合作のチャット。
『ひぐらしのなく頃に』。
とりあえず学校。
『ひぐらしのなく頃に』。 本筋とは関係ないけど、沙都子可愛いな。
とりあえず『綿流し編』まで終了。 とりあえずキリが良いのでここで封印することにする。
高校の友人と飲み。 飲むだけで遊びなしというのもしっとりしていて良かとです。
漫研名簿用にお絵かき中。 「ありそうなこと」よりも「自分の得意な絵に落とし込む」方が効果的だろうと思った。 小道具の配置とか、「自分がこの登場人物だったらこうしてるだろう」という 信念よりも、絵的に映えるように、さらに自分が描きやすいようにしても まあバチは当たらんやろうて。
ランダムな形状のものはフラクタルな(自己相似な)感じを意識すれば良いのだな。
参考資料で、開いたドラゴンボールを読み耽る。 ピッコロに懐く悟飯が可愛い。
沙都子、お前本当に可愛いな。
うん、沙都子。 俺はお前がこんなに可愛い奴だということをちゃんと分かっていたからな。
漫研の新歓コンパに京都へ。
明け方までカラオケやって、その足で帰る。
『舞姫 テレプシコーラ(7)』(山岸涼子)。 楽しい部分と、嫌な気分になれる所との配分が絶妙。 匠の技だな。 しかし山岸涼子がこんなに連載を上手く描けるとは思わなかった。
ふぬ。 猫2匹を椅子元に侍らすこの愉悦。 たまらんのう。 ふひゃひゃひゃひゃ。 うぬ、やめれ、猫マッサージはこそばゆいんじゃよー。
戯れに、指をさしてみる。 猫は、その指さす方向ではなく、指先をじっと見つめる。 そこで思う。 指を差すとその方向を意味する、というのは人間特有の感覚なのだな、と。 あるいはひょっとしたら、「方向」という概念が「場所」に比べて 随分高級なものなのかもしれない。
どうでも良い話。 助詞「〜に」と「〜へ」は元々は、「場所」「方向」を指すという違いがある。 だから「〜に行く」「〜へ行く」はどちらでも正しいけれど、 そして「〜に居る」は正しいけれど、「〜へ居る」は正しくない。 だから『夢は終わらない』(Tales of Phantasia OP)の「どこへいても」は国語としては間違っている。
カラオケで歌った小公女セーラED『ひまわり』で絵がついてた。 ……泣いた。
『舞姫 テレプシコーラ』をも一度読み返す。 もう一点。 山岸涼子がこんなに萌えっ娘を上手く描けるとは思わなかった。 六花ちゃんかわいいよ六花ちゃん。 千花ちゃんは本来の私のストライクゾーンど真ン中だし。 しかも姉妹が仲良くていいんだわ。
俺は富樫先生になりてぇ。 そして六花を見守るんだ。
技術的なことを言うと、伏線の張り方がやっぱり天才的だと思う。 ……そういう見方をすると、この部分もこれから先の伏線になっているのだな、と思う箇所がある。 漫画描きとして精読してみたい作品だと思う。
「指を指したらその方向を意味する」というのは言語に近いものなのだろう。 猟犬とか鷹狩の鷹とかは方向を解しそうだ。 人間に対して指を指しても方向だと理解してもらえず、 ひょっとしたら「1」とか、「人差し指」と理解されることもあるだろう。
WYSIWYG の短所はデータにコメントを付けられないことだ。 本文の説明書きを加えたり、 一部を一時的に退避したり、 あるいは恒久的に退避したりすることができない。
今思うと、機能の劣る物をわざわざ志向しているような感じがする。
『ひぐらしのなく頃に』で漫画を描くには、私内部の熟成が多分まだ足りないなあ。 とりあえず棄権しとく。
『ひぐらしのなく頃に』。
タブ機能付きのエクスプローラを作りたい。
『ひぐらしのなく頃に』暇潰し編終了。 単純だけど効果的に威力を発揮する手法だなあ。 読者を推理に誘う手法がとても良かった。 推理せずに読み進めようかと思ってたけれど、 あのように上手に誘われたので目明し編を始める前にもうちょっと推理を楽しもう。
コンテをとりあえず4ページまで上げて送ってみる。 hiki + comicstudio は遠隔地の人と共同作業するのに結構便利かもしれない。 もう一つ、CVS のようなバージョン管理システムもあれば良いかもしれないけど、 使える人が少ないということと、オーバースペック気味っぽいところと。
ヌルいパソコンいじりとかスクリプト書きが仕事として認められるっていいなあ。
バンド計算(量子論)の勉強を再開する。 面白い。
帰ってコンテ2ページ。
「最近、昔に比べてコンテ切るの速くなったなー」と思っていたけれど、 これはどうもアクションシーンがなかったので時間がかからなかった、 ということっぽい。 いや実際コンテ力が上がっているということもあるとは思うのだが。
ふむ、俺の今の肩書は、「博士」かつ「助手」なわけだな。
「トータルコスト削減のために」という感じで熱く語ってしまった。
競争がないと人間がダメになると思った。 もうちょっと合理的にシステムを動かすことに執念を燃やそうよ。 無駄遣いを減らすことにエネルギーを割こうよ。
英語力本気でヤバい。
ひょっとして奴らは「管理している予算が大きいほど偉い」などと錯覚しとるんちゃうやろか?
「自分が『常識』と思っている知識が『常識』である根拠はどこにもない」 ということはあまり常識ではないのだろうな。 「これくらい常識やろう」という言葉はそれを知らない人を非難してるつもりなのだろうけれど、 本人の見方の浅さを示しているような気がしてならない。
ファイルの整理について。 1つのディレクトリに入れるファイル数は、 ファイルブラウザからの視認性が損なわれない程度にするのが妥当だと思う。 ファイル名の長さにも依るが、ターミナル+シェルならば20〜40個程度、 エクスプローラの詳細表示ならば40個程度だろう。
さて、仮に10000ファイルあったとする。 ということはディレクトリの階層は2階層では足りず、 少なくとも3階層必要だということになる。 しかし果たして、均等になるように第1分類、第2分類、第3分類を 設定することができるか? これはほとんど不可能だと思う。 それぞれのサブディレクトリの構造がどうなっているかを覚えておくことは 人間にとって非常に大きなコストがかかる。
要は私は今、mp3 ファイルの整理を考えている、というわけだ。 まあ10000ファイルもないけどさ。
あるファイルにアクセスしたい場合に、そのパスが自明でなければならない。 そのためにはルールを単純に保たなければならない。 愚直なまでに簡単に、そのルールを考えるために労力は支払われなければならない。
ジャンルによる分類はそのうちどちらに分類して良いか(どっちに分類したか) 分からない物が出てくるだろう。 番組による分類は1番組に1曲しかないような曲も沢山あるので分類としての効果はあまり期待できない。 アーティストによる分類も同様のことが言える。 発表年は?なるほど多くの曲では一意に定まるだろう。 しかし普通それを覚えている人は稀だろう。 「あの曲を探したいのに」という時に困るのが目に見えている。
データに対して人間の脳が連想し易い物で分類する必要がある。 曲にとって一番根本的なデータはその歌詞やメロディだが、 これらで分類することは困難だ。 というようなことをぐだぐだ考えていて、 結局タイトル名で分類するのが妥当だという結論に至った。
「0-9」、「a」〜「z」、「あ」〜「ん」というディレクトリを作り、 そこにタイトル名の読みで振り分けていった。 これで第1階層を73ディレクトリで区切ることができたことになる。 とりあえず手持ちのデータの半分くらいを処理した。 本当に10000ファイルあったのならこれでも1ディレクトリに140ファイル以上のディレクトリが出来るので、もう一工夫必要になる。
なお、「『The』は無視する」というようなルールの導入も控えるべきだ。 そのうち「『The Galaxy Express999』の『The』は付けて整理してたっけ? してなかったっけ?」 などと混乱するのが目に見えている。 単純なルールで機械的に処理できるようにすることが最終的に最もコストを下げ得る。 単純作業をしてるうちに慣れて「もうちょっと複雑なことも出来るな」などと 思ってしまうが、そこでぐっとこらえてとにかく単純なルールで通すことが肝要だ。
学部生のころバイトしていた飲み屋で知った酒『出羽桜』が あらゆる酒のなかで一番私が好きな酒なのだが、 あまり扱っている店がないのでネットで調べて扱っている店に行ってみた。 そしたらその店が地下に蔵を持っていて、そこで試飲(有料)させてもらえる。 そこの雰囲気がまた良くて、これは是非とも毎週通おうと、そう思ったわけだ。
まあ去年から相変わらず英語の泣き言を続けているわけだけど、 今年はちょっと違う。 そう、「通勤時間」という強制的なお勉強タイムが発生しているのだ。 ちょっとずつ、英語に強くなっていることが実感される。
通勤には歩き←→地下鉄←→自転車という経路を取る。 それで「携帯音楽端末を持ったらこの経路をフルに勉強できるぞ」 と目論んでいたのだが、kinoka さんに「それ危いって」と嗜められ、 丁度自分でもそれを実感しつつあった頃なので自転車での使用はやめた。 地下鉄は騒いので使用に耐えん。 てゆーか(英語のお勉強)本を読んでる。 歩きの行程は3分くらいだしなあ、そこまでして、という気がする。 それにそもそも危いし。
ということで携帯音楽端末は非常に手持ち無沙汰なアイテムに変化しつつある。
そういえば、こないだ講師を呼んでやっている講義で世話係として手伝いに行ったんだけど、その講義が大変面白くて聞き惚れてしまった。
今まで、英語で何かを表現するのには「正解」が一つあるのだと思ってた。 でも本当はそうじゃない。 言いたいことを伝えるのにふさわしい表現が幾つかあって、 その中で妥当解や最適解が存在するだけなんだ。
勿論これは英語に限った話ではない。 本当に伝えたいこと、「言語化される前の段階で伝えたいと欲すること」というのは、 根源的な意味では他人にそのまま伝えることができない。 私が一番得意な言語である日本語にしたって、その日本語という言語に投影している、 言わば近似値に過ぎないわけで。 (我々の思考が往々にして言語によって規定されている、 すなわち言語によって表現されるような思考形態を取り易いということはあるけれど) まあそういうテツガク的な議論はどうでも良い。
やあ、さて。 言いたいことは、今迄の私のトレーニングは英語→意識(日本語)への変換をスムーズにするためのものであって、これは英語で発言するためには全く役に立たない技能であるということ。
今英文を理解することに全く不自由のない、それだけの能力を持つ人間がいたとしよう。 彼が思いを言葉にするにはどうするか? 彼は手持ちのすべての英文を走査して、言いたいことに最も近い英文を選び出すという処理が必要になる。 簡単に言えば、英和時点を全て走査して使える英文をピックアップする作業と言える。 これには O(N) のオーダーのコストがかかる。 今までの私のやり方は彼のやり方だったわけだ。
しかし、発言するためには「発言したいこと」をキーとして引く操作になる。 「発言したいこと」について、そのようにソートされた辞書から検索する作業は O(logN) のコストで検索が終了する。 これは先と全く逆の操作だ。 このための辞書を構築する作業が、英語を「書ける/喋れる」ようになるための 正しい訓練ということだろう。
補足:人間の連想機能には必ず方向性があるということ。 「A ならば B」という関係があるとき A から B を連想することは容易だが、 B から A を連想するのは困難である。 (正しくは、おそらく「人間」によらない。 データとしてそうなるものなのだろう。)
総論はつまらない。 批評は各論で論じなければ、批評を受ける側にとってはつまらないものだと思う。 つまらないということはすなわち興味を引かない、身につかないということ。 批評に限らずもっと広い意味でも、他人に対して働きかけるということには 必ず面白さが伴わなければいけないと、最近とみに思う。
外国のソフトウェアを開発元から購入する手続きを英文メールでやりとり。 英文メールは喋るほど即興性が求められないし、論文ほど厳密性が求められない。 また、定型化が幾分しやすいということがある。 まあちょっと慣れた。 まだまだ出す前に他の先生にチェックしてもらわんと不安だけれど。
同義語、類義語、言い換えに対する捉え方が変わった。 一つのことを表現するのに妥当な言い方は幾つかあって、 そのどれでも概ね問題ないけれど、正解ではなく最適解がどこかに一つあるという感覚。
「〜してはいけない」的な知識は間違ったフレーズだけが頭に残りそうで忌避してしまっていたけれど、 このような禁則は情報密度が高く、やっぱりそれとして覚えるべきだということ。
何故都会が過密化するかというと距離が短くなるほど便利になるからだ。 田舎にしても山中より村に人が集中するのはそういうことだ。 そして田舎より都会の方が人の密度が高いので、そちらに人は流れようとする。
距離が短くなるほど一つの仕事を果たす為の所要コストが軽減される。 「密度の薄い都会」なるものが形成されたなら、 そこでは隣の部署に行くのに15分も歩かねばならないだろう。 便利さというのは外部との相対値ではなく距離の絶対値に依存する。
この辺なんか、核分裂の臨界が濃度と容器の形状によって決定されるのに似ている気がする。
ということをダラダラ考えているときに、ビルのことを思い付いた。 人間が都市をより過密化するために作り出した技術が高階層化で、 人間は単位面積あたりの密度をさらに上げることができるようになった。 これによって、人間は隣の隣のビルに行くときに、隣のビルの面積を1フロア分を除いて全て無視して通過することができる。 仮に全てフラットフロアな都市というものを仮定するとそこでは人は 「ビルのフロア数の平方根」分だけ余分に移動しなければならないことになる。
研究対象を定めるために材料という世界を広く見渡さなければならない。 社会や産業にどのような材料が求められているのか、どのような性能の改善が求められているのか。 その後の話になるが、その中から私ができる方法で解を与えられそうな物を選ぶ、 ということも必要になる。 果たして私には、何ができるのだろう?
今週は岩手の酒「菊の司」。 ものすごく正統派な日本酒という感じ。
とことんコンテを切ってた。 綺麗なコンテが切れると、なんかドキドキする。
某によると夏コミに当選していたらしい。 逃げられない状況になってしまった。 ……コンテ切ろ。
結局土日で10ページコンテ切るのが精一杯だった。 あと30ページ(以上)。 2ヶ月で60ページくらい? 脳内ではすでに締切警報が鳴っている。
そうか、『Pure Snow』は火魅子伝という PS ゲームのオープニングだったか。 ……ちょっと気になる。
ニトロプラスのゲームはやったことがないが、 オープニングアニメーションの出来が凄く良い。 どれかをやってみるべきな気が最近ちょっとしている。
ふと思ったんだが、コンテってデザインパターンみたいなアプローチはできないのかな?
風車は諦めた。 その分の時間は某合作の進行に集中すべきだ。 そもそも風車に描くことが目的なのではなく、作品を作り発表することが目的だしな。 良い物を作って、後に漫研に自慢しに行くくらいのつもりで行こう。