。 けど子供の頃から食っていれば、例えばイモ虫とかでも平気になる。 これは要は、年を取った時には既に摂取カロリーとして収支が取れていて敢えて新しい食材を試さなくても生活できいるということ、そしてそこで新しい食材を試して害のある食材を口に入れてしまうリスクを下げるということ、こういう機能があるのではなかろうか。 逆に子供の頃に何でも食べるということには、様々なものを食って成長してからの栄養源の幅を広げることが考えられる。 また、親という存在によって害のある物が程度選別されていることがある程度前提とすることができたり、病気になっても看病してくれる人がいるとか、親と同じ食文化になる方が生活コストが低くなるという機能もあるかもしれない。
Men seldom make passes at girls who wear glasses. 「男は眼鏡をかけた女にはあまり言い寄らない(ものだ).」
↑辞書でこんな諺を見つけた。 いや、なんということはないのですが。
逆援系ダイレクトメールが日に数通来る。 ヲチするのは、暇なときならそこそこ楽しい。 今日は官能小説な奴が入った。 でも文章が稚拙すぎた。 どうせイリーガル(?)なことやるんだったら、もっとよく出来た官能小説のコピペでもやれば良いと思うんだけどなあ。 どうせ足がつかないようにしてるんだろうし。
英語を読む/聞くときには想像力が重要だと思った。 日本語の文章でも疲れている時には全然頭に入らない、これは文章のパーツに対するイメージが頭の中に湧かせられていないからだと思う。 あと出来が悪い、意味が分からん文章というのもある。 これは読者の貧弱な想像力では補い切れないものといえるかも。 書き手は自分の中にイメージがある(筈な)ので、もし言葉が足りてなくても書き手は不足を自分で補うことができる。 文章が下手ということにはこういう要素があるかもしれん。 まあ、他にも「冗長」とか、「論理性に欠ける」とかもあるだろうけれど。
話が逸れた。 英文を読む能力を上げるには、視線が文中にある時点で文中に出てきたこれまでの単語のイメージを脳内に広げる、という感覚が必要なんだと思う。 もう一点、文章全体におけるその文章の役割を把握すること。 例えば、「例えば〜」で始まる文は具体例の提示・説明の捕捉であって、文章全体から見て本質的な機能は持っていないということ、「なぜなら」「従って」などの論理、あと読者への注意の喚起とか。 一言でいうとその部分の重要性。 この辺の感覚が私には足りてないなあ、と。
想像力が豊かな人ほど、想像してしまうことに比重がありすぎて、文頭の単語で文章全体を判断してしまい易いのではなかろうか、と思った。
Wikipedia でプロ野球選手。 凄ぇ面白え。 天才がゴロゴロしてる。 以下、Wikipedia 抜粋(文字コードの関係でリンクは張れない)。
岡田彰布
2005年、9月7日 中日との首位決戦(9回戦)、阪神に不利な判定が二度続き、18分のボイコット後なおも同点となっての9回裏一死満塁、一打サヨナラのピンチに監督就任後初めてマウンドへ向かう。ここで久保田智之投手にかけた言葉は「ムチャクチャせぇ!」。岡田の闘魂を注入された久保田は後続を連続三振でピシャリ、10回表の中村豊の本塁打が決勝点となり勝利する。この言葉の裏には、例え負けて優勝を逃したとしても、全ての責任を自分が取るとの思いを込めていた。敵軍名将の落合博満に「今日は監督で負けた」とまで言わせた。結果的にこの戦いを境に阪神は連勝を重ね、一方の中日は失速し、2005年シーズンの明暗を分けた一戦であった。
西本幸雄
1960年の大毎監督辞任、1966年の信任投票事件、1976年の羽田殴打事件(後述)などに見られるように、チームの強化と見込んだ選手の育成のためには敢えて鉄拳制裁や自身の首を賭けることも辞さず、その事も選手やファンの信望の厚さに繋がった。最後の試合となった1981年の近鉄−阪急最終戦で両チームの選手から胴上げされた事実は、西本が常に本気で選手とぶつかり合ってチームを高めていった何よりの証左であろう。
ジャッキー・ロビンソン
1947年4月15日、ロビンソンがデビューする。予想通り、白人たちからの反発は激しくロビンソンとリッキーの家には連日脅迫の手紙が届き、観客からの野次はすさまじく、チームメイトもロビンソンとプレイするのを嫌がって移籍した者もいた。
しかしロビンソンは逆境にめげず、常に紳士的に振る舞い、どのような酷いことをされても決して報復をしなかった。この状況の転機は8月末にやってくる。その日の試合で一塁のベースカバーに入ったロビンソンに相手チームの選手がスパイクを立ててスライディングし、ロビンソンに怪我をさせたことでチームが相手チームへの怒りで一丸となり、白人のチームメイトたちがロビンソンをかばった。同時にロビンソンの活躍とその態度に世論も徐々に味方するようになっていった。
大杉勝男
1983年、原因不明の不整脈が悪化し現役引退。前人未踏の両リーグ1000本安打を達成、同じく未踏の両リーグ200本塁打には、ヤクルト時代の本塁打数が199本と惜しくもあと1本及ばなかった(後に落合博満が達成)。 引退試合での挨拶及びその後の台詞は、印象深いものとなっている。その内容は、
「最後に、わがまま気ままなお願いではございますが、あと1本に迫っておりました両リーグ200本塁打、あと一本を皆様の夢の中で打たせて頂きますればこれに優る喜びはございません」
新庄剛志
2005年6月11日の甲子園での対阪神戦で、先制ホームランをはなったバットは元チームメイト今岡のものだった。ちなみに普通の選手はホームランを打ったバットを使いつづけるものだが新庄は「このバットの運は尽きた」と二度と使わない。
森祗晶
ヤクルト、西武のヘッドコーチ時代は広岡監督の下、厳しい管理を行っており、選手たちに旧ソビエト連邦の秘密警察にちなみ「KGB」と陰口をたたかれるほど嫌われ者であった。しかし一方西武監督時代は厳しい一方で選手を前面に押し出し、のびのびと野球をやらせる一面もあったようで、選手たちには慕われていた。有名なのが、これほどの名監督でありながら優勝時のチャンピオンフラッグを持って球場一周のとき、石毛、辻などの主力選手にフラッグを持たせて自分はいつも列の一番後ろでとぼとぼ歩いていたことである(大抵は監督はフラッグを持って先頭を歩く)。これを見ても「選手が主役、監督は脇役」のポリシーをずっと持っていたことがわかる。
ここ3週ほどラム酒を試してみたが、日本酒ほどには好きではないということが分かった。 人生で飲める限られたアルコール量は、日本酒に重点的に費すべきな気がする。
善意と悪意にの間には非対称性があるような気がした。 例えば、
でもうまくまとまらない。 というか気のせいだったのかも。
裸の王様。 馬鹿には見えない服を献上された時、王様を含む人々はそれを自らへのテストのように捉えた。 しかし服というのは自分が着る物でありながら、他人に見せる物でもある。 多数によって見られる立場にいる王様は、それを見る人間の中には一定数の馬鹿がいることを考えなければならない。 馬鹿にとっては「王様ははだか」に見えるわけで、その状態は王様としては好ましくないだろう。 王様は、「自分にはとても素晴らしい服に見えるが(いや本当は見えないが)、たとえ少数であれ民の一部に見えない可能性があるのならばそれは服としての要件を満たさない」と言って断るべきだったろう。
ひょっとしたら王様は、国民に自ら馬鹿であることを悟らせ、戒めようとしたのかも。 「王様の服が見えないということは、私は馬鹿なんだ、だからもっとより良く生きよう」 と。 そうだとしたら子供はなんと心ないことを言ったのだろう。 しかし、子供はこういうことをするものだから、その危険性を正しく考慮できなかった王様はやはり考えが足りなかったことになる。
ということを『カレンのファスナー』に収録されていた、裸の王様のオマージュ(『お姫さまははだか』)を読んで思った。
ちょっとツテがあってバレエ観劇。 体の操作についてのプロフェッショナルはやはり凄いと思った。 まず体の柔軟性と強靭さ、特に足首の。 そして臍の辺りに硬めのバネが入っているかのように体の芯がブレない。 人間の体の重心がそこにあるということが見ていて分かる。 そしてジャンプ中は重心から、慣性と重力を合わせた方向に真っ直ぐ足が伸びている。 バランス感覚と言えるのだろうか、体が、それぞれの部位がどのような状態にあるのかという感覚。 それと足先が地面からどれくらいの高さにあるのかという感覚を持っていそう。
バレエ漫画なんかで「ジャンプ」という言葉を見ていたけれど、今日見て他のスポーツ選手がするジャンプとは全く質の異なるものだと思った。 我々のジャンプは力強く踏み切り、体全体で着地の衝撃を吸収する。 バレエのジャンプは美しく飛び、美しく着地することが第一であり、 そのため跳ぶことそのものよりも着地に主眼が置かれているのだろう。 着地の衝撃を体全体で吸収することは許されない。 すなわち、高く跳べば跳ぶ分だけその衝撃が足首と膝にモロにかかってくる。 だから筋力として高く跳ぶことができても、全体としてそれが許される能力を持つ人間は限られてくるのだろう。 見ていてもジャンプしている時に頭の位置はそれほど上がっていない。 さらに演出上地面から少し高い位置(我々が日常的に飛び降りるような高さ、例えば30cm)に上ることもあるが、そこからジャンプして降りることは決してない。 これは地面からの距離の感覚が異なるということもあるが、そもそもそのガラスの足首はその高さからのジャンプに耐えられないからだと思う。 だって、爪先で着地しなければいけないんだもの。 あれだけ酷使されうる部位ということは、バレリーナの足首は、野球選手(投手)の肩のように消耗品なのかもしれない、とちょっと思った。
体の操作としては肩〜腕〜手を曲線にして、関節で角度を作らないということ。 動きの開始と終了がなめらかになるように、手先の細かい動作にもその前に必ず反動を見せるみたい。
バレリーナというものの身体能力の凄さは実感できたけど、群舞での動作の統一の精度はあまり良くなかったように思う。
一人、ビカッと光っている人がいた。 動きの精度、速度、がピカ一で、一緒に見たオッチャンは、「あれは世界レベルやな」と言っていた。 私が分かる範囲では、ジャンプが特徴的で、空中で一度伸びるということ。 科学的には、ジャンプする際に上体のバネも使って、空中でそれを縮ませることで伸びを作っているのではなかろうか? (多分意識的にやっていることではないが)
入学時の偏差値が高いということは大学のブランドとなるかもしれないけれど、社会への貢献度としてはどうだろうか? 社会に役立つという意味では、入学時から卒業時まで引き上げられた能力の差分になると思う。 偏差値と能力は必ずしも比例しないが、とりあえず比例するものとして議論する。 たとえば入学時に 10 の能力を持った人間が100の能力を持って卒業したとする。 すると大学は社会に対して 90 の貢献をしたことになる。 入学時に 80 の能力を持った人間が 120 の能力を持って卒業したとする。 すると大学は社会に対して 40 の貢献をしたことになる。 この場合、前者の方が社会全体への貢献度は高いことになる。 卒業生の出来が同じならば、入学時の能力が低い方が社会への貢献度の大きさを誇れる筈だ。
企業が欲しがるのは最終的な能力が高い人間なので、どちらを採るかといえば後者の120の能力を持つ者を採るべきだ。 一番の問題は卒業時点の人間の能力を計る統一的なモノサシがないことだろう。 企業によって実施されている入社試験はそのための方策といえる。 しかし大学教育は基本的に専門性を持つので統一的に能力を計るのは無理がある。 まあ「この企業が求めているのはこういう能力で、これについて計る」という意味では問題ないけれど。 ついでに言うと「入学時に10の能力と80の能力とでは、80 の能力を持っていた方が卒業時により優秀である可能性が高い」という見方は正しい。
大学教育に携わるものとしては、卒業生が(偏差値的に)企業から最優先で欲しがられなかったとしても、胸を張ってキチンと教育を行い、そのこと自体に誇りを持つべきだろう。 もちろん入学時の偏差値以外の理由で(卒業生が優秀だから)、欲しがられるようになるならば、それはこの上ない誇りとなるだろう。
なお、ウチの大学は決して偏差値的に低いわけではない。
京大で計算プログラムのワークショップ。 私にとっては、どちらかというと英語を聞く能力の力試しのような意味合いが強い。
めちゃくちゃ凹んだ。 英語力もそうだし、研究のバックボーンについてもそう。 私の持つ能力では唯一UNIX を扱うことだけが一人前で、この能力でなんとかカバーしてやってきたけれど、これは研究の本質ではなく金さえかければ引き受けてくれる会社はいくらでもある。 結局、正味の研究にかかる能力は半人前以下しかないということが実感されて。 いやもっと前から気付いているべきだった、というか気付いていながらも見て見ぬ振りをしていたというか。 俺はどうして博士号を取って、アカデミックな職に就いているんだろう。 どう考えても能力が足りてない。
というよりも、自分で研究対象を見つけたことがない。 面白そうなことを見つけるということができない。 学術雑誌を見てないし。
周りの状況を見渡すこと、自分に出来そうな事を見つけること、それを解析する道具の理屈を理解すること、道具に関する情報収集、同じ分野で世界中にどんな人がいてどんな研究をしているのかという知識。 これらの内の多くが欠けている。 足りないのではなく、欠けている。
酒飲んで眠って、目が覚めて、考えて、冴えて眠れなくなった。 夜の町へ散歩に出た。 京都の住宅街、夜の吉田山は気持ちを落ち着かせるのに良かった。
「………オレはもう…闘わん………」(ベジータ)
一つの結論。
漫画を描くことから足を洗おう。
結局、他の遊びをさし置いて漫画を描くことを優先するほど好きではなかったのだ。
自分が中途半端なことはもう十分分かった。
そして立つべき場所に研究者としてちゃんと立てなければ日の下を歩むことができない。
……さよなら、昨日の私。
尤もベジータ程度の決心なので、軌道にのったら前言を撤回して描き始めるかもしれないけれど。 それと最後にどうしても形にしたい幾つかのモノだけは完成させたいので、これはやると思う。
100%の集中がかかれば単語の8割が分かって、何を言うてるかは漠然と分かった。 しかしその集中は1分と保たないけれど。
英語力はこの半年で 1→3 くらいに上がって、しかし必要最低限のレベルは 10〜20くらい、十分なレベルは 100 くらいな気がする。
研究以外の雑用とかへ無駄に力がかかっていたのかもしれない。 もっと適当にやろう。 そして余った労力で勉強しよう。
もっと自分勝手にやりたい、と思った。 ちょっとニュアンスがずれる気がするけれど。
先日バレエを見ていて思ったのが、彼らが移動する時には上体が上下しないということ。 自分の歩き方を見てみると、前足の接地点を中心に上体は円弧を描くように前方に移動してそこでまた足を出して、の繰り返しであることに気付く。 そのため上体はどうしても上下する。 バレエの会場で見掛けた観客の何人かは(バレエを習っているのだろう)上体の上下動が少ない歩き方をしていたように思う。 多分、上体が最高点に達する時には膝を軽く曲げているのだろう。 やってみると足腰に負担がかかるけどスムーズに歩ける気がする。 面白そうだから自分が歩くときに注意してみよう。
漫画を描かない云々を言うてみたけれど、冷静になって考えてみるとどう考えても、今迄通りとしか言い様がない。
あれだけヘコんだんだからその直後くらいはバリバリやらなきゃいけないのに。
そこそこ勉強がはかどった。 研究で使う計算の環境を整えることは粗方片が付いたので、これからは勉強に集中できるかも。
ゲームは1日1時間、というか、1日1回潜るくらいにしよう。 でも今日は Murphy's ghost 狩りでそこそこ掛かった。 今日は柔軟しつつ本を読みながら Murphy's ghost 狩りをできるようになった。
と言うた端から破っている俺ガイル。
殆どのスパムは他の多くと似通っていて「いまさらこんなのに騙されねー」というのばっかりだが、たまに光っているもの、目新しさの光を感じさせるものがある。 普段スパムを見なれていない人が見てしまったら1%くらいは騙されるんちゃうか、と思ったり。 でも普段スパムを見慣れている人の閾値を越えるだけの輝きを見せるようなのが発生する確率は実際上ゼロであると見做せる程度だろう。 こうやって普段スパムを見慣れている人はその少し秀でたスパムの経験によって、よりスパムに引っかかり難い人間に成長する。 この辺免疫システムと非常によく似ていると思う。 他の雑菌によるトレーニングによってそれからの被害を最小限に食い止めるという。
如何にスパムフィルタなどを完備しても最終的にそれを判断するのは人間なので、人間自体がスパムに慣れることが必要だと思う。 完全なスパムフィルタというのものが存在したのならば、それはそれなしでは生きられない人間を生んでしまうのではなかろうか。 完全のものより良いスパムフィルタは完全に遮断するのではなく、ある程度、特に害のない程度に目新しいものを透過するものではないか、と漠然と考える。 このことから完全な無菌状態は人間の生育にとって必ずしも良い環境ではないということも導き出せる。 躍起になって「(子供に)有害な」メディアを規制したりフィルタをかけたりするのは、正義ではあるけれど、必ずしも良いことではないと私は思う。
風車は描かないことにしたので NF 合わせのカレンダー原稿の作業を進める。 9割方終わった。
Wizardry1、WERDNA とご対面。 だけど TILTOWAIT にビビッて逃げ帰る。
ブログもホームページも全く知らない人に訊かれて、それらの違いについて口頭である程度説明した。 概ね分かってくれたと思うのだけれど、細かいところについては齟齬があるように感じた。 相手から正にその齟齬を突かれて、それを突き詰める際に「やらんと分からん」と口述するのは、……少なくとも大きく間違っていることではないと思う。 次に同じ状況になったら同じ言葉を吐くだろう、俺は。 だが、もしそう言われたら拒絶されているように感じる人もいるだろう。 それは理解できる。 そして、あの人にそう言ってしまったらああいう結果になることは想像できた。 てゆーか、説明するのに疲れてたんだよ。 だから失敗だったといえるのだが。 しかしそれに対して「その言い方は何だ。あんた(ら)は私に分からんように説明している」というのには、文字通り言葉を失った。 理解して欲しくて説明しているのに、成果はともかくその努力を払った人間にそういうこと言うのか? 5分10分の説明で、自分が体験したことのないことでも何でもあらゆることが理解できると思っているのか? 自分に理解できないことは相手の説明が悪いから、しかも最初から理解できないように意図して話しているからなのか? そんな傲慢なことをよく言えるものだ。 もう疲れていたし、そう言って議論を締めることは私にとっては決して間違いではなく次に同じ状況になったら同じ発言をする。 そもそも「やらんと分からん」ということは事実だと私が信じていることだから。 言い方が悪いと言うのなら、せめてどういう言い方をしたら良いのか対案を示して欲しい。
しかし、「酒飲んでて覚えてないから」と発言の責任を取ろうとしないのは最低だと私は思う。 酒の上での暴力は暴力ではないのだろうか、相手に与えた被害は顧みないで良いのだろうか? 「酒飲んでて覚えてないが、それは言うべきではなかった」とか、 「酔うてようがなかろうが私はそれを言うべきだった、なぜなら……」などという言葉を返すべきだと私は思う。 自分の発言に責任を持てない人とは正直話をしたくない。 てゆーか議論ができない。
「アンタが何でそんなに怒っているのかが分からん」というのも自分以外の価値観があるということ認めてないようで気分が悪い。 差異があるのならそれを拒否するのではなく原因を突き詰めるのが筋だと思う。 拒否するにしても相手がそのままにあることを認めるのなら良いが、その場合相手を否定してはならないと思う。
しかしこの議論はメタに展開できて、「自分以外の価値観を認めない価値観」を私は容認しなければならないのだ。 どうすれば良いのだろう。
私は秘かに思っている。 毎年恒例の漫研カレンダーの私の原稿は結構傑作揃いだと。 今回のもワタクシ的にはかなりの傑作っぽい。 ということでカレンダー原稿完成しました。 暫くしたら郵送します。
雑用ウゼー。 研究はほっときゃ進むが、勉強させろ。
某商店に発注した部品の到着があまりに遅いので帰りに日本橋に寄ってその部品を購入。 ついでに本屋で漫画を購入。