旅日記番外 津軽海峡編


 2000年という年は、船木選手のファンだった人にとって、特別な年だったと思うが、私も、壮絶な年末をすごしていた。

*****北海道はでっかいどう(by村上ショージ)*****

 船木選手の、日本武道館での引退式は、12月の4日、月曜日だった。何で平日やねんと、ツッコミを入れるゆとりさえ、当時はなかった。6日から、職場の人達と、北海道へ職員旅行に行く手筈になっていたからだった。
 夜の試合を観てから愛媛に帰ることは、どうしてもできないが、翌日も休んでしまえば、一週間丸々出勤しないことになってしまう。それなので、4日は昼まで仕事をしてから上京し、5日の朝に帰郷して、昼から出勤した。

 船木選手の引退式は、とても感動的だった。月曜日だったせいか、日本武道館は満員にはならず、それは別にいいんだが、船木選手が、挨拶のとき、
「満員にはなりませんでしたが・・」
 と、思い切り言ってしまったのはどうかと思う。そんなことも、今となってはいい思い出だ。船木選手は、
「ここにいるお客さんの顔を、目に焼きつけておきたい」
 と言って、リング上から、四方を見たので、私は、ぜひ私も焼きつけてもらいたいと思い、最前列の席で、身を乗り出したが、この日のために駆けつけた藤原組長の陰になって、船木選手から私は見えなかった。そのせいもあって(ないけど)、私は、泣きながら、武道館を後にした。帰り、地下鉄の駅の階段の壁に、あゆの歌の詞が書かれたポスターが貼られていた。「一つの時代が終わったのを/ぼくはこの目で見たんだよ」と書いてあった。

 6日、職場の人達と、札幌に向けて飛び立った。その日は、お約束の、時計台や、大通り公園のホワイトイルミネーションを観光したが、北海道ははじめてだったので、とにかく寒いのに驚いた。地元の何もない道でも転ぶことがある私が、転ばずにすむはずもなかった。夜はマイナス8℃まで下がり、真剣に、凍死するかと思ったが、着ぶくれているのは私達だけで、地元のOLさんは、普通のコートにパンプスだし、女子高生にいたってはナマ足だった。ありえない。あんなにたくさんの雪をはじめて見た。街路樹に、ナナカマドという、愛媛ではあまりなじみのない樹が植えられていて、その赤い実に雪が積もって、お菓子のようで大変美しかった。

 7日は函館に行った。夜景を見に山に上がる前、港に寄って、港に立てられた、巨大なクリスマスツリーを見学した。何でも、毎夕、ツリーのイルミネーションの点灯式があるらしい。それは見なければと思い、待っていると、サンタ(着ぐるみ)が現れて、観客の中から、子ども達を選んで、点灯スイッチのところに連れて行った。
「さあ、いよいよ点灯です!みんなでボタンを押しましょう!」
 という意味のことを、サンタがマイクで言うのだが、あまりの寒さのためか、噛みまくり、何を言っているのかよくわからず、気分がぶち壊しになった。

*****津軽海峡冬景色(歌碑もあった)*****

 本来、8日に、東京で会議があって、職場の人達は、それに出席するついでに旅行を計画したのだったが、私は出席しなくてもよかったので、8日からは別行動をとることになっていた。9日に、青森県武道館で、船木選手の、青森での引退式があることになっていたから、8日のうちに、青森に渡ることにした。

 高校時代の友達で、Sちゃん(神戸ファッションマート大会の巻に登場した友達とは別人)という、青森にお嫁に行っている人がいるので、8日は、彼女と会うことにしていた。と、Sちゃんから携帯に電話があり、函館〜青森間のJRが、事故で不通になっているという。私は、深く考えず、
「じゃあ、フェリーで行くよ」
 と言ったのだが、Sちゃんは、フェリーは、乗り物酔いのひどいカマちゃんには無理だと言う。鏡のようにおだやかな瀬戸内海しか知らない私は、大丈夫だと言い張ったが、Sちゃんは、絶対に駄目だと止める。飛行機で行くお金もなかったので、とても困ったが、何とか、昼過ぎに、単線だけ復旧したので、JRで行くことにした。

 函館から青森に渡るときは、絶対、ドラえもんの絵が車体に描かれた「海峡ドラえもん列車」に乗って、「竜飛海底駅」で降り、海底の駅を見ようと思っていたので、時刻表も調べていたのだが、ダイヤの乱れで、それらは夢と消えてしまった。どの列車も、海底駅では停車しないことになってしまった。でも、どうしても、海底の雰囲気を味わいたかった私は、列車が青函トンネルに入ると、開けられる窓を求めて、トイレに行った。

 函館のタクシーの運転手さんが、「青函トンネルの中は、湿気が多くて生暖かい」と言っていたので、期待してトイレの窓を開けると、本当に生暖かく、水のしずくが、トンネルの天井から、ポタポタ垂れていた。しばらくその空気を堪能し、やがて窓を閉めようとすると、閉まらない。あせって、しばらくガタガタやっていたが、どうしても閉まらないので、とうとう、
「オリャアー!!」
 と叩きつけたら、ようやく閉まった。ほっとして出ようとして、自分が、内鍵をかけ忘れているのに気がついた。誰も来なくて本当に良かった。開けられていたら、忘れられない思い出が残るところだった。

*****弘前の夜は雨だった(少し気温が高くて)*****

 9日は、弘前の青森県武道館で、船木選手の引退式。日本武道館でずいぶん泣いたので、もう泣かないだろうと思っていたのに、冨宅さんが、引退式のために、わざわざ青森まで駆けつけたのを見て、また泣いてしまった。同じ週に二ヶ所の武道館をめぐり、そのたびに号泣するのは明らかにおかしいが、4日は品川プリ○スホテル、6日は札幌プ○ンスホテル、8日は弘前プリン○ホテルと、同じ週に三ヶ所の○リンスめぐりも同時に行っている。もっとおかしいのは、弘前のプリン○ホテルは、○リンス系列じゃなかったのだ。いいのかそういうの。フロントの方は親切だったが。

 10日に青森を発った。Sちゃんは、青森空港まで見送りに来てくれた。青森から松山までは、直行便がなく、羽田で乗り継がなければならなかったので、羽田までは、選手と同じ飛行機になった。私は、おとなしく、ロビーにたむろしている選手達には気がつかないふりをしていたが、Sちゃんは、某グラバカボスと同じ名前なので、大声でSちゃんを呼ぶときには、それなりに気を使った。

 青森空港は、松山空港にこの十分の一でも積もったら、一機の飛行機も離着陸できないような雪に覆われていた。でも、飛行機は普通に、飛び立ったり下りたりしていた。私の乗った飛行機が離陸する前、また雪が降りだし、窓に雪がついて、生まれてはじめて、雪の結晶というものを見た。

 弘前の試合後の打ち上げに参加したとき、某パンクラススタッフの方が、
「これから、毎年、青森で大会を開催します」
 と、力強く宣言して下さったので、私はうれしくなり、青森空港で別れるとき、Sちゃんに、
「パンクラスの青森大会には、絶対来るけんね、毎年会えるよ」
 と言った。
 それから、彼女には一度も会っていないことは言うまでもない。
 



トップページへ戻る

「みか国」トップへ戻る