きづき(日記)

last-modified: 2011/12/14 02:51:36. JST

2005年09月01日(木)

曖昧な表現で発言する人がいる。 勿論言語は不完全なものだから、伝えたいことを完全に表現することは一般に不可能だ。 でも意味が十分に一意になるように努力する義務が、発言する側にはあると思う。

私が発言した言葉が曖昧さを有していた場合は まず「ごめん、そういう意味ではなくて……」と 謝罪から入るようにしているつもりだ。 ……ではあるのだが、ひょっとすると外から見ると私もあれと同じように 「そういう意味ちゃうがな」と決めつけているように見えるのかもしれない。

どうしてたったあれだけの言葉で自身の脳内にある複雑な思考が 相手の脳内で十分に再現されると信じられるのか。 どうして「相手が分からない」ということが分からないのか。 相手が自分の発言内容を理解してくれないという事の責任の半分以上は 発言者にあるだろうに。 (しかし、『「相手(私)が自分の発言内容を理解してくれない」という事について、 その人に然るべく理解させられないという責任の半分は私にある』とも言えるのだが。)

……ちょっと考えてみた。 こういう「べき論」をぶち上げる際、 「自分はやっているつもりだ」としばしば予防線を張ってしまうのだが、 これはあまり良くないかもしれない。 というのは、予防線を張らない方が他者の指摘を貰い易いかもしれないから。 言と行の不一致している事が、私にとって美学に反する最も無様な事と 意識されている。 だからこそ その不一致を、言を行に寄せて緩和するという目的で このような予防線が張られる。 だが本当は、そこに不一致が存在するならば行を言に寄せるべきで 「そういうお前が、まずそれをできてないやんけ」という指摘は、 自分が認識できていない「自分があるべき姿と今ある姿の差異」を 浮き彫りにするものだ。 そしてそのその差が明確であるほど他者は指摘を行い易い。 だから言はぼかすのではなく、自分の信念を明確に述べた方が良いと言える。

とはいえ言行不一致を怖れぬ生き方はあまりに強すぎる。 俺にはできなさそうな予感が満点。


2005年09月02日(金)

会食。 だがつまらない。 議論できなさそうな感触。 まあ探り合いの段階みたいなもんだからそういうものかもしれないが。

「政治に詳しくない俺が適当に選んだ投票で、 本当に詳しい人が考え抜いた選択を薄めて良いのだろうか」 と常々思っていた。 今回の選挙についてはそれなりに情報を集めていて、自分の信念を持って投票する。 だからこそ思うのだ。 「以前の俺は、やはり投票すべきではなかった」と。 「それで今の俺の投票を薄めないで欲しい」と。 よく「投票率が低い」という嘆きを聞くが、 投票すりゃいいってもんじゃないだろう。

学校のテストだったら空欄でも誤答でも同様に 0 点になるだけだが、 選挙の場合は白票は ±0 だが、投票の間違いは -1 点になると思う。 白票・棄権ならば「すべき人に投票しなかった」だけだが、 投票の間違いはさらに「すべからざる人に投票した」という失点が重なる。 少なくとも投票することだけが国民の義務であると考えるのは錯覚に過ぎない。 本当は「どこに投票すべきかを考えること」が国民の義務であって、 その結果「どこにも投票すべきでない」と考えるのならば投票しなくても国民の義務は果たしていると私は思う。

このように考えていると所謂普通選挙というのは必ずしも理想のシステムではないように 思われる。 以前の私のような馬鹿の一票が、どうして考え抜いた賢者の一票と同じ重さを持てようか。

勿論、戦前の制限選挙のように納税額で選挙権の有無が決められるというのは かなりマズいシステムだ。 一噌、選挙権を免許制にしてはどうだろうかと思う。 数年に一度、ペーパーテストを受けた結果によって選挙権が更新される。 これによって無思慮の気紛れによって「然るべき選択」が薄められる可能性が減少する筈だ。

でもなあ、こういうことやると特定のオピニオンリーダーに付き従う 組織票の威力がますます増すんだよなあ。 まあ組織の下僕もペーパーテストを通るだけの政治に関する意思決定力を持っている といえるので OK か。 それに広く見れば所謂組織票でない人でも特定の思想に染められているからこそ 特定の選択を投票できるわけだし。

……ということは前の参院選の時にも書いたなあ。 まあ今回は愚者は愚者なりに考えて、信念を持ったということで。


2005年09月03日(土)

母方の祖父の納骨。 向こうの親戚と飯を食ったり。

増税は諸悪の根源であるかのように扱う人がいるが、私は必ずしも悪ではないと思う。 例えばトータルコストを下げるためにイニシアルコストをかけるということは 半ば常識的な選択であって、そのイニシアルコストのための財源を増税によって 捻り出すことは、私はやるべきである場面が多いと思う。

ちょっと某企画のためにシナリオを考えている。 それには以前水車小屋に載せた小説が丁度良さげだったので、 これを下敷きに現在再構成中。 んで、ついでだからと3つの劇中劇を新規に差し替えようとしている。 ……ふと気付いた。 これって普通に新規にシナリオ作るのの3倍以上の労力がかかるよな。

とりあえず一つずつ。 外枠だけ決めたものに、ちょっとずつ骨となる素材を詰め込んで、 骨と骨との連携が上手く行くように調整しつつ更に骨を詰め込む段階。 この段階になると面白くなってくる。 てゆーかエンジンかかってきた。


2005年09月04日(日)

駅の名称がかわったり、ご近所案内のアナウンスの内容が変わることは よくあると思うのだけれど、 以前声を吹き込んだ人が引退していたらどうするのだろう? その駅だけ別の人が吹き込んだりするのだろうか。

英語の勉強の一環として、この日記を付け終わった後に英文に直してみることにした。 いつまで続くか分からんが。

英語を書く/言う能力を身に付けるには、以下を数多く繰り返すことが効果的だと思う。

  1. 「こういう事を言いたい」という欲求を持つこと
  2. その解を自分で考えること
  3. そしてそれに関する解を与えられること
  4. 別の表現を与えられること

独習する場合にはこの3番目の段階がかなり困難になる。 また、市販の英会話の教材ではケースが自動的に与えられるので、 1、2番目の段階が飛ばされる。 日本語での設問について「これが自分の言いたいことだ」と思い込んで それについて考えてから、というやり方も考えられるが、 そうやって自分で出した答えに対するコメントは得られない。 やはり日本語を使えるネイティブと対話することはかなり効果的な手段だろう。 同じだけのことを身に付けるのに独習する場合に余計にかかるコストを 金銭に換算すると、英会話学校に行った方が安上がりになる気がする。 ちょっとツテがあるので打診してみよう。


2005年09月05日(月)

手持ちの風車小屋をスキャンしてみる。 スキャン中の中途半端に手持ち無沙汰な時間は部屋の片付けするのに最適。 なのだが、200ページ(3時間)ほどやったところで部屋が完全に片付いてしまった。 また散らかるまでこの作業保留。

自分の言葉が真実と異なるかもしれないという事が、 どうしてそんなに怖くないのだろうか? テレビで言ってたといったって、その論理を覚えてなかったら それを聞いた人間はその正しさを判断できないじゃないか。 私にとって論理の欠けた話は「話半分」の価値しかない。


2005年09月06日(火)

修理に出してた携帯音楽端末を引き取りに、 故障した電動ハブラシを修理に出しに、日本橋。 ついでにまんだらけで古本漫画10冊ほど購入。

どーでも良いんだけど、こないだメイド喫茶の前で入店待ちしてた時、 メイドさんがあわててて玄関くぐる時に植木鉢に足をひっかけた。 メイドさん、わたわたしてた。 みんなニコニコしてた、そんな感じ。


2005年09月07日(水)

日本語でも、ややオカシナ表現はそれなりの頻度で遭遇する。 やはり「間違いのない文章」というものを書くのはかなり大変な作業なのだろう。 それは多分、英語でも同じことだと思う。 勿論求める高みはそこなのだが、もうちょっと気楽に構えても良い気がした。

左足の小指って、あんなに全力でぶつけてよく折れないな、と感心する。 ……いてぇ。


2005年09月08日(木)

コンパイル通ったー! 研究に使う基本的な環境は揃ったので、あとは結晶描画とか スクリプトとか細々と環境を整えて行けば良い。 それは追々でも十分。 残る山は、研究対象を探すこと、かな……。

コンパイルに手間取ったけど、科学技術計算に用いられるライブラリ(ATLAS)の 存在をキチンと把握したことの価値は高いような気がする。


2005年09月09日(金)

新しく仕事を開始するには大変中途半端な時間、だけど帰るにはちょっと早いかな、 そんな時間。 さっさと帰りゃいいのにふんぎり付かず。 本当にさっさと帰りゃいいのにな。 家でも仕事できるんだし。

雷がゴロゴロ鳴ったのをキッカケに立ち上がり、 「晴れてるウチ」にと帰ったが降られて濡れる。 当然だ。 バカだなあ。


2005年09月10日(土)

論文作業の合間を縫って風車小屋 52号のスキャン作業の残り。 某ツリー形式掲示板にリンクを置いといたので興味のある方はそちらからどうぞ。

英語をそのままに理解する能力はやはり上がってる。 まあ元がゼロに近いから当然なのだが。

家族で外食、焼き肉。 あまり高いものくっても値段程には嬉しくない。 こういうのを入力に対して出力が線形でない、というのだろうか。 私を主体に考えると出力はお金、入力は満足度だが、 この場合システムである焼肉屋に対して入力はお金、出力は満足度 と見る方が正当なのだろう。


2005年09月11日(日)

お茶のカテキンに殺菌作用があるとか保健室の掲示ニュースで見たことがあって、 それを半ば盲信していた。 でもこういう実験結果って、カテキンのない環境で繁殖する菌が カテキンのある環境では繁殖できなかったという結果に過ぎないのではなかろうか。 菌の繁殖というのは環境に依存する部分が大きいので 環境を変えたら特定の菌の繁殖できる/できないは容易に変わるだろう。 ぶっちゃけ言えば、カテキンのある環境でだけ繁殖する菌が有害でないという 保証は全くない。

今執筆中の論文を丸暗記しよう。 実はそういうことはもう少し先、論文が受理されてからしようと思っていた。 というのは現時点の原稿には文法ミスなどが含まれているかもしれないからだ。 しかし2点のメリットが考えられる。 現在のレベルの文章でも私レベルの人間には十分に学習効果が望めるということ、 またこの原稿は最も早く出力しなければならない仕事であり、 これを隅々まで頭に叩き込むことはかなり有効だということ。 デメリットについても、例えミスが含まれていても大部分が正しい英語だと 考えられるので、その補正にかかる労力はあまり大きくないと考えられる。 明日から暫く、英語の教材は自分の論文だ。

最高裁裁判官の国民審査は、 有権者が判断する材料が持たなかったとしても白票という選択は選べないんだよな、と気付く。 だから信任か、不信任か、棄権の三択ということになる。 今回ちゃんと勉強して来なかったので棄権しようとしたら 選管の人に「いや、投票箱に入れておいてもらえば良いですから」と言われて ちょっとゲンナリした。 いや、それ棄権やなくて信任になってまうし。 でも2回断わったその後の「じゃあこちらに返して下さい」はエライな、と思った。 投票用紙の持ち帰りを許すと不正に利用される可能性があるので必ず回収すべきだ。

今日はするべきことも、したいことも何も進まなかった。 選挙の熱に当てられたのか。 自分のダメさ加減が悔しい。

ダメさ加減というと、 こんなん出ました。 やってみたのは数日前の、心身ともに健康な状態で。 このテストの、実際にちゃんと職に就いている人がやった、 特に「今の職業が天職だ」と思っている人がやった結果とその統計を知りたい。 ちなみに私は、「今の職業が天職だ」と思っている、そういう1サンプルだと思う。 より適する職はあるかもしんないけどさ、 でも今の形はそこそこ社会の役に立てる形だと思うのさ。 (若干酔い回り)


2005年09月12日(月)

「A 党の a 候補は比例区上位なので小選挙区で投票しなくても通るので、小選挙区 B 党の b 候補に投票を」 という選挙活動をしてるところがあったらしい。 それは筋が違うだろう。 小選挙区は人に、比例区は政党に投票するものであってそれぞれ意味が違う。 比例区を人単位の視点で見るのはおかしい。

小選挙区で通ったならばそれは個人として代議士と認められたということ、 比例区で通ったならばそれは政党のコマとして認められたということ。 これらの意味の違いを代議士は考えないのだろうか。 仮に私が政治家だとしたら、小選挙区で通った場合にはある程度自分の意思で動くことが有権者に認められている気がするが、比例区で通った場合には党のコマ数としての自分が第一であり自身の意思はある程度制限されるべきだと考えるだろう。

このような筋の通ってないやり方を有権者に勧めるならば、もし私が B 党を支持していたとしても逆に支持する気持ちを失う。

民主党は自民の反対ありきに見える。 反対する対象がなくなったら(自民より優勢になったら)やることなくなるんちゃうか、 というイメージがある。 自民のやり方の中には少なくとも幾つかでも良いところはあると思うのだが、 とりあえず全部反対というのは(中国の)王朝の交代時に前王朝のやり方を全て批判するところから始めるみたいな感じで気持ち悪い。

まあ選挙って「ヨリマシ選択」だよね、と。 「共産党単独は最善なのか?ヨリマシの極限なのか?」@便所の落書き。 ……まあ、絶対的な意味での最善というものは存在せんわな。 しかし通常は「最善 = 最もマシなもの」という意味なので、(彼の立場に立てば)やはり最善と言えると思う。

「小泉劇場」とか批判されるけど、逆に良いことだと思うんやけどなあ。 政治に無関心だった少なくない数の人間が小泉首相が提示した分かりやすい論点、とっかかりで関心を持ったんだから。 私もその一人だし、それは投票率にも反映されている。 民衆の政治に対する無関心を嘆いていた者は、少なくともこの点については評価しなければならないと思う。

私は何事でも「面白くなければならない」と考えている。 この面白いは最も広い意味であり、短期的な快楽に留まらず長期的なメリットや「役に立つかも」といった可能性や気持ちも含む。 例えば「片付くとキモチイイ」とか、「社会を良くすることはいいことだ」とか、「他人の役に立ちそう」とか、色々。 今回の小泉首相の戦略は、単純な論点で考えることができる、社会を良くするモデルを効果的に提示したということで、政治に無知な無関心層でも関心を持てる「面白さ」を提供したといえる。 「有権者相手の客商売である政治家ができなければならないこと」をできなかった野党が、それをできた小泉首相をその点で批判するのはただのひがみ根性に見える。 勿論、分かり易く提示するだけではダメ、というのは共産党を見てると分かることだが。


2005年09月13日(火)

「A4 とか B5 とかの用紙サイズって半端な数字だな、これはきっとアメリカさんのインチ規格に違いない」と思ったが、25.4cm = 1inch で換算しても割切れない。 ググル先生に聞いてみると、立派にメートル由来の規格だったらしい。 A0判は面積1平米、B0判は面積1.5平米になるように、とのこと。 (紙の話)

「日本語は論理的ではない、英語は論理的だ」というような言説を目にすることがある。 しかし論理的な会話というのは発言者の能力に依存するもので、フォーマットの問題ではない。 ふと、「日本語は頭の良い人しか論理的に話せないが、英語は頭の悪い人でもそれなりに論理的に構成し易いのではないか」という気がした。 句読法がキチンと定まっている分だけ英語の方が論理的に構成し易いと考えられる。 というか、基本的に英語の方がルールが多いと思う。 ……「論理的に構成し易い」=「論理度が高い」=「論理的」ということなんかなあ。 逆にいうと、英語の方がルールが多いので発言したい内容に対して許容される表現の幅が狭く、そのため聞き手は論旨を理解するのにかかる労力が少なくなる、誤解率が比較的少ないことが期待される。 こんなところちゃうかなあ。

vim で物理行移動したいなあ、と思って調べると、vim で物理行移動するには(460) - TokuLog!というのが見つかった。

nnoremap j gj
nnoremap k gk

上記のようにすれば良い、とのことだがウチの環境では何故かカーソルが右に移動してしまう。 ということで対症的に以下のようにすると、とりあえず上手く動いてるみたい。

nnoremap j gjh
nnoremap k gkh

2005年09月14日(水)

「議論は論理に則って結論に至ること、討論やディベートとは違う」と思っていたけれど、討論やディベートにしても論理に則って結論に至るという点では同じ、すなわち議論に包含されたものかもしれない。 ただ、結論が論理の末に到達しうる物であるか、議論する前に決まっているかの違いがあるだけで。 あるいはディベートでは、「自身が正しいという仮定の上で」結論に至る道を探っていると見ることができるかも。

あれ? 辞書を引くと「自他の意見を戦わせること」とあった。 俺の勘違いなのか? 少なくとも科学分野では俺の言っている意味だと思うのだが……。


2005年09月15日(木)

マクドは天一と同じ種類の食い物だ。 昼にハンバーガーx1、チーズバーガーx2 食ったら暫く気分が悪かった。 許容量は2個までか。

土曜日に京都に行きます。 用事が終わるのが多分 20:00、それから明けるまで漫研、日曜日中を寮でダラダラして適当に帰る予定。 迎撃ヨロ。

先日の診断結果だが、改めて見てみると切れ味が鈍い気がする。 ということでググル先生に聞いて復元してみた (ネットって怖いですね)。 差分は以下な感じ。 打ち消し線が引いてあるのが旧バージョン。

元気な社会人も元気なくなるって、コレ。 しかし、人をバカにした言葉がなかなか清々しくて良いかもしんない、これ。


2005年09月16日(金)

学生にちょっとだけ教育。 最近無為な雑用系の仕事が増え気味だったのでこういうちゃんとした仕事は久しぶり。 今一番精力を傾けている論文も、去年の仕事の後片付けみたいなもんだし。


2005年09月17日(土)

上洛。 だがその前に論文チェックを一段落させて共著者に投げられる状態までなんとか出発前に間に合わせた。 で、電車中で最終確認して京都から投げようと考えていたのだが、そのフェーズで致命的なミスが発覚。 ミス、というのかなぁ、間違いなく修正作業した筈の箇所が修正前の状態になってた。 Word わけわからん。 この不可解な現象の所為でここ1週間ほどコツコツ修正していた作業がパァに。 また全部見直さなきゃ。

……まあ自分の責任もゼロではないかもしれない。 というのは Word の挙動に違和感を感じたが、「いつものこと」とそのまま使っていたということがあったから。

学部生時代の先生の送別会。 それから三条で漫研の飲み会(院試お疲れ様会だったらしい)と合流→徹夜カラオケ。 『おっぱいがいっぱい』を入れてみたが、歌っている最中にジョルジュ長岡が頭の中で腕振り始めたり、脳内で「オパーイがイパーイ」に自動変換されたりして笑ってしまって歌い切れなかった。次はリベンジだ。


2005年09月18日(日)

三条→寮へと歩いて、ちょっと休憩。 それから宮崎邸に移動して眠らせてもらう。 インバータエアコンは人類の至宝だ。

マダンでパスタ&デザート→宮崎邸で戦国BASARA を見せてもらう。 やっぱ馬鹿っていうのは重要な資質だよなあ。 端から見てて大変面白うございました。


2005年09月19日(月)

3:00頃、寮に移動。

寮の未明。 俺は漫画を読んでいる。 彼は静かに本を読んでいる。 中庭では虫が鳴いている。 静かな、懐かしい空気が流れている。

へくちん、iss と瑞穂。 その後しばらく寮で漫画を読みつつダラダラする。 『ハヤテのごとく!』はそこそこ良かった。 まあ漫画としては名作ではないと思うが、週刊誌で読む分くらいには丁度良いのではないかと。


2005年09月20日(火)

今日の工作。 コマンドラインから Wikipedia ページに直接アクセスする zsh 関数(bash でも使用可能)。

function wiki() {
	local str
	if [ $# != 0 ]; then # 引数が存在すれば
	  str=`echo $* | nkf -w` # utf-8 に変換
	fi
	w3m http://ja.wikipedia.org/wiki/$str
}
alias wk=wiki

Faculty Development 関連の集会。 1/3 が面白く、1/3 が普通で、1/3 が面白くなかった。 この程度の当たり率なら十分有用だったと言えるだろう。


2005年09月21日(水)

論文作業が片付かん。 しかも随分頭が混乱してきた。 他の仕事も溜まってきてる。 むう。

「ガン、風邪、水虫のいずれかの特効薬を開発できたならばそれはノーベル賞級の栄誉が与えられるだろう」という話を聞いたことがある。 このことから私は水虫が不治の病だと思い込んでいた。 しかし、ガンも発見が早く切除するなど然るべき処置をすれば完治するし、風邪にしても大抵のものは栄養を取って安静にしていれば治る。 ただ全てのガンや、全ての風邪に大きな効果を持つ処方が存在しないだけで、基本的に治る病気なのだ。 水虫も恐らくは同様に治りうる病なのだろう。


2005年09月22日(木)

発表しようとしていた学会のウェブサイトがひっそりと移転していて、講演申込をしそこねた。 あうあう。 ひどいよ、最終更新が 2004 年のままだから告知がまだないだけだと思ってた。 とりあえずダメ元でメール送ってみるけれど。 せっかく論文作業を一区切りつけて共著者フェーズに移行したのに全然気が晴れない。

ミュージックバトン。 最後に買った CD:『「俺の屍を越えてゆけ」オリジナルサウンドトラック』。 ゲームミュージック、アニソン、広瀬香美。 それ以外は書いても面白くないので省略。

コミックバトン from 長月氏、樹山氏。

こんだけ書くと流石に疲れた。 バトンは、去年の研究室のVASPコンパイルマスターの人と、Emacs マスターの人に。

……ウソです。 バトンは止めます、てゆーか(概念上)ここに置いておきます。 チェーンメールとかウィルスとかと同種の物と思ってるので、貰うのは構わないが流さないのが俺のジャスティス。 まあ聞いてみたい人もいるけれど、それよりは己の信条を優先すべ。 書きたい人は適当に拾って書いて下さい。 私んところから拾ったと書くかどうかもご自由に。

さっきの指名はただのハッタリです。 捕捉されているかどうかも捕捉していないのですが、もし捕捉されていたら、ああ書いておけば十分ビックリしてくれるかな、と。 (「ジョセフ・ジョースター!きさま!見ているなッ!」の気分)


2005年09月23日(金)

随分前の講義メモが出て来た。

連想しりとりは自然と名詞と形容詞の交互になるらしい。 複合語(例:ガラスのコップ)にすると次の人は連想しにくくなるとか。

狭めの階段があるとして、エスカレーターを一機だけ付けられる場合、それは上りにするべきか下りにするべきか? 実は、足の不自由な人にとっては下りエスカレーターの方が有り難いらしい。 健常な人は階段での片足ケンケンを想像してみよう。 上りと下りと、果たしてどちらが怖いだろうか。

ようやくちょっと余裕が出来たのでNF合わせの上回生カレンダーの構図を決める。 風車小屋も4ページくらい描けたらいいな。 今の内から動いとかんと、来月はまた仕事が厳しくなりそうだしなあ。


2005年09月24日(土)

不思議な夢を見た。 一体どこで見た話だ、と思うくらいドラマチックに展開する話。 回想シーンがあったり、そこからちゃんと元の流れに戻ったり、なんか蘊蓄(たぶんデタラメだけど)が盛り込まれたり。 目が覚めたのは寝ついてから3時間くらいだったけど、とりあえず起きてメモっておいた。 でもこれを元に漫画にすると少なくとも50ページは必要そうな分量だなあ。 こんなの描けねえよ。

高校の友達とバーベキュー。


2005年09月25日(日)

やべえ、今のシステムに TeX 環境が ports で入らねえ。 すぐに仕事で使うのに。 ……と暫く格闘した結果、libtool-1.5.8→libtool-1.5.20 に portupgrade してやると行けた。 エラーメッセージをきちんと読むとなんとか分かるもんやな。


2005年09月26日(月)

騙されないように眉に唾をつけるというお呪いがあるけれど、その時点で既に「疑わしい」と気付いてるのであまり意味がないような……。

修理に出した電動ハブラシを回収に帰りに日本橋。 でついでに漫画を数冊。


2005年09月27日(火)

学生実験のテキストを書き上げる。 そこそこエキサイティングなものになったと思う。 新しい知識を得た瞬間はいつも感動的なのだが、特に大きな感動を呼ぶのは既に知っていた複数の知識を結び付ける知識を得た時だと思う。 今回のテキストでは、金、銀、銅、鉄、アルミのそれぞれの酸化物の安定性と精錬に必要な技術レベルの相関、それと文明の発展(石器→(金銀)→青銅器→鉄器、アルミは近代以降)について熱く語ってみました。

それとは全く別の、いつもの思索↓。

同じ物質同士、たとえばガラス板2枚を重ねたときの光学特性は、厚い1枚のガラス板とどう異なるか。 ガラス板が2枚平行に、離れて配置されている場合、光はその4つのガラス-真空界面で反射する。 しかしその距離を縮めて行き、究極的にそれが1枚の厚いガラス板と見做せる状態になると界面は2つしか存在しないので透過/反射特性は異なってくる筈だ。 また、仮想的にガラス-ガラス界面という状態になるならば、その界面では反射-透過特性はどうなっているのだろうか? こういう疑問を持っていた。

経験的にはガラス-ガラス界面でも反射は起こっている。 これは屈折率が同じ物質同士の界面であっても反射が起こるということだろうか? いや違う。 液体の中に、屈折率の等しい固体を入れるとその界面が見えなくなる。 これらのケースの違いは、前者は界面の両側が固体であるのに対し、後者は界面の片側が液体であるという点にある。 ガラス板のように我々が日常的に平たいと思っているものもミクロな視点ではかなり凸凹しており、真に点である接点以外ではその間隙は決定的に大きなものとなる。 対して片方が液体の場合はその間隙を完全に埋めてしまうことができる。

ならばその間隙を光学的な間隙たらしめる距離はいかほどか? たとえば固体-液体界面であっても、オングストロームオーダーで見ると隙間は空いてるわけだ。 この答えは恐らく、物質の電子的なポテンシャルの及ぶ範囲ということになると思う。 光は原子という粒に当たって吸収されるのではなく、電子にエネルギーを与えることで吸収される。 この時電子がエネルギーを吸収できるかは、電子系のポテンシャルによって決定される。 屈折は吸収とは違うのだが、核力のような狭い範囲で効果を及ぼす力や重力のように微弱な力が屈折率に大きな影響を与えるとは考えにくい。 屈折率とはつまるところ誘電率と透磁率の変化(=物質内での光の速度の変化)であり、 誘電率や透磁率は静電力の影響を受けそうな気がする。

ただ、電子的なポテンシャルと誘電率、透磁率との関連が今んとこ理解できてない。 今度ちゃんと調べよう。 とりあえず今日辿り着いた結論としては、光学的な界面とは電子的なポテンシャルが変化する領域のことを指すのだろう、ということ。


2005年09月28日(水)

6:00起きで出張。 広島大学東広島キャンパスで学会。 ちなみに今回は発表せず。 様子見というか、自分に出来ることがないかを探る何か一石となれば、という感じ。 そんなことに公金使って出張しても良いのかという気もするが、私としてはこれは大事なことだと思うので良しとしよう。 しかし今の学会では私の専門は弱い分野なので、電気化学系のところとかセラミクス系のところも覗いてみた方が良いのかもしれない。

学部時代のM教授の話は滅法面白かった。 私のような専門外の人にもキチンと分かるように、面白く感じられるように話が組み立てられている。 これに比べて見回すと、この辺のプレゼン技術がキチンと出来ている人はそんなにいない。 こういう事は学校の正課教育でやっても良いことだと思うのだけれどなあ。 でも実際に必要に迫られないと覚えないだろうし、 1、2回生でやっても実際使う頃には忘れてしまうので無駄か。

去年の上司の助手の先生と軽く飲もうということでお好み焼屋。 すると京大の人が次々と。 確かに駅の直近だが、みんな安直だなあ。 最終的には私、助手の先生、別の研究室の学生の3人で飲み食いしてた。 そこで私が進路を決める時に吹く不思議な風の話をした。

しかし、俺そんなにだらしなく見えるのかな。 かなり LOW (秩序) に寄ってると思うのだが。 まあ去年は CHAOS (混沌) だったか。 てゆーか両面ともかなり強く持っているというのが正しいのだろう。 「キッチリしたところは母親似、ズボラなところは父親似」 というのが私が言った、私的な至言。

たぶん、ウチの研究室は私が締めなあかんねやろなあ。


2005年09月29日(木)

東広島キャンパスをてくてくお散歩。 広くて気持ち良いキャンパスだった。 周りに何もないけど。

俺は集中力に乏しい。 他人のプレゼン聞いててもふと気付くと別のことを考えてる。 これじゃあ将来座長とかすることになったら、とか考えるとちょっと不安になる。 まあその時になればそれなりに質問できるか。 聴衆を引き込めない下手なプレゼンをしたという責任の一端が発表者にもあるし、何よりベストの質問をする必要はない。 「〜が分からなかったのですが」とか「もう一度お願いできますか?」とかでも良かんべ。 てゆーか、それよりも英語が不安だ。 英語で質問とか来たらどうしよう。

学会はもう1日あるけれど、明日大学で関係するセミナーがあるので今日帰り。 それに仕事の締切も押してるしな。

俺はプロジェクトリーダーに向いている気がする。 あーでも、押しが弱くて仕事振るの下手だから、リーダーよりも参謀向きかな。


2005年09月30日(金)

助手という立場は学生実験とか演習とか、持ち回りでやる授業しかできない。 まあ今のテンヤワンヤな状況は、もしフルに講義を持たねばならない立場だったらと考えるとちょっとぞっとするが。 ともかくちゃんとした講義を持てるようになるには、とりあえず講師に出世せんと。 そのためには成果を出して、論文をたくさん書かないと……。 ……そう、論文書かないと!

自己診断では私は教育に向いている、 というか人に物を教える話し方というのが上手い方だと思う。 今日も客人に(やや偉そうに)そんな感じで話をしてみました。

講師の先生は講義の準備等があるので雑用は私が処理すべきだと思い込んでいたけれど、 一昨日の晩飯時に「彼はその分給料が高いんだから」と言われてはっとした。 なるほど、それは良い考えだ。 次いで「雑用を引き受けて自分をすり潰すのは良くないよ」とも。 心に沁みます。 ということで今日早速 未処理案件を1つ投げてみた。 やってくれることを期待して置いといた仕事だったんだが、もういいや。 これからは雑用の1/3〜1/2はバシバシ投げよう。 逆に彼からも投げてもらうようにしたらバランスが取れて良かんべ。

纏足というのは、足コキのためのものという説が結構有力らしい。 ちゃんとした学者であるウチの母ちゃんが言ってた話なので、かなり信憑性は高い。


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