03.6.22 ステラホール大会

 四ヶ月ぶりの大阪大会で、テンションは高まるが、稲垣選手の引退試合とあって、いやがうえにも厳粛な気持ちになる。
 稲垣選手が引退してしまうのが、当日になっても信じられなかった。今でも信じられない(それはちょっと、現実から逃げすぎ)。

 試合前、冨宅さんは、橋選手と一緒に、チケット売り場で、前売りチケットを買ったファンに、ファンサービスを行なっていた。三時から四時までの予定だったが、冨宅さんは、写真撮影があって、三時半頃までいなかった。待ちきれなかったので、来週のU−STYLEのチケットをもらい、先に、橋選手のサインをもらおうとしたが、「冨宅が来るまで待った方がいい」と言われたので待った。ようやく冨宅さんが来て、冨宅さんに、チケットにサインをしてもらった。続いて、橋選手のサインをもらおうとすると、「冨宅だけにしといた方がいいんじゃない」と言われたが、もらわないのも失礼なので、裏にしてもらうことにした。橋選手は、大きな手で、小さなサインをしてくれた。縦2cm、横0.5cm程の、橋選手の選手生活で最小のサインとなった。

********************

 大阪道場の、武重選手のデビュー戦だったが、KOされてしまい、残念だった。試合直前の、スタッフ紹介の際、未だかつてないほど多数のリングドクターが紹介されたが、その多数の医者が全員緊張していて、KOという事態が起きてもなかなかリングに上がらず、すごく焦った、と、某レフェリーの方がおっしゃっていた。武重選手が大事に至らず、本当に良かった。その次の試合で勝った大阪道場の前田選手は、武重選手のリベンジを誓う旨のマイクアピールをしたが、その前に、医者に一言言った方が良かったのではないか。

 休憩明け、稲垣選手とも親交のある、日本テコンドー連盟T.K.Dによる、テコンドーバウトが行なわれた。勝った舘選手のセコンドには、シドニー五輪銅メダリストの岡本依子選手がついていた。私は、オリンピックのメダリストを見るのは、小学生の頃、近所の海水浴場の「子ども水泳教室」に行って、元水泳選手の鶴田義行さんに、平泳ぎを教えてもらって以来だ(ちなみに、鶴田さんが金メダルを取ったのは、昭和3年のアムステルダム五輪と、7年のロサンゼルス五輪で、私が教わったときはおじいさんだったが、水が怖くて顔をつけることもできなかった私を、一回の指導で、25m泳げるようにして下さった恩人だ)。

 稲垣選手の試合を観るのは、本当に久しぶりだが、この試合が終われば、稲垣選手は選手でなくなってしまうと思うと、感慨深く、見たいような見たくないような、複雑な心境だった。稲垣選手は、最後の試合まで、國奥選手にあわせて減量してきた。4分10秒、チョークスリーパーで敗れ、稲垣選手の選手生活は、スリーパーで始まり、スリーパーで終わったのだが、廣戸レフェリーは、勝者として、稲垣選手の手を上げた。
 試合後の挨拶も、稲垣選手らしい、誠実なもので、「選手は命がけでやっている」「プロレスラーは、体の強さだけでなく、自分への厳しさ、他人へのやさしさが必要だと思ってやってきた」「その通りの先輩に恵まれた」「これからはそんな後輩を育てたい」と、おっしゃった。いつかの試合後、「息が切れても心が切れなければ大丈夫だ」と、おっしゃっていたことを思い出した。
 集まった他の選手達と言葉をかわし、胴上げをされ、窪田選手に肩車をされて、稲垣選手はリングを去った。リング上に、橋選手と冨宅さんだけが、いつまでも残って、ファンや生徒さんに囲まれて去っていく稲垣選手を見送っていた。

********************

 試合後、七時から、梅田スカイビル・タワーウエストの36階で、稲垣選手の引退記念パーティーが行なわれた。梅田ステラホールは、同じタワーウエストの3階にあるのだが、私は、今回それと聞くまで、2階だと思っていた。いくら、2階部分が吹き抜けになっているとは言え、もう少し早く気づかなければいけないんだが。

 全選手参加で、にぎやかなパーティーとなった。山田さん、美濃輪選手も駆けつけた。スクリーンで、稲垣選手の過去の試合、旗揚げ戦での鈴木戦、船木戦、ステリング戦、シュルト戦、パンクラチオンマッチ等を振り返り、稲垣選手のコメントを聞いた。仙台でのシュルト戦の映像に、思い切り、私の声援が入っていて恥ずかしかったが、誰も気づいていないようでよかった。鈴木戦では、稲垣選手の青いパンツが食い込んで、絵に描いたような見事な半ケツになっており、会場にいた全員が、気になっていたに違いないが、司会の女性は、そのことには触れなかった。半ケツになっていたことは、あまりにも緊張していて「試合が終わって帰る時も気づかなくて、ビデオを観た時に、はじめてそれを知ったんです」と、98年発行の「格魂」で、稲垣選手が語っているので、本人も気になっていたに違いない。

 稲垣選手のコスチューム、ジャージ等のオークションもあった。黒ラメのタイツとレガースのセットは、私も思い入れ深い試合で着用されたものだったので、欲しかったが、人前でパンツを競り落とすのが恥ずかしいのと、競る相手が、漫画家のH先生では、勝ち目はないので、最初から参加しなかった。ちなみに、そのセットは二万円で落札された。
 スクリーンで、この場に来られなかった方からのメッセージが流された。バス・ルッテン、フランク・シャムロック、船木さん。ルッテンは、「いつかきっと復帰したくなるだろうが、その気持ちは胸にしまっておくことだ」と語り、シャムロックは、「いつまでも親友だ」と、呼びかけていた。船木さんのメッセージには、最後の方にピー音が入っていたが、あれは何だったんだろう。ちなみに、パーティーの最初の、鈴木選手の挨拶では、「稲垣と言えば思い出すのは、捨ててあるエロ本を拾って読んでいたことだ」と、涙なしには聞けないエピソードが披露されていた。

 この一日、大阪道場の方達の、温かいまとまりをしみじみ感じた。それも稲垣さんの人徳だろう。これからも、後輩の指導に汗を流す稲垣さんを応援していきたい。

********************

 翌週の29日、U−STYLE大阪大会が、梅田ステラホールで行なわれた。二週続けて同じ会場に行くのは、不思議な感じがした。
 若手選手がリングに上がってのルール説明、全選手による入場式が、パンクラスでは行なわれなくなって久しいので、何だかなつかしい。入場式で、Uのテーマが流れると、会場がいっせいに盛り上がり、手拍子が鳴り響いた。入場式の挨拶は、冨宅さんが努めた。「大阪では、はじめてのU−STYLEだが、皆が、また観に来たいと思うような試合をしたい」と、おっしゃっていた。
 パンクラス以外の試合を観るのは、久しぶりだったので、メインの冨宅さんの試合までは、精一杯楽しもうと思ったが、緊張のあまり青ざめ、楽しむどころではなかった。心強かったのは、近藤選手後援会「空我」のIT部長Mさんと、隣同士で観戦できたことだ。Mさんは、パンクラスTシャツにパンクラスジャージ、パンクラスキャップという、そのまま春の園遊会にも出られそうな正装だったが、私は、勇気がなかったので普通の服だった。

 冨宅さんの試合直前、稲垣さんが駆けつけ、ドアのところで観戦されていた。冨宅さんは、赤いパンクラスのガウンで入場してきた。冨宅さんのガウン姿、レガース姿を見るのは何年ぶりだろう。セコンドには武重選手がついていた。
 田村選手が入場してくると、会場が大変なことになった。田村選手のオーラはさすがだと思ったが、なぜ、あんなに、おじぎの角度が、必要以上に深いのかはわからない。
 冨宅さんは、開始すぐにラッシュをかけたが、田村選手にかわされた。田村選手の蹴りで、冨宅さんは何度もダウンしたが、その度に立ち上がる。涙が出そうだった。3分8秒で、5つのダウンを取られ、負けてしまったが、こんなに冨宅さんの気迫を感じた試合は久しぶりだった。苦しくて、嬉しかった。二月の試合後の、冨宅さんのインタビューを読んだときは、本当に本当に心配で、辛かったが、こんな試合が観られるなんて思わなかった。

 試合後、冨宅さんは、田村選手と握手して、人差し指を立てて見せていた。あれは、「もう一回やろう」という意味だと思ったが、どうなんだろう。私の解釈は当てにならないので有名だ。98年に、道場対抗戦で鈴木選手に勝ったとき、冨宅さんは、指を一本立てて観客にアピールし、それは、「東京道場の一勝だ」という意味だと、誰もがわかっていたのに、私一人だけが、「おれはこんなもんやないで、チッチッチッ」とやっているんだと思い込んでいたことがある。

********************

 私が、フェリーで上陸する大阪南港には、待合室に水槽が置いてあるが、二月に上阪したときには、熱帯魚がいたのに、6月22日には、海亀の子どもが飼われていた。七匹いたのだが、29日に上阪したときには、四匹しかいなかった。水槽の横に貼られた、飼育状況のチェックシートに、「エサを十分にやってください。弱い個体がエサになっています」と書いてあったが、そういうのは、一般的には「共食い」と言わないか。
 来週、7月6日、大阪道場で、JTC関西大会が行なわれるのを観に、また上阪するのだが、そのときに亀が何匹残っているか、見るのが恐ろしい。


トップページへ戻る

「パン窓」トップへ戻る