2004_05月日記

last-modified: 2011/12/14 02:45:11. JST

2004年5月1日(土)

総行程6時間の作業を終えて通りかかった受付前で酒飲みに参加。 すると間もなく半ば喧嘩腰の議論発生、俺は傍観者。 4:00〜8:00くらいかな。 俺は楽しく酒飲んでいたいだけだったんだけどなあ。

俺も殴られるのは怖いし、 言葉の暴力と拳による暴力はかなり違うもんだという価値観がある。 だからそういう俺の価値観で言えば、殴るのは絶対の悪だ。 なんだけど殴った側の人が好きなので、ついついそちらに肩入れしてしまう。

こういっちゃ何だが、殴られた人は確かに殴っちゃいないが、それよりも酷いことをやってると思う。 俺の価値観、ではね。

別件。 甲が乙に「いっぺーという人と話をした」という話をした時に、先日俺が甲に言った意見で一番言いたかった事が伝わってなかったみたい。 間にフィルター一枚噛んでるのでそうとは言いきれないんだけど、そうだとしたら悲しい。

寮の旧居室の不要漫画(本棚一杯分)が全部下宿に収容された。 今一時的に(?)下宿の漫画が倍程度に膨れ上がった。 でもって今日から小泉氏が来る筈だから片付けせんとなあ、という作業をしていた時に SHR と MHA が来る。 適当に漫画読んでもらって、俺は片付けを進める。 そうこうする内に小泉氏到着、俺は片付け。 まさひろから入電、「メシ」→「カレー屋」。 それから例会。

先に帰って寝た。


2004年5月2日(日)

部屋の片付け一応終了。 ダンボールにつめているとはいえ、急に本棚一杯分の物が増えてもそれに対応するキャパシティがあるって結構凄いと思うんだけど。

酒代12000円超/月。 まともな人間の消費量じゃない気がしてきた。 この分が全部腹についたと考えれば非常に納得のいくところ、というかそう思いたい。 そろそろ抑制するか。 誰かと飲む酒は必ずしも無駄じゃないから削る気はないけれど、それより圧倒的に多い一人酒はやめよう。 理想は、例会で誰かをお持ち帰りして、飲むのに付き合わせることだろうか。

↑なお、この文章は、酔っ払った状態で書かれています。

こーへー、もりりん、樹山氏が合流。 ダラダラ漫画を読む。

俺が目指している絵はこの辺っぽい、と、やまむらはじめの漫画を読んでいたもりりんに言われた。 確かにその通りな気がする。 そしてこれが、俺がやまむらはじめを「(特に話が好きとかいうわけじゃないけど)何となく好き」な理由の大きな部分なんだろうな。


2004年5月3日(月)

『バガボンド』(1〜18)。 ザッと流し読み。 絵が上手い、特にカラー絵が大変豪華。 間の取り方なんかも上手いんだろうけど、その辺キチンと精読できてない。

パスタ茹でてみんなで食う。 14:40、宮崎から入電、「白土氏が来てる、15:00百万遍集合」ということで合流。 私と小泉氏は一旦風呂屋に行ったあとでマクドで再合流。 麻雀→下宿→マクド例会→下宿。

キチンと片っ端から用事を済ませていたら気持ち良く遊べたのにね。 懸案事項の一つである名簿原稿を進める。

Comic Studio2.0悪くない。 インターフェイス回りに多少の不満はあるが、この点は保留。 もちっとキチンと勉強しないと「本当に実装されてないのか」分からないから。 トーンワークがかなり楽になるのが素敵。 今んところ一番難しいのは定規の使い方かな。 私の場合、ペン線はもともと雑で良しとするところがあるのであまり問題ではない。 てゆーか今は、上手くなることより慣れることが第一。


2004年5月4日(火)

小泉氏と映画。 雨だったというのもあって正直出掛けるのは億劫だったのだが、まあ映画を見るというのはモノカキとして有益な筈なので良しとしよう。 「長月氏とカラオケ」案の方が楽しそうだが楽しいだけだし、ということで今回は敬遠。

『スクール・オブ・ロック』。 分かり易くて大変面白かった。 キャラクターに何気なく言わせる一言が、ある事象の裏事情を暗示し、固定化する作用を持つということ。

時間がちょうど良かったので、はしごして『CASSHERN』を見た。 ……最低だった。 画面は綺麗なんですよ。 色使いとかも結構気を使ってるみたいだし。 あと、世界観の描写みたいな部分のハッタリは上手いと思った。

致命的なのは、物語が(戦闘ではなく)会話によって進められていく、そのこと自体はまあアリと言えばアリなんだけど、脚本が悪くて人物同士の会話が会話になってないということ。 お前ら相手の言うこと聞けよ。

てゆーか、語りで話を進めるんじゃなくてアクション物にして欲しかった。

たったひとつの命を捨てて生まれ変わった不死身の体。 鉄の悪魔をたたいて砕くキャシャーンがやらねば誰がやる。

↑ご存知、タツノコアニメ版のオープニングの語りなんだけれど、『CASSHERN』でも予告編でこの語りは使われている。 しかし、キャシャーンこと鉄也は戦争で兵士として死んだので、自分から命を捨てたわけではない。 ワンシーンだけロボット軍団と立ち回ったけれど、メインはロボット相手ではなく敵の新造人間。 シナリオ的にはキャシャーンはあまり何もしてません。

敵も同じ立場で不死身の筈なのに死んでるし。 この辺「どのように不死身なのか」という説明・描写が不十分だと思う。 また、最前列に近いところに座った所為というのもあるだろうけれど、戦闘シーンが分かり難い。 スピード感を優先したとしても、何やってるかは分かるようにして欲しいなあ。


2004年5月5日(水)

小泉氏に『クレヨンしんちゃん劇場版 モーレツ!オトナ帝国の逆襲』を見せる。 俺は何度も見てるけど思う、本当よく出来てるわコレ。

『鉄腕ガール』終了。 なんつーか、読み易いなあ。 台詞以外で、要は絵で語っている部分が大きいからかな。

『のだめカンタービレ』(1〜8)。 全体としてはそれほど来ないんだけど、人物とかの細かい描写がたまにツボにはまる。

小泉氏が帰って行った。 ひらしょーがやって来た。


2004年5月6日(木)

振り返ってみると連休中に研究が進んでおらず、萎え。

ひらやまをまじえてダラダラ漫画読み。


2004年5月7日(金)

ダラダラ研究。 『おおきく振りかぶって(1)』(ひぐちアサ)を読もうと寮に行ったがなかった。 悔しい。


2004年5月8日(土)

『なんで屋』という答えを売っているという露店。 「答え」と一言で言うと「唯一の正解」というニュアンスが強くなる。 「答え」というのはそもそも個人個人の価値観によって異なってくるものだと私は思っている。 「じゃあ、この店は、あなたの価値観を提供する店なのですね?」 と訊いたら、「いや、価値観と考え方は違う、価値観の先にある正しい考え方を売る」とのことらしい。 「私は価値観と考え方を完全に同一視していた、彼らはそれを超越した視点を持っているのかもしれない」ということで理解できない点について議論してみたけれど、どうしても「彼らの言う価値観と考え方の違い」が理解できなかった。

「イチャモンを付けるつもりはないと言ったけど、アンタのやってることは正しくイチャモンだ」と言われて大変嫌な気分になる。 俺は彼(ら)の考えに対する自分の考えの差異を表明し、その差が何に起因しているのかを究明しようとしているだけなのに。 「端から心に壁を作っているでしょう、他人の意見を受け容れなさいよ」とも言われた。

ああいう露店では議論に負けることは許されない。 チェーン店だと特に(彼らは自らをチェーン店だと言った)、上司の看板に泥を塗る真似は許されない。 そういう意味で彼らとは対等な議論になり得ない。 「他人の意見を受け容れなさいよ」というのは、彼ら自身には絶対に適用されない概念だろう。

そもそも彼らが言った2つの目的、「考える場を提供」と「正しい考え方を提供」というのは相容れないと思うのだが。 「考える場を提供」が「正しい考え方を提供」するための前段階として在るのならば両者は並立しうるが、この場合前者は目的ではない。

あと、「政治家が何やってるか分からない、だから社会が行き詰まりを見せる、民衆に分かるようにすればもっと良くなる」と短絡的に考えてるのが好かん。 政治家というのは一種の専門家・職能で、社会の幸福の総量を増やし偏らずに分配するという使命を持つ。 我々専門外の人間には理解し難い考え方とかもあるだろう。 そこで例えば私よりも次元の高い考え方をしている人に、「私にはよく分からない、私にも分かるような施策をせよ」と言うべきだろうか? 尤もこれは理想論であり、一部の/多くの政治家はここまでの信用には値しないと私は思っている。 しかし、「我々にレベルを合わせさえすれば良くなる筈」というのは、現時点の私から見ればレベルの低い視点だ。

金? 一応払いましたよ。 答えは別の客が買ったものなので俺が払う義理はないが、サービス料金として。 てゆーか、「本当にイチャモンを付けに来ただけだ」と思われるのがシャクだったというのも大きかったりする。 「私は今まで持ってなかった視点を求めて話をした(サービスを受けた)。しかし、彼らから得るものはなかった」。 どんなに不味くて一口しか食わなかったとしても、カレー食ったら料金は払うもんです。

まあ、(看板背負ってやってるということを除けば)やってることは嫌いじゃない。 言ってることが好かんだけで。

漫研新歓コンパ。 若い子と沢山話した、良かった。


2004年5月9日(日)

カラオケ→下宿。 うに、ひらしょーが寝たので俺も寝る。

新歓コンパん時に、「若い子には年寄りと沢山話をして欲しいから、お前アッチ行け」みたいなことを言ってしまった。 コレは筋が違うよなあ、俺の希望を強制するのは良くない。 若い子が固まってるところに(無理矢理)入り込んで自分が話する、他の年寄りと話して欲しければ年寄りを巻き込んで掻き回すくらいの方針が妥当っぽい。 何だかんだいって私は年寄りという権力なのだから。


2004年5月10日(月)

ケーブルのからまりやすさを長さをパラメータとして表すと、一体何次になるだろうか。2倍長くなると2倍からまるなら一次。からまったのをほぐすのにかかる労力も式で表してほしい。 (ひらしょー2004年5月10日(月)より)

ケーブルのからまり易さを「一本のケーブルに含まれる結び目の個数」とするならば、 「ケーブルのからまり易さに対するケーブル長の次元」は1乗の次元になると思う。 1本のケーブルにできる結び目の個数はケーブル長に比例するだろう。 ケーブルのからまり易さを「ケーブルの単位長さに含まれる結び目の個数」とするならば、それは0乗の次元だと思う。

ただし、それを解(ほど)く労力は2乗の次元だと思う(もちろんアルゴリズム次第で変化しうると思うけど)。 私は任意のケーブルの端から検索して、出逢った結び目からそのケーブルを解放するという方法を採る。 このアルゴリズムにおいて「結び目の位置が固定されている」という条件を仮定すると、その結び目を解くためにはそこから端までの長さに比例する労力がかかる。 解きが進行する程結び目からケーブル端までの距離が長くなるため、一本のケーブルをその集合から解放するためにかかる労力の期待値としてはケーブル長の2乗のオーダーになるだろう、というわけだ。

さて、その作業は結び目の個数だけ繰り返されるので、労力は単純にケーブル長だけの関数ではなく、結び目の数に比例する物になるだろう。 無限に細くて柔らかいケーブルならば、単位長さにおいて無限回絡まることが可能だ。 しかし例えば5mm径のケーブルが5mm 以内の間隔で絡まることは不可能だろう。 これを式で定量化するならばケーブルの直径とケーブルの剛性を組込むべきだろうがどういう式にしたら良いかは面倒、というかよく分からん。

固く結ばれた糸を解くのは大変な労力を要する、この労力を算定すべきか? 「絡まる」というニュアンスではこの辺の「固く結ばれている状態」は無視しても良い気がする。 ここでいうケーブルは LAN ケーブルのような「強く結ばれるといった乱暴な扱いが好まれない」ケーブルだろうから。 ここで一言言っておくならば、固く結ばれる場合はさらに摩擦係数も関与してくるということ。 全ての結び目は摩擦力によって固定されている、即ち結び目を解くには摩擦力に打ち勝つ力を与える必要がある。 いや、「摩擦力に打ち勝つ力」そのものが重要なのではなく、それを解くには「高い精度で制御された操作」が必要だということ。 そして、人間の労力というのは往々にして「消費される仕事」ではなく「制御するのに要する労力」の方が重要であり、制御するのに要する労力というのは必要とされる精度に大きく依存するものだということ。

まとめ。 私の方法で LANケーブルを解く場合を考える。 30cm に1個の結び目があると仮定すると 3m のケーブルには9個の結び目があり、それを両端から解いていくとすると、30, 60,90, 120, 150, 120, 90, 60, 30 cm分の労力がかかる。 この総和は 7.5 m分の労力となる。 同様の方法で 30m のケーブルを解くには[30+60+…+1500+…+30 = 75000cm = 750m] 分の労力が必要ということになる。 そして、それはケーブルの本数に概ね比例する。

漫研の若いのがルーミス先生の『やさしい人物画』などの本を一度も見てないことを鑑みて例会に持って行こうと手に取りついでにパラパラめくってみる。 前に読んだのはもう何年も前だが、あの時とは言葉の一つ一つの膨らみが大きく異なってきている。 若いのに貸すのは後だ、とりあえずも一度読もう。

何ヶ月ぶりだか分かんないけど、とにかくバリバリ仕事した。 今まで「そこに在るだけ」だった研究データがガリガリまとまり始めた。 明日明後日くらいで論文の論旨・論理が決定できるくらいまで持って行こう。

何でも描けるような、無闇な万能感。 遠近法を用いて描くための視点が、かなり手に入りつつある。 絵を描きてえ。 そしてそれを使って話を描きてえ。


2004年5月11日(火)

メールを失ってしまいました。 私にメールを出してレスポンスがない人はすんませんがも一度下さい。 すんません。

fetchmail + procmail でメールを取得している。 すなわち、fetchmail でメールサーバーから取得したメールを procmail でローカルファイルシステムに保存している。 そこで procmail が起動できなければメールは失われてしまうらしい (MDA(Mail Delivery Agent) が起動できなければメールは flush しないという設定があれば良いのだが……)。 そして procmail は ~/.procmailrc のパーミッションが他人に開いていたら起動しない。 もちろん普段は ~/.procmailrc のパーミッションは 600 にしているのだが、 subversion で管理しているのでアップデートしたときには subversion によってパーミッションが更新されてしまうのだ。 すなわち、問題は以下3点。

  1. fetchmail が MDA に渡すのが失敗しても flush してしまう
  2. procmail が ~/.procmailrc のパーミッションが開いていたら起動しない
  3. subversion でパーミッションの管理ができていない

この内2番は正常な動作っぽいのでこのままで良いだろう。 1と3についてもうちょい調べてみよう。 二度とこのような悲劇を繰り返さぬために。

3は、2003年8月の時点でそのような機能を持っていないらしい。 CVS にはあるらしいし開発元がどのレイヤでアクセス制御を行うべきか検討してるらしいのでそのうちできるようになるんだろう。 1はググル兄さんに聞いても要領を得ない。 できないのか、やってる人がいないのか。 しかたないので ~/.fetchmail, ~/.procmail の subversion 管理をやめることにする。


2004年5月12日(水)

『おおきく振りかぶって(1)』(ひぐちアサ)。 大変面白い、そして大変良い。 まず、作者の視点(物の捉え方)の数が多いというのが良い。 運動ということ、投球ということ、生理学的にスポーツを捉えるということ、そして何より「野球を知っている」ということ。 絵が下手でも、多少泥臭くても、表現がしっかりしてる、漫画力がある。 前半はタチキリの使い方に違和感があるけれど、後半ちょっと変わってきて見易くなってきている。 1冊の間に上手くなってるよ。

いや、私は中高と6年間野球やってたけど、上手くなるための、強くなるための練習をしてなかったなあ、としみじみ思う。 量に追われながら惰性で練習、頭を使わずに。 これじゃ上手くなる筈がない。 指導者の所為にするのは美しくないことだけれど、もっと考える指針を沢山与えて欲しかったと思う。

可愛い女の子の顔ってどう描けば良いか分かんなくなった。 これは……これは、目が鍛えられているってことですね! むー、頑張るぞ! せやけど今こーゆー状態で、盲滅法やってもしゃあないし。 コミックスタジオの使い方の勉強でもしてよう。


2004年5月13日(木) 「ビッグになりてえ」

髪とか服とかをどう描くかについての修練が圧倒的に足りてない。 何か参考にならんかな、ということで手元にあった垣野内成美をパラパラめくる。

俺は物を「どう見えるか」ではなく、形で捉える癖がある。 多分大抵の人がそうなんだろうと思うけど。 だから形を描き出そうとして描線をキッチリ繋げようとしてしまう。 だけど概形が分かったら必ずしも線をキッチリ描く必要はない。 キッチリ描きすぎると却ってもったりした絵になってしまうことが多い。 「顔の輪郭線を入り抜きをしっかり使って途中途切れるのもアリというつもりで描く」というのは習得しつつあったが、これを他の部分についても拡張するべきだということ。 あと、髪の毛は全体的に細い線を使って、服は中くらいの線で引くとバランスが良さそうだ。

「絵を構成する線の何処を抜くか」というのはライティングを意識してやるべきなんだろう。 だがライティングというのはキチンと考えたことがないのでよく分からない。 「映画のような、ウソでも良いから綺麗に見えるライティング」。

山本貴嗣本によると映画では主光源、逆光源、補助光源を使うらしい。 だけど漫画にそれを適用するのは少しやりすぎな気がする。 少なくとも線の表情を決めるのには主光源だけを考えたら十分っぽい。

服と筋肉は直線っぽい線で構成した方が綺麗っぽい。

教授と私の進路についてディスカッション。 「最近真面目に研究していると『研究者としてやっていけそう』という自信みたいなのが出来てきました」と言うと、「頼もしいな、まあお前は優秀だからやっていけるだろう」とのこと。 ちょっとビックリした。 普段イジられキャラとして扱われているが、どうやらかなり買われているらしい。 研究者としてやっていくとして幾つかの選択肢があるが、それを決めるキーワードの一つは「教育」ということらしい。 「人に教えるということが好きであるか?向いてるか?」 「まあ多分好きだろう、向いてるだろう、と思います」 「お前はそうだと思うよ」 みたいな話。 どっかの大学のポスト空きを待って研究生やるんだろうな。 「研究生やるにしてもずっと京大ってのは良くない」と言われたけれど。

まあ要は、万一俺に漫画家でビッグになれる才能があったとしても、これから磨くために数年苦労するよりも既に能力としてある程度磨かれている学者になった方がラクチンなんだろうな、ということ。

えすと氏が例会で批評を貰って(喰らって?)少し凹んでたらしい。 「アンタは叩き過ぎる嫌いがあるから呼ばんかった」。 ずーん。 ……まあ痛がる気持ちを他人である私が否定することはできないのだけど。

俺は、そして多分みんなは、何も描かれた漫画について「ココがミスってるよね」と責めてるんじゃあないということ。 「次に描く漫画をより良くする為に、正確には悪い点を減らすために知って欲しい事」を伝えたいと願っているということ。 「明日の為のその1」を、「反省しろと責められている」と、そういう受け取り方を彼は多分にしてるんじゃないかなあ。 もう描かれてしまった物はしゃあないやん。 知らないことはできなくて当たり前やん。 考えたことないことは知らなくても当然やん。 問題は全て、次の漫画をどう描くか、これに尽きると思うのだけれど。

甲が乙に関する批評をするというのは、実は甲と乙だけではなく周囲にいる人間にとって有益なことが多い。 例えば、「自然に手を首元に当ててみると肘は真下よりかなり前方を向く」なんてのは今まで意識したこともなかったけど傍で聞いてて成程、と膝を打った。 たまたま今まで描く機会が少なかったからツッコまれなかったけど、描いていたら違和感バリバリな絵がそこに在っただろう。 ということで、私の希望としては、「お前は口調がキツいから喋るな」と制限してくれたら良いのでそういう漫画話を聞かせて欲しいな、ということ。 少なくともあなたが痛がるのと同じくらいには、私は漫画というものを知りたいと強く願っています。

まあ、描かれた物を見た後でないと何教えて良いか分かんないしね。 例えば俺もウツ氏に教わるべきことは沢山あると思う。 だけど、ウツ氏にしても私に何を教えて良いか分からんでしょう? 「教える」と一言で言うのは簡単だけど、相手が小学生か高校生か分からんかったら何を、あるいは何から教えて良いものか分かるわけがない。 小学生に微分を、高校生に九九を教えることはどちらも無意味だ。 相手のレベルを知らないと適切に教えることはできないのですよ。 だから俺は常に相手の作品を見た後で、「描いた後」ではなくて「次の作品を描く前」として、他人の批評をしているのです。 俺はウツ氏の立場の在り方にかなり賛成するですよ。

話は替わるが、俺だったら酒代奢るより画材代の一部を奢る方が楽しいなあ。 多分。 そこには勿論、「奢ったんだから漫画描けやコラ」という圧力が加わることを期待しているという面もあるのだが。


2004年5月14日(金)

トニたけスゲー。 『岸和田博士の科学的愛情(8)』の祭の解釈は、なかなか斬新かつ本質を突いてるっぽい。 この人やっぱり頭良いなあ。 「頭良いし絵上手いな」とは思うのだが、その性質の両方ともが「売れる漫画向き」ではないんだよな。

そうか、俺は、博士になるんだな。 頑張ろう。

解剖学的に正しい絵というのは寧ろギャグに適している、というのは半ば古典化しているのだが、まあ正道であるだろう。 例えばトニたけ、北道正之。 能絛純一は本人がどう思ってるかは分からんがまあギャグ漫画に入るだろう。 池上遼一はギャグではないが、野中英次を見ればそれがギャグに適していることは分かるだろう。 まあこういうのはある意味「時代の揺れ戻し」の一種なんだろうとは思うが、最終的に収束した世界では芸の形の一つとして定着していると思う。


2004年5月15日(土)

よく晴れたので、バイクでぷらっと回ることにする。 昨日作ったパスタソースの残りで朝飯食って、茶を沸かして水筒に入れて、デジカメの充電が済んだら出発だ、と思ったら充電にかなり時間がかかる。 待ちついでに自転車の整備(空気入れ、油差し、ハンドルの角度調整。

8:00出発。 花園橋から 367号線→大原。 途中案内板で寂光院とか三千院という文字を見かけたので、ついでに寺社巡りすることに急遽決定。 ゴミ回収バイトとかで目の前は結構通ってたんだけど入るのは初めてだ。

寂光院。 平成12年の放火で激しく燃え尽きてた。 今まさに再建中。 てゆーか放火犯がマジ憎くなった。 「不思議な話だよなー、今日たまたま出掛けなくてたまたま来なかったら放火があったということも知らなかったのになー」とか思いつつ、 「放火した人は今どういう感情を持っているのだろう、罪の気持ちに呵まれるのだろうか?『俺も昔はワルだった』とかしゃあしゃあとヌかしたり、あるいは全く忘れてたりする、そんな程度だったりするんだろうか」とか考えてみたり。

来迎院。 本堂から見た前庭が大変良かった。 特に岩や木があるとかではなくて、すっきり整然と道が整っているのが。 そして木々渡る風が近く流れる川の音を乗せて本堂に吹き来んで来るのが。 うん、良い季節に来たね。

三千院。 デカい。 商売っ気が全面に出すぎてる気がするが、分かり易くて良いな。 某の言葉を借りれば「接待されてる」感か? 客殿から入って建物の中をプラプラ歩く。 見所台からの庭の眺めは良かった。

客殿から見た庭なんだが、竜安寺の石庭のように遠近法を上手に使って広く見せてるんだと思う。 当時は現在の我々のような「土地が高価いから少ない土地で」という意識はなかっただろう。 純粋に美的感覚として、「実際には広くないけれど、広がりを感じさせる」という庭が望まれたのだと思う。 本当に広くしてしまったら「ギュッと詰まった感」が失われるから。 横山光輝の三国志で読んだ楊修のエピソード、『曹操は門に活と書き残した』なんかそういう感じじゃなかろうか。 盆栽なんかもそういう世界なんじゃなかろうか? ……とかとか。

優れた美術ってのは何処の世界でも宗教と繋がってることが多い。 やっぱり金が出せるからなんだろうな。

勝林院。 古くてデケェ。 長押の彫刻が繊細でスゴかった。

477号線で鞍馬方面へ、そして貴船神社。 樹齢千年と伝えられる桂の樹は圧巻だったが、神社自体はあまりパッとしない。 まあ貴船(神社)の本当の楽しみ方は、もっと暑い季節に川の上に渡した座敷で涼を取りながら昼餉することだろう。

以前のバイト先への通勤途中にあった宝が池南の八幡さん。 寄っただけ。

結論。 俺みたいなイラチな人間には寺社巡りという趣味は合わん。 でも銀閣、金閣くらいは行っておきたいなあ。

477号線沿いの山間の集落が次描く漫画の舞台にピッタリだった。 一本道だったのでバイク停めそこなって、写真撮れなかったのですが。 とりあえず脳内で何度か描いてみよう。


2004年5月16日(日)

『傭兵ピエール(1)』(佐藤賢一・野口賢)。 「台詞をフランス語で表記する必要があるのか?」とか、「状況説明のネームが多い」とか、なんか「小説の文章を、場面展開そのままに絵をつけてコンテにしました」みたいな感じ。 原作読んだことないけど、コレ、小説まんまの文章なんちゃうかなあ。 そしてその文章に対して単調にそれを直接示す絵しか描かれてないので、絵付きの小説を読ませられてるようで不快。

小説として映える演出と漫画として映える演出とは違うのだから、漫画として面白いように書き換えなければならないのだが、この辺できてないんちゃうかなあ。 どのような事情があるのかは知らんが、少なくとも野口賢が時間の操り方が下手だということは確実っぽい。

あ、そうか、三人称と一人称を混在させてるんだ。 ネームは三人称で「ピエールは……」となっているが、漫画の文法としてはピエールを主人公にしてピエールからの視点で物語っている、則ち一人称で語られている。 この辺の不整合がちぐはぐな印象を与えるんだろう。

『無敵番長バクライガ(1)』(清水栄一・下口智裕)。 持主は「つまんないですよ」と言ってたが、バカ漫画としてはそれほど悪くないと思うんだけど。 コマ割りは結構メリハリ効いてるし、スピード感もある。 ただネタの全てが「どっかで見たことある」という借り物感で一杯なので、「こいつらしか出来ないようなバカ」があったら大変良くなると思う。 ……と思ってたら急にシナリオがついた。 シナリオを語る部分の評価については保留。

漫画のネタになりそうな夢を見たので起きてメモ取ろうとしたら体動かねえ。 激しく金縛り。 何度も起きるのだが、その度それは夢だった、体は指一本ピクリとも動いてないという状況。 いつも夢から覚めるように瞼の上を開くようにしても、何度やっても本当は覚めてない。 寝返りを打って体をくの字に曲げるが、それもやはり夢。 エエカゲン諦めて寝た。 起きたら忘れてた。

『おおきく振りかぶって(1)』(ひぐちアサ)。 ダメだ、個人的に辛くなってきた。

野球で俺がダメだった理由の一つは、フライの空間把握能力の精度が低かったこと。 初動が遅いわけではない、ずっと落下地点まで追わなければ間に合わないようなボールでは最初から判断して走り初める程度の精度はある。 だがボールが最高到達点まで達した辺りでの落下地点を予測する精度が、半径5m とかという精度で大変悪かった。 だが最後の一歩は体を捨てれば何とかなる。 最低限それでカバーできる。 だが、「体を捨てるような捕球体勢はするべきではない」というのを、「してはいけない」と勘違いさせられていた。 「捕球に失敗してはいけない」よりも「スライディングで捕球してはいけない」を優位に置くようになった。 本当、馬鹿だなあ。

野球で俺がダメだった理由の一つは、送球を常に全力で行っていたこと。 おかげで暴投率の高いこと、高いこと。 送球の速度の必要性、暴投の危険性というリスク管理を考えれば妥当解はもっと低いところにあったのに。 本当、馬鹿だなあ。

数日かけて電車男読了。 基本的に、こーゆーゲロ甘は大好きだ。 んでもって、2ch の良いところは、多くの人の価値観が一連の流れで提示されているところだろう、と思う。 まあ S/N 比が大変悪いのでまとめサイト経由でしか見る気はしないのだが。

今思うと俺は、例のなんで屋に対して「私は個人個人の価値観だからという理由で他者の価値観への理解を放棄してるのではなく、他者の価値観を理解し摺り合わせることで自分が個人として最も選択すべき価値観を模索しているんだ」と表明するべきだったんだろうな。 しかしやっぱり、それを他人に押し付けることは筋違いだと思う。 彼等はそれすらも「放棄だ」と非難するのだろうか。


2004年5月17日(月)

論文に向けて、研究データの最終まとめをしようと0:00頃には研究室。 そこで先輩かつ後輩な人に知的バカの偉い人のサイトを幾つか教えてもらって2時間くらい潰れる。

話がまとまってきた。 かなり目新しいっぽい。 次のディスカッションが楽しみだ。

  • 「名簿の原稿、線太すぎ。どーゆーつもりやったん?」
  • 「いや、太い線が好きだというだけ」
  • 「ふーん、でも線の太さが活かせてないな」
  • 言われてみれば、確かにやりすぎ感が漂ってる。 ……あれ、裏を返せば、「これより細い線の方が上手」ってことか? ひょっとして俺、褒められてた?

    最適解を見つけるのには、一度上の極限と下の極限に振ってからその間を模索するのが良いと思う。 ならば次は下の極限なんだろうけど、細い線で線の表情出すってかなり難しくないですか? まあ細め細めを意識してみるという方向で。


    2004年5月18日(火)

    「自分の絵ってのは脳内でかなり贔屓目に見てるだろう」と思っている。 だけど、その補正ってのは邪魔以外の何者でもない気がしてきた。 下手でも自分の絵に自信を持っている方がよほど上手に絵を描くだろう。 大事なのは、欠点を上手に探り出す目であって、全体均一に減点することには全く意味がない。 ということで私は「自分の描く女の子は可愛い」と、差し引かずにちゃんと思うことにする。 「でなければ彼女らに対して失礼だ」……とまで言うのは言い過ぎな気がするけれど。

    第一原理バンド計算をキチンと理解したい。 そいでもって練習も兼ねて C で書いてみたい。

    友人も晩飯食ってない、ということだったので『とさか屋』(百万遍西にあるいつも客の入ってない微妙な鷄丼屋)に行ってみる。 ……鶏肉をもっと細かく切るとか、少しの手間で同じ材料費でももっともっとマシになると思うんだけどなあ。 まあ多分二度と行かないんだろうけど。


    2004年5月19日(水)

    移動に伴って人間の視界は激しく移り変わるが、それだけの情報量を受け取ってもその情報量の多さに混乱する人はいない。 これは人間が目で見るそのままの世界で生きているのではなく、それを三次元に展開した、ある意味脳内で展開された世界で生きているからだと思う。 すなわち、移動に伴っては脳内の三次元空間内での自分の座標を変えている、視界の変化はそれを補足するものだと思う。

    『算私語録』にこんな話があった。 「急いでいて動く歩道の上を走ったら、景色が凄い勢いで後ろに流れて行き、びっくりした」。 安野光雅はこれを「人間は普通そのような速度で移動しないからだ」と結論付けていたが、そうではないと私は思う。 自動車や自転車を考えれば分かるように、走るより速い速度で移動することはよくあることだから。 「自分の肉体を/乗物をこのように操作すればこれくらいの速度で移動する」=「自分の足で走るならばこれくらいの速度で座標が変わる」という経験があり、これから導かれる「脳内での座標変化量」、これと「実際の座標変化量」の差が違和感を生んだのだと私は考える。

    方向音痴という性質についてよく言われる事に、「道々の場面場面を目印にする」というのがある。 方向音痴でない人は、主に三次元空間内に自分を置いて(この場合は二次元で良さそうだが)、その空間内での自分の座標を駒のように移していってるんだと思う。

    とはいえ最初に書いたように「おそらく全ての人間は局所的には脳内の三次元空間内で生きている」だろうから、局所的な小さなマップと広範囲のマップとの切り替えのスムーズさが人の「方向音痴さ」という特性を決めているんだろう。

    たまに自分自身を俯瞰するような視点で見る夢は、この仕組みによると思われる。


    2004年5月20日(木)

    コミックスタジオの何がいかんて、画面に表示されてるものとプリントアウトされるものが違う場合があるってことだ。 白く塗った部分が透過としてプリントアウトされる場合がある。

    裏名簿原稿提出。 「なんかちゃうで、もっと自分を晒そうよ。コレただの1ページ漫画やん」。 まあせやねんけどな。 でも俺、漫画を描く以外のことは比較的どうでも良いのでこの辺しゃあない。

    漫画描くときのカメラの使い方が分かってきた。 やっぱ描くだけ上手くなるなあ。 面白くなってきた。 上達に効くのはページ数より本数ちゃうやろか。

    言い訳。 どう書いても紙面一枚じゃ語り尽くせぬのなら、語るべき重要な「性質」を選り分ける必要があるのなら……ならば最も強いそれを力を込めて描いても変わらんのじゃなかろうか?


    2004年5月21日(金)

    ダルい。 我ながら、妙に不機嫌。 やっぱり睡眠重要。


    2004年5月22日(土)

    combo ドライブ(DVD-ROM + CD-Rドライブ)故障。 機械的な部分ではなく電子的な部分が壊れたっぽい。 買ってから一年半経って機械的な部分にも随分ガタが来てたし、そろそろ DVD-RAM でも買いますか。

    「『耳をすませば』で雫が必死こいて書き上げた物語がヤオイ同人誌だったら……」と全く台無しなことを思い付いて今日も何か絶好調な感じ。

    アマゾンから『CLANNAD』到着〜! DVD-ROMドライブ死亡のためインストールできません! ……まあ、中途半端に始めてから壊れるより余程マシだが。

    ひらしょー推薦漫画。 『スクライド(5)』。 あれー、こんなに突き抜けたバカだったっけー。 畳み掛けるように休む暇を微塵も与えずバカで突っ切るか、凄いな。 愉快、愉快。

    『秘密』第一話。 こういう、対照の取り入れ方があるんだな。 このために彼の性格はこのように描かれているのか。 彼の性格は「作者によって物語の為に作られた」感が強いが、物語というのは人工的なものなので、こうあるべきなのだ。 いやしかし、スゴいところに伏線持ってくるなー。

    DVD-RAM ドライブを買いにルネに行くが、内蔵型が1個しかなくてそれも「CD-R が書けない奴」だったので帰る。 そんな(使えねー)の、あるんだ。 しゃあないので、寺町行く。

    「ここって五条だよな、じゃあついでに清水寺行ってみるか、デジカメとか持ってないけどまあいいや」。 ……大発見。 京都に住み始めてから8年間、清水寺と思ってた寺は大谷本廟という別の寺らしい。 で、その横手の大谷墓地を自転車キコキコ上がってったら清水寺。 修学旅行生だらけ、女子中学生いっぱい、女子高生いっぱい。 デジカメ持ってきゃ良かった。

    清水の舞台そのものは「ふーん」て感じだったけど、それを通り過ぎたところから、振り返った構図が大変美しかった。 絵になるなあ。

    PC の上蓋開けたら凄い熱。 「DVD-ROM ドライブの電子的な不調って、ひょっとしたら熱暴走だったんかな」ということで確認してみるとそのようだった。 じゃあ DVD-ROM ドライブは UNIX機の方に回すか。 Windows機はこれから上蓋開けて稼働することにする。

    買って来た DVD-RAM ドライブを繋いでライティングソフトをインストールすると Windows2000 がすこぶる不安定に。 DVD-RAM 回りは WindowsXP の方が便利な気がしたので(裏付けナシ)、WindowsXP を入れることにする。 インストール作業中に眠くて沈没。 そーいやここんところ5時間とかしか眠れてなかったしなあ。


    2004年5月23日(日)

    WindowsXP インストールの続き→Windows初期設定→アプリケーションのインストール→DVD-RAM ドライブの動作(初期不良)チェック→『CLANNAD』インストール→『CLANNAD』開始。

    あれー、気のせいかな、いたる絵がちゃんと可愛く見えるんですけどー。 ほっぺのラインがとってもキュート。 ……話の本筋にまだ全然入ってないんだけど、ゲロアマ光線にもうメロメロ。 智代タン……。

    要は仕掛だよな。 色んなレベルの伏線を仕掛けておいて、適当なタイミングで発火させる。 伏線というたら「話の収束に向かう部分に掛かって来る物」を想像するけど、話の途中で発動させるという手法はかなり良いなあ。

    『CLANNAD』一周目終了。 日々のやりとりが楽しいです。

    二段階の伏線とかってどうだろう? 「伏線」というのは要は「種となる事象→関連する事象」という関係のことだ。 「関連する事象」といっても「種となる事象を想起させる」という程度の弱いもので十分だが。 ここで、この「関連する事象」を新たな種として話を構成すると印象的なものになるんじゃなかろうか。 あるいは、1対1対応ではなく、い1対2とか2対1とかで対応させても面白いかもしれん。 こーゆーテクニカルな構成をした話を一遍作ってみたいもんだ。

    さて、二周目頑張っかー。


    2004年5月24日(月)

    パースを意識して絵を描くということは、視点の位置を意識するということ。 ということで、頭部を描くときにもそれを適用しうるということに初めて気付いた。 全然思うように描けないけれど。


    2004年5月25日(火)

    4:00起き、『CLANNAD』智代シナリオを踏破。 ……イイ。

    昼過ぎに学校。 でもなんかかなり MP 消耗してる感じ。

    プレゼン資料や発表用ポスターの紙面を立体的に扱う感覚とか、(研究室 WebSite用の)写真を撮る際のアングルの決定とか、漫画を描くことで培ったスキルが、別の場面で活かされれることが案外多い。

    「手料理食って片付けもしてもらう」って大変萌えるシチュエーションなのですが、その時我に返って理想化された体の良い奴隷を欲しがってるような気がして嫌になることがありませんか? ありませんか、そうですか。


    2004年5月26日(水)

    有紀寧シナリオ踏破。

    『KUROZUKA(1〜4)』(夢枕獏・野口賢)。 野口賢は上下方向のパースが使えないなあ。 これが使えるようになるともっと良くなると思うのだけれど。 たまに使おうとしている絵があるのだが厳密でないとかで、読んでるとその歪みが気になってしまう。 センスの人はこーゆーのを感覚でやってしまうからなあ。 それはある意味強みではあるのだが、理論から鍛えた方が間違いのない絵が描ける。 尚、「間違いのない」というのは、「歪みのない絵」ではなく、「正しく歪ませた絵」とかそういう意味。

    何が描きたいのか分からん。 どーゆー構成でそれぞれのシーンで何を描きたくて、それが全体の中でどういう役割をしているかがサッパリ分からん。

    首だけになった九郎が肺がないために喋れない描写が一幕であったのに、後で首だけになった敵が喋ってる描写がある。 ちぐはぐ。

    背景描き過ぎ。 多くのコマで人物が溶けて埋もれてしまっている。 パンフォーカスで手前から奥まで全部同様に細かく描いてしまっている。 もっと、見て欲しい部分に読者の目を誘導すべきだろう。


    2004年5月27日(木)

    藤林姉妹シナリオ踏破。 分かり易いなあ。 でもこーゆーの大好きだからしゃあない。

    4:00起き〜『CLANNAD』〜12:00〜研究室〜20:00〜例会〜21:00〜『CLANNAD』〜26:00就寝。

    ことみシナリオ踏破。 まあこんなもんだろう。


    2004年5月28日(金) 「みんなのやる気をオラに分けてくれ!」

    ゲームもそこそこにして、午前中は最近削れ気味だった睡眠時間の補充。

    新しい収納場所を発見。 部屋を直方体と見た時の、壁と天井の境の4辺。 ここにロープを渡してよろい結び&S字フックで物を釣り下げることができる。

    漫研の財政があまり芳しくないので最近は部費の従量制を取り入れざるを得なくなっている。 私はそれほど金に困ってないということもあって、多く描いた人にカンパしたいんだけど、どういう形態にすれば良いかが分からない。 総額5000円くらいまでは余分に出しても良いのだけれど。


    2004年5月29日(土)

    教授の退官記念パーティ。 待ち時間にキッテルの教科書読んでたら面白がられた。 俺やっぱ珍獣扱いなんやなあ。 まあアレだ、不思議系ってやつ? ……冗談はともかく、まあそれなりに面白がってくれてるとは思う。

    76kg(2kg減) に落とした体重は、酒、肉、ケーキ、ラーメンのコンボで81kgまで跳ね上がりました。


    2004年5月30日(日)

    風子シナリオ踏破。 何だ、この美しさは。

    勝平シナリオ踏破。

    AFTER STORY 直前で中断。 とりあえず明日のゼミ発表資料を完成させて来よう。

    よく晴れた日はデジカメ片手に学校まで歩いて行く。 頻度で言えば週1、2回の、ここ3ヶ月くらいの習慣。 短い距離だが知らない道を通るようになった。 お気に入りの道もできた。 自転車で通り過ぎるだけでは気付かなかった物に気付くようになった。 それらは多分ほんの一握りで、気付けていないものはきっともっと沢山ある。

    「こんなにも世界は美しい」。 夕暮れ時、ふと校舎から出た時に思い出す言葉。 影に染まる校舎が、何だか急に空間の広がりを感じさせる。 この世界が在るということを感じさせる。 こんなにも美しい世界の描像を、一つでも多く形にしたい、そう思う。


    2004年5月31日(月)

    ゼミ発表。 相変わらずダメダメだなあ。 ええかげんバックボーンを鍛えんと。

    「明日はサボります」と助手の先生に言って来た。 休むぞー。


    トップページ / bbs /