早起きしてひらしょーを送るつもりだったけど、いつもの「無意識に目覚ましを止める」を発動してしまったらしく、目覚めたのは彼が出る予定だった時刻の30分後だった。 しかたないので『野望の王国』を読む。 まだ一巻しか読んでないけれど、これ、普通に面白いんじゃないの?
どうしてだろう? 不良漫画は読むに耐えんのだが、ヤクザ漫画は結構好きだなあ。 やっぱ、不良漫画は保護されているガキがイキがってるようにしか見えないからかなあ。
漸く気付いた。 英語がキライだったのは、ある文における文の要素(単語)の働きが文法から一意に決まらないということが理由だということだ。 何度か読んで、最も妥当な意味になるような文の構造を仮定するしかない場面が少なからず在り得る。 当然、日本語だろうが何だろうが全ての自然言語はそういう側面を持つだろう。 慣れていない、慣れるための努力が面倒、ただそれだけだ。
芸術性などといった特殊な目的を考慮しなければ、日本語だろうが何だろうが、文意が一意になるような文章が良い文であると私は考える。 翻って考えてみると、日本語の文章でもキライな文章はたくさんあるわけで。 文意が一意なのに、無知のために「一意でない」と喚いてしまわぬくらいまでは勉強せんとアカンわな。
64ページゴージャス。
そのうち俺漫画8P。
ひの「今までのいっぺいさんの漫画の中で一番面白いっすよー」。
そうか、それは良かった。
けどな、それは褒め言葉じゃねェ。
アマゾン、キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!
午前10時にこんなの届いた日には、学校なんて、学校なんて……。 まあ15:00くらいに行きましたが。 ソワソワして、もうやる気なし。 実は今日、計算科学のシンポジウムの枯れ山のサクラをしに行かねばならない筈だったのだが、まあそんなこた比較的どうでも良いことだ。
たくさん漫画読めて幸せ。 中でも G戦場ヘヴンズドア最高。
ほんの少しのダメ人間になりたい気持ちと、大部分のなりたくない気持ちがせめぎあって、鬱。 今日の酒はダウン系。
俺の「ダメ人間になりたい気持ち」てのは飼犬の野良犬に対する憧れみたいなもんだ。 そうはなりたくないけれど、その部分的なオイシイ部分を欲しがるという。 藤子=F=不二雄がよくモチーフにしているような。
酒飲み酔っ払いなのでついでに過去の俺漫画を読み返す。 あー、どれも本気だなあ。 気持ち良いなあ。 面白いなあ。 あー、なんか、涙が出てきちまったよ、おいちゃん。
うん、俺が吐き出す分は、全て吐き出してからやめんとな。 俺はまだまだ描き足りない。 たかだか十数人程度にしか読まれないけれど、それは仕方ない。 それは俺の力量を反映しているのだから。 だが、少なくとも俺は、俺によって描かれるモノに対して責任がある。 俺しか描けない世界、そして既に在る(けれども描かれていない)世界は、キチンと描いてやるべきだ。
褒められたっ?>03/01の日記
読んでないから気付かなかったけど、ジャンプで LIVE が終わってたようだ。 「梅沢春人なんてキライ……キライ……。だけど……大好き」。
「失礼な奴だ」と思ったけれど、相手は俺に対してわざとやってるわけではなくて、ただ単に俺が「そのように思われたくない」と思っていただけだった。
論文書かなきゃねー、という話。
追いコン本原稿描こうとしたら、PC からうなるような音が。 しかも UNIX の方。 とりあえず電源ファンに注油したら直ったっぽい。 こーゆーのは早め早めのケアが肝心。
多分、絵が上手くなってるんじゃないかなあ。
影をつけるって良いですね。 絵がグンと引き締まりますよ。 雲を削るの、もっと上手くなりたいなあ。
多分、ガワをキッチリ削り、影を削らないようにすると大分違うと思う。
11:00終了、メシ食って12:00前にルネ行って提出。 シャワー浴びて研究室。
漫研追いコン。 追いコン漫画で建物の線を褒められた。 うん、もっと上手くなりてえな。
ボーリング、フックボール面白い。 けど制御が全く効かん。 フォームが固まらないとどれくらい曲がるかが完全に博打になってしまう。
カラオケも良かったんだけど、徹夜明けでしかも午後眠れなかったので、早々に帰って寝ることにする。
11時間睡眠。 眠るって気持ち良いなあ。
そもそも俺はあまり料理が上手くない。 というよりは基本的な知識が足りない。 いつも適当に食材をブチ込んで適当に煮、そして適当に味付けする。 最後にスパイスの類(香辛料や酒や塩)を投入するんだが、これまた適当、だが基準がある。 知覚するけれど認識しないくらいの少量で、種類を多く投入する。 これだけで結構食えるものができる。
演出ってスパイスだよな、と思った。 単体では料理にならないが、料理の味を最も左右する。 そして、大多数の消費者にはそこに演出があることが認識されない(演出を演出と思わせない)。
追いコン漫画で1ページ目と2ページ目で校舎の色味が違うのは絵的な演出が理由だが、分からんよなあ、俺もこの漫画を読者として読まされても気付かんだろうなあ、ということを思いながらこんなことを考えた。 この気付かない、けれど無意識に知覚するあたりが演出の妙なんだろう。
演出だけではない。 例えば、絵を描くときのある一本の線の引き方。 プロの漫画を見る時、殆どの場合「ああ、綺麗だな」とすら思わない。 自分がその絵を描いたときとは歴然とした差があるのに。
「素晴らしい作品ほど、巧妙に必然の産物だと見せかける。 それを奇跡とも知らず当然のように消費する。」(『G戦場ヘヴンズドア』日本橋ヨヲコ)
我々は、「なぜその画面が、場面が映えるのか」ということに対してもっと注意深くなくてはならない。
ということで、今後暫く「良い画面に注目し、それを自分の絵で脳内エミュレートし、その差分を想像する」という訓練を意識してみよう。 実際描いてみても良いなあ。
長月師の原稿手伝った返礼ということで焼肉をオゴってもらう。 今日の知見は「焼肉屋食べ放題、17:00に行ったら客がガラガラで頼んだものがスグ出て来てウマー」。
やっぱ、漫画を描くのって楽しいなあ、と。 最終目的は勿論「究極の漫画を描く」みたいなもんなんだが、今はその道程。 上手くなるのが楽しい、次の漫画をより上手に描きたい。 そして俺の回りの他の人が、より上手くなってくれると嬉しい。 「彼にとっても嬉しいに違いない」と思って俺は行動してるんだけど、「彼」は本当はどう思ってるんだろう、とたまに思うことがある。 まあ、直接拒絶されるまではこの方向で行くしかない。 褒め言葉がその人の最大の原動力になり、批判は「彼」の長所をスポイルしかしない場合もあるだろう。 だけど、俺今一つ褒めて伸ばすのは上手くないからなあ。
今気付いたけど、俺って目的と手段が入れ替わってるな、と。 本来の目的は「伝えたい」。 だけど今の目的は「上手くなりたい」。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎し」とは良く言ったものだ。 と、昔の日記を読み返して思った。
明日は東京に枯山のサクラしに行きます。 日帰りはしんどいしイヤなんだけどなあ。
しかし文系だと勢いとハッタリで勝負して適当な論理でもああそうか、すげーなぁと思わせてしまえば勝ちみたいな感じがありますが
俄かに信じ難い。 本当に文系って論理は重視されていないのか? 少なくとも理系(科学系)では、明快な論理こそが最重要で結論はそれに準じる扱いだ。 てゆーか、結論は論理によって導かれるものなので、論理が間違っていたら結論が間違っていることになるんだけど。
無前提に学問というものはそういうものだと、文系でもそういうものだと思い込んでいたけれど、そうではないのか? これはちと、一人の意見を信用するには重すぎる。 とりあえず保留。
私は、学問というものは論理で成り立っていると思っていた。 どれほど学者社会を見通しているのかは知らないけれど、仮に他の文系の人が論理を重視するのであれば、こんな失礼な物言いはないと思うのだが (いや、私は文系の人に「特有の」議論の進め方というのは知らないのであまり偉そうには言えないのだが)。
俺の知る他の文系の人は少なくとも論理的な論述をする人の方が多いけれど。 某にしてもそう、論理を基に議論を展開する。 ただその論理が(俺にとって)間違っているだけで。 論理を蔑ろにするような立場を取る人は初めてだ。
他の人は知らんけど、私は結論より論理を重視する。 これが探求者として正しい在り方だと信じているから。 興味深い結論でも、論理が破綻していれば信用しない。 いや、普通こうなんじゃないの? だって、「林檎と地球はおたがいに引き合っているんだ」とか「座標と運動量を同時に確定することはできない」と言われても、その論理に納得しなかったらその命題を信じないだろう。
ただ、一つ明らかなのは、俺がネタにマジレスしていたってことだ。 あーあ。 言われてみればしっくり来るんよな。 論理展開がおかしいとか、言葉の使い方が不適切だとか、しょっちゅう引っかかってたから。
私が論理という物を盲信しているという見方も出来る。 だが、私はもう論理によって支配されているので、「論理に拠らない見方こそが正しい」と私に説得するには論理に拠るしかない。 この辺なんか不完全性定理っぽい。
その論理に説得力がなければ、「えっ?まてよ、ひょっとしたらという疑問」すら生じません。 断じて。 「面白いこと言うなあ」(ニヤニヤ) が関の山です。
私は、新しい視点に飢えています。 私に新しい視点を、新しい立場を、新しい地平を教えてくれるなら、そんな有難いことはありません。 できれば、よろしゅうお願いします。
ふと思う。 この世は私の嫌いな人だけで出来ていて、実は私はその嫌いな部分に気付いていないだけなんじゃないかと。
だけど逆もまた在り得るだろう。 この世は私の好きな人だけで出来ていて、実は私はその好きな部分に気付いていないだけなんじゃないかと。
風邪か、二日酔いか。 喉痛い、食欲ない。 いずれにせよ一人酒はやめる方向で行かんとマズイよなあ。 健康にも経済的にも。
screen の良い起動方法を考えている。
やっぱり本当に風邪っぽい。 とりあえずいつものように天一を服用し、薬飲んで寝る。
今日も静養。 寝て過ごす。
野望の王国、2巻。 次から次へと強敵が! この話、収束するのか? なんか武論尊と同じ匂いがする。
こないだの火曜日の東大行きで、弥生土器の名前の由来となった弥生という地名が東大のある辺りの地名であることを知った。 成程、「東大に行って考古学をやる」というのはそれなりに縁のある話だったのか。
一部に絶大な支持を戴いた、「バレンタインの恐怖・ち○これーと大作戦」。 そんときの画像を up しろとの声がありますので上げてみます。 が、どこからどうみてもうんこにしか見えないので、そゆもの見たくない人はダウンロードしないちうことでよろしゅう。 漫画の方も上げようかと思ったんだけど、文字が手書きで読むに耐えんのでやめました。
不確定性原理がよく分からん。 ネットあさりすると「観測のみの問題だ」という意見が散見される。 そうすると、「粒子は真の値を持つが、人間がそれを知ることはできない」ということなのか? 今までの知識では「真の値がゆらぎを持つ」みたいな意味だと思っていたのだが。
野望の王国、止まんねぇ。
雁屋、お前本当に、全てを見通してシナリオ作ってるのか? 自分を追い込んで楽しんでないか?
結局無理して読み切ってしまった。 まだ咳が出るけれど、学校行くつもりだったんだけどなあ。 今日も休もう。 明日実家帰って接客せんならんし、完全に治しとかんとあかんし、という言訳。
ひらしょーが「熱い」と言っていたものは、あれか。 私ならば「エネルギー」と表現するが、ニュアンスの問題でしかない。 おそらく同じ物を指すだろう。
思い返すと「次から次へと強敵が!困難が!」というハイテンション・ハイテンポの馬鹿な話にしか思えないが、読んでる最中は夢中でそんなことどうでも良かった。 うん、普通に面白いよ。 武論尊の匂いがする、といったのは、サンクチュアリと設定が似てるから、というのが大きいっぽい。 まあやっぱり同じ匂いがする気もするが、今の段階では武論尊の方が数段頭が良い気がする。
でもやっぱり最大の見どころは、最終巻付近で由起賢二がノリノリで絵を書いてるところだろう。 奔馬の絵とか、薬を打って「ふはああ〜〜っ!!」なんて、描けと言われても描けないよ。
寝る。 話の整合性が良く取れた夢が見られた。 少し不思議な感じだし、ちょっと手を加えるだけで漫画になりそうだ。
ふと思ったが、俺の見る夢って、状況の情報が羅列されてるだけかもしれない。 純粋に視覚ではないっぽい。 背景とは色はついてるけどピンボケした感じだし、起きてすぐに色褪せて行くし、何より「こんな感じの風景」という言葉で表せそうな背景ばかりだから。 情報ちうのは単純に言葉ではないのだが、なにか「こういう情報」というのが、その場、あるいは思い出そうとした瞬間に展開されて、その風景が目に浮かぶのかなあ、という気がする。
DVD-RAM ドライブって便利そうだなーと思った。 噂では、PC-UNIX からでもオートマウントで自由自在に読み書きできるらしい。 なんだがね、問題は日本語ファイル名。 デカいファイルは大抵マルチメディアデータで日本語ファイル名を付けてるからなあ。 samba + euc じゃ windows から読めない。 ローカルファイルシステムの文字コードを unicode でやる方法があれば、それで行けるのか? でもできなさそう。 samba で unicode を設定できない。 と思ったら、samba-3.0 以降では unicode がサポートされたそうだ。 行けるかも。
しかし zsh で unicode 日本語ファイル名が適切に扱えるか、とか、色々調べなならんことがあったり困難が予想される。 買うんなら普通に Windows に繋げるのがベターなんだろうなあ。
量子力学面白い。 段々何が分からないのか分かってきた、というか、何も分かってないんじゃないのかという気がしてきた。
昔『アインシュタインロマン』という NHK の本で「観測すると光の性質が粒子的になる」と書いてあった。 そしてこれの説明に回折スリットの実験が挙げられていた。 2本の平行したスリットを用意し、光子を1つずつ投入し、スリットの向こうのスクリーンに投影する。 両方のスリットを開けた時には綺麗に干渉模様ができるのだが、片方のスリットを閉じて「光子がどちらのスリットを通ったか」を確定しようとすると(観測すると)、スクリーンには干渉模様ができない。
だけど、完全な波動が回折スリットに侵入するとしても、2つのスリットに同時に波が侵入するから干渉が起こるわけで、1回ずつ別々のスリットで2回波を侵入させても干渉は起こらない。 すなわち、「観測によって波動性が消える」のではなく、「そもそも片方しか開放しない場合は光子が波動的であっても干渉が起こる筈がない」のだということ。
この辺どうも、光子という概念が怪しいと私は思うのだが。 我々が想像する粒子と同じようなもので光子というものを想像するのが良くないと。 電子でも広がりを持つ雲のような存在という考えが現在一般的だ。 ならば、質量を持たない、より微小な存在である(?)光子はより広がっていてもおかしくないと思うのだが。 まあ現時点では勉強が全く足りてないので戯言にしか過ぎんのだが。
なお、光子の運動量は p = hν/c で確定している。 運動量と座標の不確定性原理から、座標の不確定性は無限大になると思うのだが、この辺の議論はどうなんだろう?
風邪は概ね治った気でいたが、やはりバス・電車で揺られると体力がガシガシ削られてゆく。
どこまで話が進んでいるのか全く聞かされずに姉の恋人の家族を迎えて接客。 「新居」とか「結納」とかいう単語が出てきたので、かなり具体的に決まってるんだろうな、とは思ったが。 どうやら両家とも「テキトーで良いや」という方針らしく、結納に近い意味合いの食事会だったようだ。
「我々が想像する粒子と同じようなもので光子というものを想像するのが良くない」と書いてしまったが、よく考えたらこれは私の未熟な光子像であって、物理学は100年前に既に「光とは波動であり、かつ粒子である」という視点を得ていた。
とにかく寝る、眠る。 腹は減らないんだけど、「飯を食わんとアカン」と理性で食欲を奮い立たせて食う。 そして寝る。
遠近法には幾つかの技術があるが、単純な線画を考えると透視図法と呼ばれるものが代表的なものだろう。 透視図法は平行した直線を、消失点に向かう直線として描く。 これはある視点からの世界を再現する為のよい近似である。 これを第一近似としよう。
さて、ここに第二近似を導入したい。 というのも、視点、視線を固定した時、世界を構成する直線は特殊な条件を満たす場合以外は全て歪んで見えるからだ。 そしてこの歪みは視線の方向によって随時変化する。 これを実感できないならば、次の思考実験を考えるのが良いだろう。
今、目の前に横3本の平行線があるとする。 上2本の線の間を見つめている状態では視界の端でその平行線は交わっている筈である。 よって、上2本の線は、上下に膨らんで見えている、特に下の線は下方向に膨らんでいることになる。 さて、次に自分は下2本の線の間を見つめたとしよう。 この時も先と同様視界の端でその平行線は交わっている筈である。 よって、下2本の線も、上下に膨らんで見えている、特に上の線は上に膨らんでいることになる。 「上2本を見た時の下の線」と「下2本を見た時の上の線」は同一の線なのに、視線の置き場所によって歪み方が異なることになる。
実は、厳密に人間の目にうつる世界を写し撮ろうとしたら、消失点だけでなく視線の方向も定義してやらねばならないわけだ。 おそらく、大体の場合は視線の方向は「最も見せたい部分」と同じで良いだろう。
ここで用語を厳密にしておこう。 視線の方向を「カメラの主軸」又は「主軸」と呼ぶことにする。 また主軸とスクリーンが交わる点(画面上での主軸の方向を表す点)を仮に「主点」と呼ぶことにしよう (正式な呼び方があったら教えて下さい)。 今まで「直線」と無造作に呼んでいたが、これを両端を無限に延長した「直線」で再定義しよう。 大丈夫、描く時には直線の一部分だけ描けば良いだけだから。
さて、直線の歪みと主軸の関係だが、これは結構簡単で、対象の直線と主点の位置関係に依る。 歪む方向は主点と逆方向になり、直線上に主点が乗っていればその直線はその画面内で直線に描かれる。 歪む量は、直線と主点の最短距離が遠いほど多い。 より精度の高い言い方をするならば、主軸と直線の視差(角度)に依存する。
まあ、普通絵を描くといったらここまでで十分すぎるくらいだろう。 これから先は絵を描くというプロセスにおいて現実的ではなく、全く役に立たないだろう。 というのは承知の上で、単純に知的好奇心からもう少し先まで進めてみる。
まず、原理から考えよう。 視界という球面を考える。 この球面上で任意の直線は、「その直線に平行な原点を通る直線」と球面との交点を消失点として持つ。 消失点はその性質上、視界という球面上で正反対に位置する点ということになる。 消失点を両極と見るならば、直線はその子午線ということになる。 しかし、我々が本当に極として見つめるべきなのは消失点ではなく、主点である。 そこで、消失点は放っておいて主軸を元に新しい極を決めてやる。 そして主点の側を紙面に押し当て、球面を引き延ばして無理矢理平面に転写する。 そう、直線の歪みは、視界という球面を無理矢理平面に押し延べる時の歪みに起因するのだ (なお、この「押し延べ方」は地図の正距方位図法に近いと思う)。
これを描画というプロセスに置き替えると以下のような感じになるだろう。 対象とする直線の消失点を画面から探し、反対側の消失点(おそらくは紙面の外にあるだろう)もプロットする。 この2つの消失点を結ぶ「空間上の平行線(=視界球面上の子午線)」は、画面内では主点を通るものを除いて全て曲線として描かれる (逆に言えば、反対側の消失点は、消失点と主点を結んだ直線上のどこかに存在するということ)。 主点から離れた点ほど歪みが大きいということに考慮しつつ2つの消失点をなめらかに結んだ曲線が、対象とする直線をこの画面に描く際に求める曲線ということになる。
一点透視は完全な直線で引いても常に正しい。 なぜなら一点透視によって描かれた消失点に向かう直線群は集中線のような働きをし、人間の視線を消失点に誘導する、すなわち主点を消失点に固定する働きを持つものだから。
サンクチュアリを少し読む。 一般的な漫画の評価としては、野望の王国よりこっちが上だな。
「俺の見る夢って、状況の情報が羅列されてるだけかもしれない。」 と書いたが、いいかえると「夢は視覚などの感覚そのもので構成されているのではなく、何かメタな情報で記述されているのではないか」ということになる。 これは結構良い所をついている気がするのだが。 私の夢は音がなく、夢の中での会話は、「こういう会話をした」と夢を見る主体である私がそのように認識することで成立する。 また、「普通の人の夢には色がない、けれども絵描きなど色をよく扱う人の夢には色がつく」とか言われているし。 それをよく扱う人、その対象の情報を直観でつかめる人にはその情報が夢に反映されるのではないか? 音楽をよくする人ならば夢に音が出てくるに違いない。 鼻田香作は匂いが夢に出てくるに違いない。
京都に帰って研究室。
直線で構成される単純な透視図法は、言うならば、カメラの主軸に垂直なスクリーンへの投影ということになる。
あるいは無限遠からの視点による世界。
しかし我々が普段暮らしているのは有限距離からの視点による世界だ。
(以前主張したように人間は脳内の3次元空間内で生活してるという言い方もできるが、目から信号として直接受け取るのは有限距離視点の世界だということ)
水崎氏から『イヴの林檎』を借りる。 倉上淳士の漫画は話はそんなに面白くないけれど……、本当可愛い女の子の絵を描くなあ、と感心する。
ペン入れ練習再開。 だけど、よく分からない。
汚く見えるのは、入りと抜きが綺麗にできてない部分が多いっぽい。 ペン先が紙をひっかいちゃってボゴボゴの線になっちゃったりとか。 もっとペンに慣れてないと。 狙った線を引く技術と、狙うべき線にもっと意識を集中しよう。
研究室の後輩に Windows のランチャーとして Orchis というのを教えてもらう。 で一通り使い方をさらってみたけれど、凄く良く出来ているっぽい。 Emacs キーバインドになってるし。 ワシはキーボードでいろいろプログラムを起動したかったんじゃよー、ありがとうエラい人!
ちと気になって聞いてみたら、彼はどうやら論理を理性と取り違えていたみたい。 文系も学問として、私が考えるように(あるいは私が考える意味での)論理で成り立っているようだ。 良かった良かった。
顔の中のパーツはそこそこ形を取れるようになったと思う。 今のボトルネックは髪と服。 その次に掻き分けだろうな。
「千招を知る者を怖れず、一招に熟練する者を怖れよ」という。 さて、シナリオを作る能力ってどうやって伸ばせば良いのだろう?
シナリオにもいろんなレベルとか技術があるんだろう。 暫く考えるようにしてみよう。
研究室の後輩なんかが来てキムチ鍋。
連載漫画は左始まり左終わりの奇数ページで描くべきだろう。 右始まりの漫画というのは「めくったら始まっていた」という唐突な印象を与えるので、これは連載でも読切りでも関係なく左始まりにしたいところ。 終わりに関しては、右終わりというのはあまりにもおさまりが良すぎる気がする。 左ページに漫画がないという情報によって「そこで終わっている」という安心感が安定感を生むのではなかろうか。 連載における次回へのヒキというのは「来週分をめくりたい」という気持ち、つまるところページ単位のヒキの延長であると言える。 最後のページをめくってすぐにその1ページで「めくりたい」という気持ちを盛り上げるより、2ページかけて盛り上げる方が容易だろう。
ただし、月刊誌連載の一話完結物のような、一話一話のつながりが弱いものは右終わりにしてキチンと終わった感じを出す方が良いだろう。
Microsoft Service for UNIX(SFU)3.5が無償化。 以前雑誌で特集が組まれていたので気になってはいたのだが。 ということで落として試してみる。
しかし、俺の気のせいかな? 昔の Microsoft だったらこういうことしない気がするのだが。 ネットワーク系の技術に関しても自分とこで新しい技術を定義して旧来の技術は無視するみたいな方針だと思っていたのだが。 エラいし有難いし嬉しいし、消費者としてはまさに「やって欲しいことをやってくれた」という感じなんだが、これによって Microsoft はどういう利益を得るのが目的なのかというのが素朴に疑問に感じるところ。
樹山氏は漫研に入って10年で1000ページ描いたそうだ。 俺は5年間で250ページそこそこしか描いていない。 そこをつっこまれ、もう恥じるしかないという状況。
今年の1回生とか凄いと思うのは、1年で100ページを軽く越えるだけの量を描いてるということ。 うん、だけどね、250ページと1000ページに差があるんだったら、250ページと100ページにも同様の差があるんだろうんな、ということ。 1000ページに対して250ページの俺は「これだけしか描いてない俺が偉そうなこと言うべきではない」とか思ってしまったけど、100ページの彼らの参考にはなるんじゃないかと思う。 実際には役に立たないかもしれないし、その可能性の方が高いだろう。 だが、その判断は受け取り手にしかできないことだし、役に立たないならば「馬鹿な事言ってる」と吐き捨てれば済む話だ。 その時点、その時点で「彼らの役に立つかもしれないこと」を垂れ流し続けることが俺の役割なんじゃないかと思う。
俺自身もまだ、頑張りたいんだけれどもさ。
「ぶっちゃけ俺の漫画ってどうよ」ということを某氏に無理矢理白状させると、「良くも悪くも地味」とのこと。 なるほどなあ、と膝を打つ。 自分じゃ全く分からんかったです。
どんなに地味な話でも演出によって熱く見せることはできるし、そういう「動」の部分のメリハリが効いた物の方が俺自身の好みにも合いそうだ。 うん、頑張ります。
重ねて線を引いてみる、が、やっぱり線がビビる。 何の気なしにサクッと引いてみた中の一本がスゴく綺麗に引けた。 この線ガンガン引きたいなあ。 「おっかなびっくり引いたら線が死ぬ、思い切ってガリッと引かんと」というのを誰かが言うてたなあ。
裏トレスをやってみる。 「左右の歪みがよく分かる」というのがその効果の一つなのだが、私の絵はあまり左右で歪んでない(と思う)ので、この点はそれほど重要ではない。 単純に、一回の下描きで2回ペン入れの練習が出来るというのが一番のメリットだと思う。 ……まあ、それだったらトレスすれば一回の下描きで何度でもペン入れできるんだけど。
研究室の停電復旧。 今日のトラブルは、 DHCP の設定が一定時間巻き戻っていたということ、ハブが故障したということ、計算機が故障したということ。 やっぱ仕事で使う機械はそのもののスペッックと価格以外に「故障しない」という性能が非常に重要ですね。
私が必死こいてトラブル対策してる間に、本来責任のあるとされている人間がホゲっと自分の計算を投げていたのにちとカチンと来た。 まあトラブってるということを知らなかったとか、対トラブルのスキル的に結局俺がやるしかないとか、他の人が何人いても作業効率が悪くなるだけだとかを考えるとそれが最適解であったことは確かなんだが。
私がいなくなった後のことを考えてると「彼」の対トラブルのスキルを磨いておく、を優先しておいた方が良かったか? だけど、「彼」が来たの午後なんだよな。
樹山氏のプリントアウトした枠線だけ引いてある手製原稿用紙を見て、「ああ、俺も昔こんなの作ったなあ、あんときは K6II-400MHz だったなあ」とか感慨にふける。 しかし樹山氏の「いや、ペン入れもトレスもしないよ。ある程度下描きしたらスキャンしてPC上でペン入れする」という方式に目から鱗が落ちた。 成程、スキャンしたものをそのまま使わないんだったらゴミは入らないし、スキャン時の歪みはペン入れ前に画像回転すれば良い話だ。 入り抜きの入る直線もタブレットの上で定規を使えば行けそうだ。 もっぺんこの方向を試してみようかな。
呪われる夢。 一月前から住んでいるらしい私の下宿の、直前の住人がこの部屋で自殺したとか、それは私が入居する数日前だったとか、私の部屋には抜け穴があるとか。 「次に入る人には契約前にそゆこと言わんならんのちゃうんか?」と聞いたら、「いやもうあなた住んでるでしょ、今さらそんなこと言うてもしゃあないで」とか言われた。 何か謂れのある土地らしく、部屋に抜け穴があるらしい。 そいで抜け穴を覗いてみるとカビくさい臭いがした。 何故か知らんが私が呪われて、それをどっかの寺に持ってく話。
私の夢には臭いが伴うらしい。
学会発表練習準備。 「一度別の学会で発表した内容だし」とか思っていたら結構大変。 いつもどおり一杯一杯。
学会発表練習失敗。 「おまえは何を言うてるんや」みたいな。
無能感にとことん呵まされる。
教授宅訪問。 美味いビールと美味い酒を頂く。 が、残念ながら完徹開けで体力が持たず、ちと眠ってしまった。
しこたま寝る。 ヤな現実には目を逸らしちゃえ。
復刊ドットコムから『超兄貴』が届く。 3/25発売で当日届くってスゴいなあ、と思ったのだが、そのあとがき漫画で「今日3/15」というセリフが出て来たのが非常に生々しくて、スゴいなあ、とまた思った。
本当に原稿修正進まんかった。 ホンマに逃避したらアカンがな。
やっぱタブレット難しい。 慣れたらもっと使えるのかなあ。
「絵の得手不得手は漫画の本質ではない。 福本伸行を見ろ、あんなに絵が下手なのにあんなに面白い漫画を描くじゃないか。 絵が下手なのは恥ずべきことではない」 と、いつも口では言うてたけど、自分の事として理解してなかった。 やりますよ、恥ずかしくないですよ。 と、今スゴいヤル気満点。 さっさと発表原稿完成させて漫画描く準備しよう。
とりあえず、高橋陽一も川三番地も、絵という点において俺には馬鹿にする資格がない。
遅くなりましたが、先週土曜日の城本氏無念のダブル役満不発。
気がついたら明け方だったので、そのまま研究室。 18:00ころまで発表原稿修正して、帰る。 でも21:00からカットモデルなので眠れず。
買ったもの
他人の日記にツッコむて勇気がいるなあ。 まあ意見交換くらいのつもりで軽く言ってみよー。
源次物語 2004年3月26日
学生と社会とでは構成している人間が違うということは、多分彼も分かってるとは思うのでコメントだけに留める。 だけど、私には何故女尊男卑なら良いのかがサッパリ分からん。 私にとっては男尊女卑と同程度に不愉快なんだが。
あと、男性と女性は基本的に等価であるべきだとは思うけれど、女性は妊娠・出産するという性差が厳然として存在する。 男性が主夫やってる家庭で女性が妊娠したらその間の稼ぎはどうするのか。 男尊女卑とは別の問題で、生活が安定しないのが主要因だと思う。 だから私は「そういう家庭もありうるだろう」とは思うけれど、「そういう家庭がもっと普通にあってしかるべきだ」とは思わない。
学校行って発表原稿。 最低限は仕上がった。 でももうちょい詰めが残ってる。
→源二郎氏。
あ、すんません、誤読しとりました。
眠くなんないのでコンテ切ってた。 また8ページになりそうな予感。 ……てゆーか、8ページになった。
人によって物の見方が違うとかいうのはまあ当たり前の話で、誰かの見方を強制するのはまんまファシズムだと思う。 唯一絶対の価値観が、この世の何処かにあるわけがない。 仮にあったとしても、少なくとも現時点で人間がそこに到達できているわけがない。 唯一絶対だと思ったとしても、それはその人にとっての「唯一絶対」なだけで。
じゃあ他者との違いを認識したときにどうすべきかと言うと、「違うのは当然だから放置」というのはあまり良くないと思う。 まあ確かに多元的な価値観を認めるならば「俺も正しい、彼も正しい」というのは十分ありえるのだが、せめてその差異が何に起因するのかくらいは把握したい。
他者との差異という刺激を受けたときに、その差を大事にして自分の立場を見直さないというのは、現時点の自分の立場の正しさを盲信しているのではなかろうか、という気がする。 私は自分の立場にそれほど自信がない。 知らないことも多いし。 相手の価値観に納得するならばそれを自分の物にしようとするだろう。 あるいは自分の納得するように作り変えるだろう。 そうすることによって価値観の差はなくなってしまうが、その方が「それまでの自分の立場が常に正しい」と固執するより、あるべきあり方だと思う。
……という立場の取り方も価値観の一つなので、より妥当な立場の取り方があるのかもしれませんが、現時点では私はこの辺が妥当なのではないかと思っているわけです。
いや、単に最近見るギャルCGで俺のストライクゾーンはこの辺か、と思っただけなのですが。
「自分の意識って何だろう?」と暫く考えてみたけど非常につまらん結果しか出なかった。
少しダルめだけれど大したことない。 一応準備完了。
Libretto の FreeBSD が不調。 何かの ports (多分、XFree86回り)を upgrade したら libexpat が壊れたらしい。 ふー、どうしようかなあ、持って行くのやめよかなあ。
ほでは、明日から暫く京都を離れます。
始発バスで適当に新幹線に乗って東京。 現地には10:30ころに到着。 しかし、来る前に乗換えとかキチンと調べとかんとアカンわな。 品川←→東京を無駄に往復して30分くらい無駄にした。
午後イチのセッションで私の発表は終わってあとは先輩とボーッとコーヒー飲んだり。 ポスターセッションを一通り眺めようとしたけど狭すぎて通り抜けることすらできず。 スゴスゴと引き返した。
発表とか内容はまあ大体問題ないんだけど、もちっと、他の人、大多数である実験屋の人達の考え方の背景を知らなくてはならない。 でなければ、「お話にならない」。
大井町付近で漫画喫茶を探すが見つからず、仕方ないので STARBACKS COFFEE でコーヒー一杯でダラダラ寝たり本読んだりで時間を潰す。
家主と落ち合い、メシ食って帰る。 持って来たヲタ系動画、スキージャンプペアはやはり喜ばれた。
学会2日目。 私ゃもう義務は終わっているので研究室の後輩の発表を聞きに。 片方は英語で質問されてた。 俺、英語で聞かれたら「あー、うー」しか言えねーよ。 かなり後輩を尊敬した。
もう片方は質問がなかった。 座長も質問しなかった。 ウチの学会は何も質問がなければ座長が質問するモノなんだが、それもなし。 なんかビックリ。
メシ食ったら天気良いしー。 関係あるセッションもないのでサボって浅草をブラブラする。 桜は七分咲きといったところ。 できればスニーカーで歩きたかったが荷物が増えるしその辺しゃあない。
宿の近くまで来て漫画喫茶を探して歩き回るがサッパリない。 でドトールでコーヒー片手に本読もうと思ったら、禁煙席が奥まったところにあって狭いし、何より携帯の電波が届かない。 30分と居らずに退場。 ブックオフで立ち読みが結局一番正しかったようだ。
焼肉奢って貰った。 泊めてもらってるのは俺なのに。 ありがとうございます。 それはそうと、米とマッカリとにんにくの胡麻油煮とチシャ味噌が美味かった。
もう一人呼び出してダラダラする。 スキージャンプペアはやはり喜ばれた。 DVD版、買おうかなぁ。