頭髪は主に遮光と放熱に役に立っているのだろう。 しかし、脇毛は何故生えるのだろうか? これはおそらく、摩擦から皮膚を守るためだと思う。 石を運ぶときに使ったコロと同じく、平面と平面の間に円柱状の物が挟まれると、 その円柱が回転することで平面の摩擦・摩耗を防ぐことができる。 こゆことでないかな。
でも髭は何故生えるのだろう?
漫研コンパに合わせて研究室にお中元、寮にお土産。
仕事の息抜きにドラえもん。
(『ドラえもん』(藤子不二雄)(22巻 p.58)
ジャイアン、分かってるなあ。
「ナナマタノオロチ」とのび太の着眼点は確かに良い。 しかし、8つの首が円環状に並んでいたら、マタは8つだよね。
世の中には発言の文頭の単語で文章全体を想像してしまう人がいるのだなあ、と (少なくともサンプル数は2名)。 こーゆー人に話すときって、発言する文章に出てくる単語の順番とかに気を使わな ならんから面倒なのよ。
以前、私の話し方はしばしば「断言」していると指摘されたことがある。 だけど、私は断言してしまわないようにかなり気を使っているつもりなので、 俄には信じ難い。 (例えば「絶対」という表現を私はかなり避けている。 てゆーか、そういう物言いをしてるその時に指摘して欲しいんだけどね。)
で、ふと思ったわけだ。 この指摘をした人間が「発言の文頭の単語で文章全体を想像してしまう人」 だったので、文頭だけで断言だと判断されてしまったのかなあ、と。
まあ、周りから見れば、失笑を禁じ得ない自己認識かもしれないが。
雨はやっぱり憂鬱だけど、「記録的な渇水になるかも」とか言われた後だったら 有り難い気持ちで出掛けることができる。
「毛があることが有利でない生存環境とはどういうものかを考えることで いくらかのヒントになるのかもしれない。」 というのは面白い。 ちょっと考えると、暑い地方では日射しから皮膚を守るために毛があった方が 有利だろうと思う。 逆に寒い地方では防寒のために有利であるに違いない。 かといって温帯域は夏暑く冬寒い地域なので両方の意味であった方が有利な気がする。 結局、毛がない方が有利なのは、密林の下で日差しの弱い熱帯地域ではないかと。
犬は汗をかかないと聞く。 猿が汗をかかないかは知らないけれど、 発達した毛根があるせいで汗腺が発達できないということは考え得ることだと思う。 人間は汗によって体温を調節するために、皮膚の主要機能を毛根から汗腺にシフト させたのではなかろうか、と思う。
そうだとすると、脇は普通は閉じているから汗をかいても効果的に蒸散できないため 汗腺があってもそれほど効果的ではなく、それよりも毛根があった方が 有利だったのかもしれない。
ラクにやったら黄金比に近いコマばっかりになってしまう。
細長いコマを使うということは、絵の描くべき部分を大胆に隠すということになる。 しかしそれでも人間の脳の補完能力は凄いのでほとんど情報を落とさずに 伝達することが可能だ。 このように細長いコマを上手く使えたら、 ページ当たりの密度をもう少し上げることができる気がする。
やっぱ平日は2ページが限界だなあ。
もっと小さい絵をかけなきゃだめだ。 コマサイズの下限をもう半分にしても良い。
今日も2ページ。 今後もコンテにかかる時間は1ページ2時間で計算できそう。
プロット(2h)→コンテ(2h)→下描き(2h)→ペン入れ(1h)→仕上げ(1h):計8時間。 シナリオ作業も含めた全行程の、1ページあたりの時間はこんなところかな? 今回は下描き以降は俺はやらないが。 ……うーん、プロットはもうちょっとかかってる気もするなあ。
漫研でカラオケ行ったときにちょっとテストしてみたんだけれど、 mp3 再生端末からカラオケ屋の機械に繋いで再生することは可能っぽい。 ということで次回かくらいに PC 持ち込んでやってみたいと思います。 興味のある方は「あの曲を一度歌ってみたかった!」という曲の候補を 考えてみておいて下さい。 実際に実行するのは多分 NF のころになると思うけど。 以下のような感じかな。
蛇足ながら、私が歌ってみたいと思う曲は、
持ち帰り仕事。 ちょっと某所で愚痴る。 やっぱ安全弁って大事やなあ。 随分心が軽くなった気がする。
ビールは美味いけど、コストパフォーマンスが良くない。 飲むなら少なくとも2缶くらいは行きたいけど、それで400円近く行く。 それだったら美味い茶に金を使う方がよほど良い気がする。
ただ、このような理性的な感覚を麻痺させるのがアルコールの魔力なんだよなあ。 だから今日も俺はアルコールで脳の能力を低下させながら作業してる。
↑この文章を書いたら、随分嫌な気分になれた。 今週からは食事・宴会以外での酒は減らしたい気分。
(以下、主観で決め付けて語ってますので真偽の程にはご注意を。)
安全弁。
甘やかすとロクなことがないというか、 善意じゃ社会は回らないというか。 雑用仕事は俺だってやりたくないけど、 誰かがやらなならん仕事だったら俺が片付けてやろうと、 そうしておけばいつか「誰か」が俺のかわりに仕事をしてくれる筈だと。 そのように信じている面がある。 だけど「いつかは俺のかわりに仕事をしてくれるような人」ばかりではない。 彼に一々仕事を振ってやるべきなんだろう。
そういや嫌なこと言うてたな。 「研究以外の仕事も多々あるが、そればかりに時間を使っていてはダメだ」と。 そこで「どうやって時間を使わずに済ませるか」の方法に 「他人に押し付ける」を採用してるんじゃなかろうか。
とりあえず彼が俺の見えないところで仕事してたらいかんので、 彼の言い分を聞いてみるべきか。
でも今の仕事を処理したら俺の機嫌が良くなったのでとりあえず放置。 新しい仕事が湧いてから彼に打診しよう。
上の主導で横の連携を狙った新しいシステムを構築しようという動きがある。 彼は言った。 「けど結局旧来のタテワリのままやることになるだろう」。 往々にしてそうなるだろう。 社会がそういうもんだってことくらい俺だって分かってる (俺がそういうもんだと「分かってない」と彼は思ってるみたいだが)。 だけど全ての社会がそうだとは俺は思ってない。 新システムがまだ海の物とも山の物ともつかない時点でそのような判定を下し、 「もしそれが上手く機能したら」という立場を一切取らないというのはマズいと思う。 私はシステムを良くしたいと常に願っている。 私が将来偉くなったとしてシステムをより良くしようと改革を行うならば、 その時に一番邪魔なのがそのような思考だ。 だから私は面倒だとは思いつつも、 諦めるに足る材料を得るまではとりあえず計画に乗ろうとするだろう。
見られてた……。 まあいいや。
昨日「仕事」と書いてたのは「雑用」ですね、正確には。
今回はたまたま話ができて結果良い方向に話ができたが、 基本的にはハイリスクだよなあ。 愚痴るのはもうちょっと慎重にしよう。
「他人に仕事を投げる」という仕事が最も大変な仕事の一つであると私は捉えている。 そこで仕事を投げるということについて評価してみよう。
他者に仕事を投げる際にはその相手との交渉から始めなければならない (誰にどの仕事を振るか、という振り分けから始めなければならないこともあるが)。 交渉して、相手が仕事をできるだけの材料を渡して、相手の仕事が終わるのを待って、 レスポンスが遅ければ催促して、結果を受けとって、自分の手持ちの材料に反映させなければならない。 さらに仕事をしてくれたことに感謝しなければならない。 (この辺、プログラミング用語でのオーバーヘッドという言葉が大変しっくり来る)
これは「トータルコストを下げる」ことを第一とする私の理念と明らかに対立する。 私が他者に対して仕事を投げることが下手だというのは ある意味当然のこととも言えそうだ。
今日もコンテ。 あと5ページ。 自由になる時間の殆どを費しているので、最近勉強時間が不足しがち。 まあもうすぐこのタスクから解放されるだろうからそれからやろう。 しかし、無理だったら無理と言ってくれたら俺もコンテの手綱を 緩められるんだけどなあ。
「どうせ旧友しか見てないし、旧友らは俺が愚痴る対象のことを知らないから 問題にはならないだろう」などと思っていたけれど、 「彼」がこのサイトを見つけたようにネット検索で 容易に私のサイトと分かる状態なのだから、 私と彼の両方を知っている人がこの日記を見ることも容易に想定できるわけで。 もし仮にそのような人が見てるとすればここに主観的な物言いを吐くのは 私や彼に予想外の実害を及ぼすこともあるだろう。 失敗だったなあ。
でも消しゃあ良いという問題でもないので己への戒めとして置いておく。
今日は会議の後みっちりと雑用。
コンテあと3ページ。
雑用。 この限定された仕事のなかで私は既に替えの効きにくいパーツになってしまっており、 仕事を他所に振れない状態になってしまっている。 (仕事を振る際のオーバーヘッドが大きい)
仕事から早めに上がって、18:00〜19:00の1時間大学のプールで泳ぐ。 今まで意識してなかったけど、クロールって捻る運動がキモなんやろなあ。 さらに帰り道でコーナンに寄って物資の調達。
「猿にはリンゴの絵を理解できない。 リンゴの絵を見せても、絵とリンゴの繋がりを把握できない」。 どこで聞いたのだろうか、こんなことを聞いたことがある。 そのときは何となく納得したけれど、よく考えるとおかしい気がする。 リアルに描かれた、所謂写真のような絵は、それが絵だと見破るのが難しいものがある (「最後の一葉」は猿だったら見破れるのだろうか?)。 「絵だったら一般に……」という議論は成立しない。 最初にあげた話はおそらく、「記号化されたリンゴの絵」という意味だったのだろう。
メールの整理。 直交性に注意して分類しようとしたが、これがまた難しい。 たとえば「家族」カテゴリと「仕事」カテゴリで直交性を確保するのは比較的容易だが、 「仕事」メールは多いので組織内でサブディレクトリを切る必要があり、 これが難しい。 組織というのは自分を中心に置くと、この周りに同心円状に構成されていて、 外側から内側に向かって「学部」「専攻」「学科」「研究室」のようになっている。 そして一般に、内側の狭い領域ほど連絡が密になる。 このような場合、結局、「研究室」「研究室以外の学科」「学科以外の専攻」「専攻以外の学部」のように分類すべきなのだろう。
もう一つの方法として組織に関係なく個人名でフラットに管理する、という手もある。 そのどちらが良いかは、メールの使用形態や MUA の環境などに依存するだろう。
さっさとコンテを済ませてしまいたいところだが、 雑用に時間を取られて平日に済ませられなかった論文仕事が残ってる。 友人が京都に行くという話があったのでそっちに行くのもアリだったかもしれんが、 土日の間は無理っぽい。 この週末は月曜日と繋がって連休になってるが、月曜に行っても人いねえだろうし。
ようやっとコンテが終わった。
服屋に行ってみる。 まあ定期収入もあるわけだしちょっと良さげな服をたまに買ってもよいかもね。
コンテが終わるまで、と先送りにしていた『ひぐらしのなく頃に解』目明し編を開始。 なるほど、こらよく出来てるわ。 納得。
『ひぐらしのなく頃に解』。 スッゲー! 構成力が凄ェ。
ミステリはその枠組み上、パズルの材料を与えられた読者がそれを解くという 形式であることが求められる。 このためシナリオ上でその問題が解かれるより前に、 全ての材料は提示されていなければならない。 この一定のコンセンサスのためミステリでは至る所に解決に至るヒントが提示され、 それは作劇上では伏線として機能する。
ミステリに限らず、良い作品とそうでないのを分ける一番のポイントは シナリオ、ビジュアル、サウンド等のどの単体でもなく、演出だと私は考えている。 (尤も、この考えは自分の作品にはあまり反映されていない。 というのも「演出とは何か」ということについてキチンと理解していないから。 一度キチンと勉強してみたいところではあるのだが、 そういう「作劇法」に焦点を絞った良書というのはあまりない気がする。)
とりあえず、演出の基本的な技術の一つがこの「伏線を張る」ということだと思う。 以前、私は「シナリオの予測可能性と予測不可能性」について 以下のようなことを書いたが、 これはまんまミステリのことを言っているかのようによく当てはまる。
シナリオは、読者の予想を「裏切らなければならない」。 予想通りに話が進んで予想通りに終わってしまうのならば、 読者はそのシナリオを読む必要がないからだ。 しかし同時に「裏切ってはならない」というのも真である。 なぜならシナリオは読者にとって納得の行くものでなくてはならず、 納得されるということは論理によって導き得るものということ、 すなわち事前に予想されうるものということだからである。 論理に繋がりのないシナリオはただ絵が並んでいるだけにすぎない。 「伏線」とはこの矛盾する命題を消化する解の一つではなかろうか。 (日記2005年03月03日第一段落)
動機、トリックなど、随所に張られた伏線が、文庫1冊のうちに消化されるのだから、 これは面白いだろう。 思うにミステリ作家に一番必要な能力はトリックを思い付くかどうかではなく、 伏線を張り、それを消化する能力なのだろう。
またミステリには必然的に不幸が折り込まれる。 一般に不幸なシナリオの方が良いエンターテインメントになり易いと思う。 これについては以下のように考えている。
まあ言い方は悪いが、「他人の不幸は蜜の味」ってことだろう。 「他人の不幸が相対的に自分を幸福にする」というニュアンスではない。 ただ、悲しい状態というのは皆が避けようとする筈で、 だけれどもどうして避けられなかったか、 そしてそれに直面した時にどうなるか、というのは非常に興味深い事象だと思う 。 だから、そこに物語が生まれ、多くの人の興味が注がれるのだと思う。 そういう意味で、私は他人の不幸を知るのが好きだ。 (日記2004年06月07日)
もう一点、 「問題を出されたら解いてみたくなる」というパズル的な知的自尊心のくすぐりがある。 「シナリオの予測可能性」の問題とも絡んでくるが、 トリックや動機が推理通りだったなら、 それは読者にとって非常に大きなカタルシスになる。
以上の「伏線による演出」「悲劇性」「パズル性」の3点を提供する仕組みを ミステリは枠組みとして持っている。 もちろん、それでもダメな作品はダメなんだろうけれど、 エンターテインメントとして備えるべき幾つかの大きな要素を その枠組みが要請していることは確かだ。 このため、「エンターテインメントとは何か」ということを理解していない作家でも、 ミステリの枠組みに従って物語を描くだけでエンターテインメント性の高い物を 書けてしまい易いのではなかろうか。
私は基本的にジャンルの別なく良く出来た作品を好むが、 ミステリというジャンルだけを愛好する人がいるということに、 今日、大いに納得した。 名作と言われているミステリを幾つか読んでみても良いかもしれない。 描く方としても一度挑戦してみたくなる。
ミステリに対する一般論はここまでにして、 兎に角『ひぐらし』は大変良く出来た作品で滅茶苦茶面白かった。 とはいえ、『ひぐらし』同人を私は描けない。 私はあの世界を愛しているが、 あんなにも完成された、未完結の世界に私なんかが入る余地はない。 この辺は「とらハ2の世界を私は愛しているが、そこで何かを描くことはできなかった」 というのと一部重なる。
私の仕事において英語は間違いなく不可欠な一部であり、 英語能力が仕事を律速する場面が多々ある。 最終的に英語を不足なく使えるようになるつもりではいたけれど、 その予定を前倒しした方がトータルコストが安く上がるだろう。 仕事(雑用)が今の山を越えたら英語の勉強をもっと強めにしよう。
コップを水で満たして紙で蓋をする。 これを逆さにして、紙から手を離しても水がこぼれない。 「これは下から大気圧で押されているからだ」と昔説明された。 しかし、『大気圧で押されている』という説明が正しいのならば、 コップの中に気泡が存在すれば、気泡が及ぼす圧力のためにコップ内部は 外部と同じ圧力になる筈であり、であるならば水は紙と一緒に落ちなければならない。 ということで実験してみたが、気泡が存在してもやはり紙は落ちなかった。 もう一度、別の実験をやってみた。 圧力に起源を求めるのならば、コップ自体を水中に入れて実験しても 紙はコップから離れない筈である。 しかし、これは実際に実験すると紙はコップから離れた。
考えれば当たり前なのだが、大気圧で押される為には蓋をする紙が 完全な剛体である必要があり、実在の物体である紙ではしなるために、 外圧の抗力として内圧も同じ圧力になる。 圧力に起源を求めるのには無理がある。
これは単純に、準安定状態から、それより安定な状態に遷移する際の 活性化障壁が存在する、というだけの話だろう。 エネルギー的には水が落ちた方が安定だが、 水が落ちるには蓋をしている紙が落ちなければならない。 紙が落ちるにはコップに外部から物質(空気)が入らなければならない。 しかし、コップに物質が入るには紙が除かれなければならない。 このようなループした依存関係のために、 コップに物質が入らないまま紙が除かれなければならず、 この条件をクリアするために大きなエネルギーを必要とする。 こういうことなのだろう。
だからコップ内の水は、本当はコップの縁と紙との間で外部の物質(空気)が コップ内に侵入するのを防ぐバリア材として機能していることになる。 だからコップ内に水を入れなければ隙間から空気が侵入して紙は落ちるし、 バリア材(水)と同じ物質で満たされた空間(水中)でも紙が離れるわけだ。
学校にいる全ての時間が雑用に費される。 なんとなく仕事をしている気分になるが、これは錯覚だ。 俺本人としては何一つ進んでいない。 論文も書けないし計算機材のセットアップも放ったらかしだ。 ネガティブな意味での仕事はそういうものだと言ってしまえばそうなんだけど。 でもお腹の底の方にモヤモヤとしたものが溜まる。
はじめての試験監督。
「文系、理系という分類は排他的な関係にあるのではなく、 『理系の中に文系がある』という包含関係にある」 と友人に言われて、成程と思った。 理系といえば「論理的」というイメージを私は連想するが、 「論理的」というのは理系に限らず学問一般に不可欠な要素だ。 例えば「法律」というのは文系学問で扱われる対象であるが、 これは間違いなくロジックの塊で、 我々理系学者が書く学術論文なんかより(というと語弊があるが) 余程高い論理性を求められる。 まあ例外は沢山あるだろうしあまり厳密な議論をするつもりはない。 しかし捉え方の一つとしては面白い、ということで。
これをキッカケに学部の切り方、というか分類ということについて考えてみた。 で、数学的に美しい分類方法と、人間が扱うのに便利な分類方法は基本的に 異なるのだと思った。 前者は単一の少数のルールで全体を完全直交に分類する方法で、 そのルールに重点が置かれている。 後者は全体をそれぞれが均等な数になるように分類する方法で、 そうやって分類された後の状態に重点が置かれている。 両方を満足する分類方法を模索するのは大変困難な作業だ。
locate のデータベースに /backup を捕捉させないようにした。 (/etc/locate.rc に「PRUNEPATHS="/tmp /usr/tmp /var/tmp /backup"」)
jman を使えるようにした。 (portinstall -P japanese/groff)
scmail を導入し、FreeBSD-users-jp を受信時振り分けするようにした。 ベイジアンフィルタの適用もおそらく容易だろう。 今やっても良いが、今のところ強い必要性を感じないことと 学習させるスパムの量がそれほど多くないことと。
アンテナの整備に伴ってこの日記に名前をつけてみた。 『きづき(日記)』。 科学的な視点、気付いたことに対する考察、ただし検証は面倒という方針。
反省について。 注意されたことは反省して改善しなければならない。 そして次回また注意して貰えるようにそれを態度に出さなければならない。 注意されても改善されなければ注意する方のモチベーションが下がり、 自分をより良くする機会を逸する事になる。 しかし、反省の態度を大げさに出しすぎるのもあまり良くない。 「ちょっとしたことでも飛び上がらんばかりに」振舞うと 注意した方が却って悪い事をしたように感じられ、 そのため注意しない方にモチベーションが動いてしまうことがある。 然るべき強度の反省の態度というのはそこそこ難しい。 まあ精度が低くてもそれほど問題にならないことの方が多いんだろうけれど。
杉浦日向子は「時代物の漫画は読み味が重い」という固定観念を覆してくれた。 他に替えのいない、希有の人が失われた。 ご冥福を。
N個の中から特定の1個を探さねばならない。 この時普通に全数検索すると O(N) のコストがかかる。 しかし例えば6種類のカテゴリに分類していたら、 その内の5カテゴリには入ってないことが明らかので端から無視できる。 則ち全数検索の 1/6 のコストで発見できる。 この「無視できる」というのが整理整頓のキモなんだと思う。 (cf. 自サイト内リンク都市の密度、 忘れて良い領域(プログラミング))
さらにカテゴリ内も然るべく仕切りがあったならば、 コストをさらに節約することができる。 このカテゴライズを再帰的に適用すると、検索は O(log N) のコストで終了する。 ……とここまで考えて、整理整頓というのはソートと等価な作業なんだな、と思った。 いや違う。 ソートは、扱う対象全てが一次元的に評価できる指標を持ち合わせているときにだけ 使える整理整頓の一種というべきだろう。
整理整頓というのはイニシアルコストをかけてトータルコストを下げるための 戦略だと言える。 ならば私はもっと整理整頓が好きであるべきだ。 (まあ特定の領域については大変几帳面なんだけどね。)
己が確認してなかっただけなのに 人の所為にしてちゃいかんわな。
仕事の精度が低かった。 もっと上手くやれたと思う。 精度を上げるために、もうほんの少しの努力をすれば、 作業全体のトータルコストはまだ随分減らすことができた筈だ。
まあ、今回はコピー機の機能(サンプルコピー機能)を知らなかったので仕方がない。 次に似たような仕事をする時にはもっと上手くやろう。
雑用仕事、最後の発送で締め。 次は1ヶ月後。
雑用のために2週間も先延ばしにしていた計算プログラムのコンパイルは、 やってみると3時間で通った。
雑用一区切りでちょっと飲み会。 楽しかった。
ケテスタ! おキヌちゃんは俺を萌っ殺す気だ!
姉と英会話学校のパーティというのに行ってみたけれど、よく分かんなかったなあ。 やっぱ飛び込んで行くガッツがないとあかん。
先日あった装置の講習会。 しかし講師として来ていた技術のオッサンの説明が全然ダメで、 苦痛に耐え切れず1時間で退出。 どーせ居ても分からんねやったら雑用を片付けてる方がずっとマシだろう。 ……とまあ、アカンかった点にぐだぐだ愚痴を言うのは簡単だが、 (同じことだが)逆方向からより良い講習を行うための提言としてまとめてみよう。
講習という観点以外で文句をつけたい点。 暗い環境でデジカメで写真を撮っている学生が急に怒られた。 暗くする前から写真撮ってんだからその後も撮ることが容易に予想できるだろう。 ならば前以て注意しておかなかった講師が悪いと思うのだが。 さらに言うと、そちらが用意した資料の出来が良ければ デジカメで写真を撮らなくても済んだと思うのだが。 私は、あの学生はやるべきことをキチンとやっていただけで全然悪くないと思う。
大変良い反面講師だったと思います。