2004_04月日記

last-modified: 2011/12/14 02:44:57. JST

2004年4月1日(木)

起きた瞬間、ダルかったので、サボり決定。 も一度寝る。

家主出勤するも居座って寝る。

17:00起き。 ぼーっと本読んだり。 何するでもなくまったりと。

家主が退勤して帰って来たので駅で待合わせてメシ。

そのあともダラダラして適当に寝る。 WinSCP みたいなので日本語がキチンと扱えるようなのってないのかなあ。 今下宿PC からヲタデータのダウンロードしてるんだけど、ファイル名が化けて困る。


2004年4月2日(金)

今、家主PCに putty を入れさせてもらって久しぶりにメールチェック&日記。 まだ暫く東京に居る予定です。

ええ、今、家主の漫画読んでるわけですがね、山口美由紀イイですなあ。 もうメロメロです。

『朝からピカ☆ピカ』。 ダメだ、真朝、俺、お前、大好きだ。

違う、俺が本当に好きなのは、美由紀、お前だ。 そして、ダメなのは俺だ。 もうメロメロだ。

スリランカに行っていた友人の言うには、「向こうでは蚊取線香のことを ninja と呼ぶ」らしい。 うーん、ケムマキですな。

ひらしょーの属するプロジェクトがポシャったらしく、休んでも全く問題ないらしい、ということで一緒にダラダラする。 二郎田町本店は久々に、「メシを残してしまうかもしれん」という恐怖を感じた。 てゆーか、吉祥寺店のスープが段々俺の中で美化されて来ていることを発見。 一度修正に行った方が良いかも。 秋葉原をウロつくが彼の目当てのドラクエV はない。 上野までテクテク歩いてヨドバシの4階で発見。 そのあと某所でドラクエV が動くところを見たり、勧められるままに買った『シグルイ』(山口貴由)を読んだり。 『シグルイ』は大層面白い。 山口貴由は元々上手いけど、ちとパトスが勝ち過ぎるきらいがあったと思う。 ちゃんと漫画が上手くなっていて、かなりバランス良く楽しめる漫画になっているなあ、と。

家主の仕事が終わるまで喫茶店でダラダラ漫画話。 その後ひらしょー、家主で飯を食いに行く。 どちらからも、俺単体では引き出せなかったであろうプログラマ話が聞けて楽しかった。

一遍家主宅に戻り、そこからバイクで別の友人宅へ。


2004年4月3日(土)

ひたすら漫画読む。 ……けど、何読んだか忘れちった。

最近収集して持って行ったネタ動画。 『スキージャンプペア』『科学情報ウドン・スパゲッティ』は両方とも大ウケでした。 ということで、昼飯は「うどんかスパゲッティか蕎麦かラーメン」ということで蕎麦。

東京遠征中に読んだ本。 『ピーター・パンとウェンディ』 子供の残酷な感じとかが良かった。 しかし、石井桃子訳ではピーター・パンが2歳で死んだ子供だという描写は出てこなかった。

『藤子・F・不二雄のまんが技法』 Fの書いてることは良いのだけれど、編集部による(と思われる)ドラえもんの漫画の挿入とその説明が的外れで不愉快。 この本読むときは挿入されたドラえもんを読まない方が良いと思う。

コンビニ行くと、探していたけれど見つからなかったバキサーガが2冊あった。 両方買って一方を家主へのプレゼントとした。


2004年4月4日(日)

『未来世紀ブラジル』、『トゥルーマン・ショー』。 ドチラも大変面白かったデスヨー。 『トゥルーマン・ショー』はトリックを知った状態で、も一度見たいなあ。

ダラダラ漫画を読んで、昼過ぎに中華を食ってその足で帰る。

下宿に着いてメシ食って、漫研ビラの印刷。 ビラ程度だったら品質はそれほど要らんだろうし、リソグラフでやった方が良いと私は思うのだが、「ちょっとでも良い品質で」という気持ちも分からんでもないので強硬には推せない。


2004年4月5日(月)

水崎日記 3/20
目立たせたいものが目立ってないときに、絵の構成を変えずに小手先の技術で対処する方法。 私ゃ知ってるだけで使えないのではありますが。

  1. 輪郭の線を太くする
  2. 輪郭の外側を白く抜く
  3. 画面内の他のオブジェクトをボカす

1,2 については省略して、3について。 写真を撮る心得として「引き算で考えろ」というのがある(らしい)。 自分が撮りたい物体以外はフレーミングを工夫して写らないようにするとか、ピントを外してキチッと描かれないようにするとか。 手前から遠景まで全域でフォーカスがカッチリしてるのが(端的にはガードレールのディテールが書き込まれているのが)、相対的に人物への注目を散乱させているのではなかろうか。

ボカす以外にも人物以外の部分にトーンをベタっと貼ってしまうとか効果で処理する手もあるし、イラストでは使えないが集中線を使っても目立たせる効果は出せるだろう。

上手い人の前で絵を描くのにはプレッシャーがかかるし、それがしんどいという気持ちはよく分かる。 が、私も自分が上手くなるのに精一杯なんでそこまで気は回せないというのが正直なところ。

ひょっとしたら、物理をやってない人には「次元の違い」という言葉が「次元の高低」と同義に聞こえるかもしれんなあ。


2004年4月6日(火)

「周囲の環境がどうであっても、私は私である」という前提を置いたとする。

今私はA地点にいるが、同時刻にA地点ではなくB地点にいたとしてもそれはやっぱり私である。 なぜなら私であることは、座標の違いに依らないから。

今私がA地点にいる時にB地点にいるのが誰であっても、A地点にいるのはやっぱり私である。 なぜなら私であることは、周囲に誰がいるかに依らないから。

ここで、私と全く同じ構成をした物体を考える。 それこそ分子の配列、原子の振動からして全く同じとする。 ここではそれを「ワタシ」と呼ぼう。 (記憶まで完全にコピーされた生命だとしても良いが、そういう一方が偽物というニュアンスではなくて、両方本物という感じで考える。)

今、私がA地点にいる時にB地点にワタシがいても、A地点にいるのはやっぱり私である。 B地点にいるのが誰かというのは結局周囲の環境なのだから。

今、ワタシがB地点にいる時にA地点に私がいても、B地点にいるのはやっぱりワタシである。 A地点にいるのが誰かというのは結局周囲の環境なのだから。

私とワタシは等価な物体だけれども、当人達にとっては「自分」と「周囲の環境の一部」という全く別の物。 しかし、周囲から見ると私とワタシは区別がつかない。 その区別をつけるのは、過去において「私は私であった」「ワタシはワタシであった」という連続性だけだ。

「周囲の環境がどうであっても、私は私である」という前提は厳密さに欠ける。 これでは私とワタシを区別できない。 「過去から未来へと連続性を持って私であるものが私である」とした方が良さそうだ。

さて、それでは、私の意識というものは何なんだろう? 原子や分子が意識の本質を持っているわけではない。 私とワタシは原子・分子レベルで等価だし、それらは全て数年で別の分子と入れ替わる。

これに対する一つの解。 「外界から見て人の意識に見えるモノは任意の意識を持っているように見えるだけで錯覚に過ぎない。 それらは全て現象に過ぎない。」 しかし、この解は、「私自身の意識」も否定する。 私はここで思考しているのに!

意識についての私の考察は、10年以上ここでストップしていた。 しかし最近、「私自身の思考も錯覚にすぎない」というのが結構妥当な気がしてきた。


2004年4月7日(水)

回転系の機械はたまに動かしてやった方が良いのだが、かといって CD でストレージしていたデータを研究室のドライブで DVD-R への焼き直しするのはちと気がひける。

「片付ける」という作業は、私に結構なカタルシスを与えるらしい。

そうだよなあ、残念なことだが、俺は漫画を描かなくても生きていけるんだよなあ。


2004年4月8日(木)

下宿帰って来たらゴミ箱が倒れていた。 煮干しを入れているタッパーが転がっていて、何か引っ掻いたような跡が残っていた。 あの猫、なかなかやるなあ。

下宿の更新手続きで大家宅のチャイムを鳴らして待ってるところを mogとF氏が通った。 聞けばへくちん宅でドラクエ5やってるところを見物しに行くところらしい。 ということで更新手続きの後へくちん宅。 で漫画を幾つか借りた。

『王様の仕立屋』(大河原遁)。 最初はそこそこ読めたけど、2巻あたりから話の進め方が無茶になってきた。 キャラクターがシナリオに躍らされてる。 ……話に芯が通ってない感じ。

『ダブルフェイス』(細野不二彦)。 「どこからどうみても全く細野不二彦」とのことだが、全くその通り。 だけど、面白いわぁ。 『王様の仕立屋』と較べると、流石、老練という気がする。


2004年4月9日(金)

記憶というシステムはハードウェアなんだろうか、ソフトウェアなんだろうか?

今私と同じ分子構成をしている物体(ワタシ)を用意したならば、そのワタシは私と同じ記憶を持っていることが期待される。 この立場は記憶がハードウェアで実装されている、と考えている。

しかし、同じ人間でも環境によっては記憶を引出せないことがある。 例えば心因性の記憶喪失の場合、ハードウェアが全く同じでも記憶を引き出せない。 このことから記憶はハードウェアだけでなく、少なくとも一部はソフトウェア(精神)の影響を受けていることが導ける。

ここで、「記憶に対する精神の寄与を100%である」としても我々はそれを否定し得ないのではないだろうか? イマイチ私にはシナプスの結合だとかで、私の脳内にある、この多彩な記憶の様相を再現できるというのが釈然としない。 まあできてるんだからできるんだろうけれど。 「この世界に記憶の実体がなく、他所の世界にある」とかいうとオカルトだしなあ。

あ、「精神(個人の意識)はハードウェアかソフトウェアか」を先に考えるべきであったか。


2004年4月10日(土)

よく考えたら記憶障害がハードウェア的な要因で発生し得ることを考えると、「記憶に対する精神の寄与を100%である」という命題は簡単に否定できるな。

健康診断の後、ちと時間に余裕があったので京大博物館というのに行ってみた。 んー、一番面白かったのは文字情報なので、わざわざ行かんでネット遊びしていた方が楽しい気がする。 しかし、個人的な刺激としては面白かった。 アリの社会なんかの展示を見ていて、個体の意識と社会全体の意識について莫と考えてみた。

人間は、普通一人の人間が一つの意識を持つと見做すのが妥当だ。 しかし然るべき栄養を与えれば個々の細胞はそれのみで生きることができるわけで、そういう視点に立つならば個々の人間というのは群体であると言える。 また、人間の意識は個々の細胞に明確な指示を与えることができない。 メシを食ったら自動的に決まった手順で消化し、その手順を意識で制御することはない。 自分で治そうと思わなくても傷は塞がる。 個々の器官、ひいては細胞は自身に与えられた刺激に対し、適当な反応を返すようにできているだけだ。

植物でもそうだ。 桜の樹は個体としてどのように花を咲かすか決定しているのではなく、然るべき部分に枝を作り、然るべき部分に蕾を作り、そして蕾は然るべき環境・刺激によって花を咲かせているだけだ。

そして翻って考えると、これは個人と社会の構図に酷似している。

細胞の総体として個人が精神を持つならば、個人の総体として社会が精神を持つかもしれない。 社会の末端として個人が精神を持つならば、個人の末端として細胞が精神を持つかもしれない。 そして、細胞→個人→社会は(物理屋の言う意味で)次元の異なる形態を持つので、我々は別の次元の精神構造について理解できないだけかもしれない。


2004年4月11日(日)

0:00頃から研究室。 普段無造作に積んである資料の整理とか。

複数の CD-R にストレージしてあるデータをどう整理するか。 HDD が無闇にデカければ一度全部ディスク上に落として整理するのもアリなんだろうけれど、そんなにディスクは空いてない。 また、一日以上の作業になることを覚悟しなければならない。 とりあえずスクリプトを作って CD-ROM マウントポイントからの相対パスをリストアップしてみた。 基本的にはこのファイルの各行先頭に「mv 」を付けて行末にリネーム後の「分類済ディレクトリ/ファイル名」を付けて行く、という作業をボチボチやるつもり。

そうやって作ったワンタイムスクリプトのテスト用環境を作成。 またスクリプトを作って「ディレクトリツリーを模倣してサイズ0の同名ファイルを配置」してみた。 CD-R 60枚分のファイルツリーが数MBのディスク領域に入ってる様はなんか面白い。


2004年4月12日(月)

下宿 UNIX PC の X が死亡。 icewm が不調になったので X の再起動したら立ち上がらねえ。 libexpat が読めてない。 Libretto と同じ状況だ。 この PC は自分にとって重要なサービスを提供しているので万一にも破壊できない。 マズいなあ。 仕方ないので当面 windows 機から screen で使うことにする。

研究室のメールサーバを廃止する方針ということで、メディアセンターに行ってアカウント貰って来いと。 貰って来たのは良いが、メディアセンターから POP3 で取り出すときには SSL を使わないとダメらしい。 現在使用している im (imget) は SSL に対応してないっぽいので、これを期に fetchmail に乗り換えることにする。 で、今日は一日この作業。

同時進行で LibrettoL1 に FreeBSD のインストール。 でもこっちは LAN カードを置いて来てしまったので、1時間ほどで中断。

例会、早くも2名新入生。 プレ新歓コンパ的飲み会。 ハジっこに座ったので、話の距離感が難しかった。 やっぱ下ネタトークは距離感が大事ですよ。 人間関係という意味でも、物理的にも。


2004年4月13日(火)

5:00起きで Libretto へ ports をインストールしていく。 順番にインストールしていくスクリプトを作ってしまっているので手間はほぼゼロなんだが、やっぱ packages よりかなり時間がかかるよね、という話。

fetchmail + procmail にしたら Maildir 形式での取り込みもできるようになった。 とゆーことでついでに IMAP サーバ化もやってしまおう。

IMAP サーバ化挫折。 IMAP はやはり SSL 上で使えるようにするべきだが、現在 SSL でサービスを提供していないので、2手間かかる。 だけど、IMAP サービスは不可欠というわけではなく、「ssh <下宿PC> → fetchmail; mutt」してやれば問題なく使える。 あるいは「ssh <下宿PC> ; rsync --avxq --delete <下宿PC>:Maildir ~/ ; mutt」でも良いかもしれない。

『ONE』の OVA を最後まで見た。 もおいいです。


2004年4月14日(水)

最近、玄米茶から紅茶へシフトしつつある。 ちうても生協でしか買わないので安いアールグレイかダージリンしか飲んでないのだが。 ダージリンは蒸らし時間が短いと味が出ないし、ちょっと長くなるとすぐに渋くなるし、扱いがタイトで難しい。 気を使って上手くやると美味しそうな気はするんだが。 アールグレイの方があんまり気を使わんでもそこそこ美味しいのが出来るので好きだなあ。

『藤子・F・不二雄 SF短篇集 PERFECT版』を揃えたんだが、昔読んだ話が入ってない。 「気がつくと、町の人がみんな静止している。彼は、あの丘を越えて、町から出た瞬間……」という話なんだが、タイトルが分からん。 どうにかして探したいところなんだが……。


2004年4月15日(木)

研究室の計算機でクラスタ計算させるために、ソフト屋の人に来てもらって設定してもらう。 が、その人の技術レベルが低くて辟易する。 こっちが言ったことに対して「はあ、そうなんですか」。 アンタは知ってなアカン立場の人間でしょうが。

まあそもそもの Run スクリプトが非常に複雑なのが原因でもあるのだが。 でも親会社から委任されて来てんだから、その複雑なスクリプトの責任を代理する立場でもあるだろう。

その Run スクリプトは csh だとか bash だとかの環境の差を吸収するために他のファイルを source したり eval したりする。 Run スクリプトより上位のプロセス(= ユーザのシェル)に作用するわけでもないのに、何でそんな機構が必要なんか分からん。 んなもん全部 /bin/sh で書いときゃいいのにと思う。


2004年4月16日(金)

松本大洋『鉄コン筋クリート』を借りる。 松本大洋の絵は、線は単調、塗りは平べったいんだが、物の丸みの表現が非常に正確だ。 カメラ位置がグルグル回るし、頭ん中に 3Dレンダリングエンジンを積んでそう。

「塗りが平べったい」とはグラデーションを使わないということ。 彼の描く影の形なんかはかなり綺麗だと思う。

『鉄コン筋クリート』悪くない。 町の空気とか人の雰囲気とかは松本大洋ワールドがよく展開されていて良かったと思う。 けど、全体としてはあまり良くないと思う。 なんかいきなりイタチができて、バタバタ人が死んで、急に終わった感じ。 今一シナリオとしてどういうことを語りたかったのかが分からない。

Air の音楽トラックを mp3 に固めたのだが、曲名を確認するためにも一度インストールしてみる。 そこで、「そういや俺Air コンプリートしてなかったなあ」というとことを思い出したのでやってみる。 ……うーん、あんときは晴子さんは完全に対象外だったけど、今はイケるなあ。


2004年4月17日(土)

あの町の夢を見た。 あの町に戻って、僕は彼らと共に生きていた。

ふと思ったんだけど、生きることに絶望しても、野生の動物は自殺せずに野垂れ死ぬまで生きるよね、という話。 いや、絶望という感情がないのかもしれない。 そもそも犬猫が人間と同じ精神構造を持っていることが保証されているわけではない。 てゆーか、そもそも人間同士でも同じ精神構造を持っていることが保証されているわけではない。

犬猫は死の時が近付いたら、然るべき場所へ移動するという。 その行為は自殺を迎える人間と同じ精神状態ではあるまいか? まあよく分かんないんだけど。

最近腹が出て来た。 流石に自分のモノが見えなくなる程じゃないが。 「憎い憎い、この脂肪が憎い!」 ちょっと、脂肪が憎くなり始めた、今日この頃。

「超」という接頭辞は「その次元を超越した別の次元で」という意味だ。 だから、「超個人的」というのは正しくは「とても個人的」という意味ではなく、「個人的、非個人的という枠組みを超えた」という意味が正しい。 まあ、普段「ハルトの漫画は超面白えよ」とか言ってる私が言っても全然説得力がないのだが。 あれ、ある意味正しいのか、この用法は。

ヨーグルトメーカーの意外な効用。 大豆を発芽させるのに大変便利なことが分かった。


2004年4月18日(日) 「エロなんて要らんのです!エロい人にはそれが分からんのです!」

文明の進化を大ざっぱにグラフにかけばこうなる。 もし急上昇するカーブが時間軸に対し、垂直になれば………… その後は? 滅亡を必然と見たのは、そういうわけなんだよ。

藤子=F=不二雄の SF短編『宇宙人』で「文明の進化をおおざっぱに」表したグラフが提示されている。 その短編を初めて読んだ頃はそのグラフが神秘的で、だけれども強い説得力を持つものだった。

その神秘的なグラフなんだが、文明の進歩というのは人類の余剰生産力に比例するのだということに最近気付いた。 人口の増加、社会的分業による効率化、文明(道具)の進歩による効率化、etc...。 そして直接生産や社会の維持に回されない分の労力が、文明を進歩させているのだということ。

この世には残るべきシステムを持ったものが残っていき、残るべきシステムを持たないものは失われる。 それは善悪の別や意思の力は関係ない。 システムの中で「善きものを残そう」というバイアスが働くことはあっても、システムが善であるから残るというものではない。

例えば、生物の遺伝については説明を要さないだろう。 例えば、創業者がいなくなっても「残るべきシステム」を有する会社は人が全て入れ替わっても操業し続ける。 それは誰かが残そうと考えているから残るのではない。 例えば、地球が太陽の周りを回り続けるのも、近付いたら離れるように、離れたら近づくように働くシステムがあるからだ。

より厳密に言うのならば、これらのシステムは「滅びる速度」に働くのだと言うべきだろう。 現在宇宙がこのように在るのは、現在既に定常状態に落ち着いてるのではなく「非常に長いタイムスケールで動いている宇宙の過渡的状態」なのかもしれない。

永遠の命を持つ者よりは、生まれ死ぬ者が知識を受け継ぐシステムの方が優れているのだろうなあ、と漠然と考える。 恐竜が滅んだ理由の一つとして「環境の変化に対応できなかった」というのが挙げられることがあるけれど、不老不死者は自身の身体を作り変えなければそのような環境の変化に対応できない。

知識という物の実体は、つまるところ記憶だ。 個人の中では知識というのは付属的な情報を幾つも持った膨大な「塊」だ。 だが、それを他人に伝えるという目的を持った時、無駄な情報を削ぎ落とし伝えるべき知識を純化するというプロセスが発生する。 不老不死者はそのようなプロセスを必要としない。 自身が失われない限り、その知識は失われないからだ。 人間はお互いを理解する完全なインターフェイスを持たないために、情報を簡潔に扱い得るようになったのではないか? そうやって情報を淘汰するプロセスこそが、不老不死者に対する人間の長所なのではないだろうか?

知識と記憶を同義とするのならば、「寿命があっても記憶を完全に伝達できる者の系譜」は不老不死者と同義になる。 この辺 Air 中でもサクッと言われてて、なるほどと思った。

人格/性格の実体も記憶だと私は思う。 完全に記憶を伝達されたならば、伝達された人はその自我を保てるのだろうか? 他者の記憶を完全に分離して把握することができるのだろうか? 幼い頃に聞いた物語を、耳でしか聞いてない筈なのに映像として覚えていることがある。 自分の記憶でさえそのように曖昧なのだ。 人間には無理だろう。 まあ、彼らは翼人という超越的な存在なので別に構やしないのだが。

『GS美神極楽大作戦』で、「菅原道真の記憶が彼自身をエミュレートしてる思念体」が登場したことがある。 そこに精神(例えば、「痛い」と感じる主体)は存在しないのだけれども、「そこに彼がいる」という状態が不思議だった。 だけれども、今は何か理解できる。 「彼はそこにいない」けれども、我々にとっては「彼がそこにいる」のと同じなのだ。

仮に人間の記憶というものを完全に保存し、「何か」に移すことができたなら、それはその人間をそこに再現できたということになる。 私が滅んでも、私がいた世界と等価な世界がそこに現出する。 私は自分の知性を誇りにしてるところがあるので、理性ではそのような状態を望む。 私が、例えば事故で死んでも、為すべき何かがこの世界に残るのならば。

萩尾望都の漫画にそういうのあったな。 死んだ筈だがバックアップの記憶からその人間を再生するみたいな設定の話が。

仮にそういう技術が発明されたらどうするべきか? 俺がその世界の支配者ならすることは決まってる。 30歳くらいの働き盛りの人間を大量生産するんだよ。 オリジナルの人間が生きてるか死んでるかは関係ない。 これからの環境の違いで適当に分化する筈だし、分化しなくても社会としては問題ない。 管理する立場としては画一化された人間の方が都合が良いからだ。 材料費に100万円かかるとすれば、記憶のインストールに1万円かかるとしても高々100万円そこそこでで働き盛り人間一人を世に送ることができる。 赤子を教育して社会に出すまでの労力を考えたら遥かに低コストで安定した労働力を得ることができる。

奴隷的な性質の人間をコピーしても良いかもしれない。 「チミ、人間が合成したアミノ酸の塊に労働基準法を適用するべきだと思うかね? ならば、酒蔵で働く酵母に休暇を与えるべきなのか? 工場で生産した工作機械に給料を払うべきなのかね?」

こーゆー妄想はそのまま漫画にすれば良いのにね、と少し思う。 だけれども、シナリオになるかは別の話だしなあ。

Air 終了。 大体20時間くらい消費。 音と、話の積み重ね方が秀逸なんだろうな。 神奈編が好き。

酒飲みながらノベルゲーやってると日記に書くことが増える。


2004年4月19日(月)

以前 Air をやったときに感じた問題点の一つが「往人がエンターテイナーとしてあまりに出来てない」ということ。 彼が今まで生きてきた方法が全然想像できないということ。 今回Air をキチンとやって、その辺がちゃんとシナリオから要請されていたということが分かったので、この問題点はなかったことにすることができた。

一遍アンインストールしたんだけど、Air編の最後がよく分かってなかったのでも一度インストールして最後だけ読み直す。 ああ、そういうことだったのか。 成程。

研究室の PC、「expat が見つからない」エラーがそこかしこで出ている。 今度 X を落としたら、次は二度と起動しないだろう。 諦めて再インストールするべきか。 X 以外の復帰・インストールはそれほど問題ではないだろうし、「X が動かない」というリスクも screen を使うようにすればそれほど致命的でもない。 計算を走らせる自作スクリプトは研究室サバ上で走るように作り変えた。 次の週末くらいに、やるか。


2004年4月20日(火)

負の質量と呼ぶべきものが存在したとする。 ここでは、正の質量を持つ質点を正の質点、負の質量を持つ質点を負の質点と呼ぼう。 正の質点は正の質点が作る重力場に作用されて、近づく方向に力を受ける。 しかし負の質点は、正の質点から離れる方向に力を受けることになる。 また、負の質点は負の質点が作る重力場に作用されて、近づく方向に力を受ける。 すなわち、正の質点は正の質点同士で集合し、負の質点は負の質点同士で集合し、正負の集合はお互いに遠ざかろうとし続ける筈だ。 これは正負の電荷が近付こうとし、全体として均質になろうとする静電力と対照的だ。 我々の宇宙が正の質量だけで構成されているように見えるのは、我々が知り得るより遥かに遠くにしか負の質量が存在しないからかもしれない。

ハードディスクに蓄えられるデータには自分が編集する(変更されてゆく)データと、誰かが作った(変更されない)データの2種類ある。 自作スクリプトやウェブサイトのデータは前者にあたり、バックアップするべきだ。 ダウンロードした動画や音楽は後者にあたり、ストレージするべきだ。 ……と、言ってしまうのは簡単なんだが、多くのデータはそれらを両極とする直線上に乗るというのが事態を少々面倒にする (ダウンロードしたデータとはいえリネームするだろうし「より良いデータに差し替え」るかもしれない。 自分で作ったデータでも1年以上変更してないデータやこれから先変更しないと思われるデータはあるだろう)。 ともかく、ディスク内を整理する際にはこういった特性を意識してやる必要があるということ。

この辺はプログラミングを行う際にも注意するべきかもしれない。 現在使用しているアンテナは『なつみかん』という奴で動作自体は十分満足しているのだが、データの構成がちと不満だったりする。 「プログラム本体」「ユーザー設定部分」「自動更新されてゆく一時ファイル」が全て同一のディレクトリ以下にあることが前提になっているのだ。 先の議論で言うと、「プログラム本体」はストレージ、「ユーザー設定部分」はバックアップ、「自動更新されてゆく一時ファイル」は保存する必要のないデータとして扱うべきなのだ。 「ユーザー設定部分」は堅牢なバックアップシステムでもある cvs や svn のようなバージョン管理システムで管理したいのだが、全体をバージョン管理システムが管理するディレクトリに入れると「自動更新されてゆく一時ファイル」の更新も検知して面倒なことになる。 現在のところ、結局これら全てを包括してバックアップを取らざるを得ない状態にある。


2004年4月21日(水)

下宿マシンへの FreeBSD-5.2.1 再インストール開始。

今回の破壊は、「用もないのに ports のアップグレードしてしまった」のが原因。 次からは、次からこそは、「○○が良くなった」というある程度確定した情報か、「○○が良くなって欲しい」という確たる信念でしかアップグレードしないことにする。

漫画を貸すということ。 私が漫画を貸すのは、「参考になるんじゃないか」とか「こーゆー面白い漫画があるんだぞ」と教える意味、すなわち教育目的が第一にある。 勿論そこから何を取り出すかは自由だし、何も取り出せないこともあるだろう。 肌に合うとか合わないというのは必ずあるもんだし。 だから、彼にとって役に立たなくても、それは問題にはしない。

ただ、私が教育したいのは一人じゃないということ。 私はその漫画が役に立つかもしれない他の複数の人にも読んで欲しいと思っている。 たまたまその順番が来た人が何ヶ月もそこで留めるのはやめて欲しい。 「私が好きな時に読める権利」という代償を払って貸しているということを理解して欲しい。 ちろっと読んで「あまり面白くなさそうだ」と思ったら、全部読まなくても良いからサッサと返すか他の人に回して欲しい。 また読みたくなった時には貸しますから。

勿論読むペースとか生活の忙しさとかあるから「全力で読め」とか言いません。 漫画は楽しく読まないとアキマヘン。 ……てゆーかそれを言うたら私は無理矢理押し付けるように貸すこともあるし、何より好きで貸してるのだから。 漫画を例会に持ってくることを忘れることもあるでしょう。 過失について責めるつもりはないです。 私もよくやってしまうので。

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私の大好きな漫画を留められて、一時「もう漫画を貸すのやめようかな」と思ったことがありました。 ですが、そういった状況の中、水崎氏が私の貸した二宮ひかるを大変気に入ってくれたようで、そのことがとても嬉しくなって、そう思うとやっぱり「貸そう、これを続けよう」と思うんです。

ま、新歓期は新入生を釣るエサですからね。 「貸したら返す為に、も一度例会に来るだろう。 そうやってじわじわ定着させるのだ!」。 貸した新入生が二度と来なくてその漫画を失うというリスクに十分見合うと思ってるので、通常より多めに貸しますよ。


2004年4月22日(木)

樹山氏から借りた『アラハバキ』(六道神士)。 ダメだ。コレ。 設定だけじゃ漫画にはならんよ。 ルールをちゃんと順番に、分かり易く提示せえへんと。 その間もちゃんとエンターテインせえへんと。

縦長のコマを上手に使えるようになりたいな、と『羊のうた』を読んでて思った。


2004年4月23日(金) 「としあきは萌えのエキスパート」

下宿 PC 復旧。 あとは DHCP を設定すれば良いだけ。

/etc, /usr/local/etc のバックアップはパーミッションもキチンと保存しとかんとアカンなあ。 ローカルで tar.gz に固めてそれを他所で保存するのがベストっぽい。 あと、ユーザ管理の仕組は実際どうなってるんだろう? /etc/passwd 丸々コピーだと whoami でユーザ名でなく UID が直接出て少し変なので。

絵夢氏経由で知った『とらぶる・うぃんどうず』。 スゴいわ、コレ。 何度見ても飽きないってゆーか、コンプリートできねえ。 Me でのデフラグ完了がこんなに難しいとは思わなかった。

不安定で有名な WindowsMe もとしあき達の手にかかればドジっ娘属性の萌えキャラになってしまう。 なるほど、確かに。 うーん、なるほど。 これはタイヘンなことですよ。 だから Me たんに萌えるとかそういうのではなくて、としあきの底力に感心したというか感動したというか恐怖したというか。 そして flash 化した職人がそれと同じくらいスゴい。 アンタ絶対本職のゲーム屋だろ。


2004年4月24日(土)

procmail 入れ忘れていた。 それと私的ブックマークのグーグル入力メソッドの微調整とか。

日記更新スクリプトを作り直すことを検討する。 理由の一つは、現行のものは大破壊の危険性を含むということ。 手で編集した日記の最新版を日付ごとに切り取って月別日記に組み込む作業をさせている。 月別日記も一度読んで、修正して、書き出している。 しかし、月別日記は静的に読むだけのものとして扱い、最新日記は純粋に抽出するだけの方が安全だろう。 だがこれだけでは「動いてるものをわざわざ変更する」理由にはちと足りない。 もう一つの理由は、Emacs が「編集中のファイルが他所で更新されていることをチェックする」ということ。 その動作は正常なものでこのおかげで何度も助かっているのだが、日記更新スクリプトが編集中のファイルを書き換えないならば、そもそもこの問題は発生しないのだということ。

『カルドセプト(4)』(かねこしんや)。 この人、漫画はそれほど達者ではないけれど、絵が上手いなあ。 表紙だけでなんか元気になれる気がする。 普段絵というものにそれほど価値を置いてないけれど、私がそれに価値を置いたときには必ず筆頭に来る人だ。

「本を貸す馬鹿 返す馬鹿」。 のじりにたしなめられた。 自分がまだ到達していなかった視点を与えてくれるのは、正直、有難い。 とにかく、好きで馬鹿やってんだから恨みがまいく物言いするのは筋違いだということ。

Wizardry小説、1月で終わって(中断していて)よかった。 4月まで続いていたら、間違いなく今もまだ数時間読み続けている真っ最中だっただろう。

序盤は、戦闘≒運動についての筆者の視点が新鮮だった。 徐々に、人間や人生についての語り口というか、純粋に「私の知らない生き方」を知らせしめてくれるのが楽しみになってきた。 「一応の主人公」真壁が強くなるのが心地良かった。 「そう、人は簡単に行き(生き)、簡単に死ぬのだな」。 僕は Wizardry をあまり知らない。 外伝2と5を「クリアしただけ」。 でもニオイは分かるつもりだ。 僕がちゃんと生き、死ぬ存在としてリルガミンに生きていたら、生活していたら、彼らのように振る舞うだろう、きっと。 ある意味、僕がキチンと真っ当にリルガミンで生きられなかったその生き方を、彼等はやってくれているのだ。


2004年4月25日(日)

30日ころに漫研同期の小泉氏が来るみたい。 いつまでいるかは不明。

吉田寮の旧居室に残っていた漫画の片付け。 私自身の漫画は殆どないけれど、東京の某氏所有のとか所有者不明とか不要漫画を持ち帰る。 不要漫画は NF に全部放出する予定。

土日で漫画を描くつもりだったんだけど、ダラダラするだけで終わってしまった。


2004年4月26日(月)

研究室の新歓コンパ。 でも体調すぐれずあまり食えず。

帰って寝る。


2004年4月27日(火)

私が研究室内ページで公開している UNIX 関係の Tips 集はそこそこ好評らしい。

やる気しねえ。


2004年4月28日(水)

寮でダラダラしてた。 某氏と俺の漫画についてちと雑談。

どうしてもやってしまうことなんだけど、自分の漫画についての話になった時に一瞬身構えてしまうのはよくない癖だよなあ。 「釣れた釣れた」と言われるのが怖くてついつい「それはどういう意味なんだ」と聞いてしまうのだけれど、そうやって大事な一言を引き出せなくなるよりは、釣られてしまうリスクを背負う方がよほどマシだ。 この点も頑張ろう。

自己評価では、『君のいた景色』はテーマとしては十二分くらい。 商業漫画にも引けを取らないと思う。 ただ、演出が5割、表現が下手すりゃ1〜2割といったところ。 そして、俺は、良い作品になるためにはテーマ云々なんかより演出の力が80%以上効いてくると思っている。

表現ってのは、ある意味、「自分で勝負できる土俵でだけ勝負する」みたいな描き方をすればなんぼかマシになる。 「顔は左斜めだけ」とかね。 そろそろその方向を模索すべき時期かなあ。

こないだ東京行って吉田寮友達と会った時に、『君のいた景色』は置いて来たらよかったな、と少し思った。 いや、少し気付いてはいたんだけど、ちょっと勇気が足りなかったのです。


2004年4月29日(木)

実家から借りていた『My Fair Lady』を鑑賞。 ミュージカル部分が美しいなあ。

「あー、俺も教授になって21の下町の元気娘を調教してえ」。 ダメでつか、そうでつか。


2004年4月30日(金)

コーヘーさんから漫画を借りる。 『サライ』面白そうなんだけど、読み難い。 雑誌掲載の時点での面白さを完全に優先してるんじゃないかな。 各話の冒頭が結構唐突で、16ページのその話の中では綺麗にまとまってるんだけど、全体としてどういう話なのかがいつもピンと来ない。 しかし、フリッカ可愛いなあ。

普段の行動圏内に大きな本屋がないので、欲しい漫画が溜まってはアマゾンを利用している。 今日はその日。 『耳をすませば』を発注するかで数分悩んだんだが、結局買うことにした。 5000円ちうのはよく考えたら、俺の酒代2週間分に満たない。

  1. 寮の片付けでの最終フェイズ:不要漫画、28型テレビの回収
  2. 下宿に不要漫画を置く(2往復)、『じゃりン子チエ』を車に積む
  3. コーヘーさんちに貸していた分の『じゃりン子チエ』を回収しに行く
  4. 実家で28型テレビと『じゃりン子チエ』、借りてた DVD を置いて、向こうの不要14型テレビと新しく借りるDVDを回収
  5. 寮で実家不要14型テレビを置く

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