97.8.9 梅田ステラホール大会

 Sさんについてきてもらった初観戦から一か月後、はじめて一人で、福岡の博多スターレーンに、パンクラスを観に行った。試合前、JR福岡駅からキャナルシティ博多に行こうとして、まっすぐ歩いていたつもりが、なぜかまた福岡駅に帰ってきてしまう、試合中、カメラの電池が切れる、ウェスリー・ガサウェイとブライアン・ガサウェイの見分けがつかなくて混乱する、試合後、帰りのフェリーに乗り遅れかける、などの微笑ましいエピソードを残しながら、帰ってきた。冨宅さんは、バス・ルッテンと試合をしていた。

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 その福岡行きのとき、病気になりそうなほど緊張したので、こんなことでは、関東に観戦に行くことは無理だと思い、どんなことがあっても、関東には行かないことに決めた。今にして思えば、一度、関東に行きはじめたら、金がもたなくなるので、無意識のうちに歯止めをかけようとしていたのかもしれないが、そんな歯止めは、風邪をこじらせてから飲むルルくらい効かなかった。一か月後の七月、広尾にP,s LABができて、なぜかファンクラブだけでは飽き足らず後援会にまで入会していたために、道場開きに招かれてしまったからだった。

 まだ二回しか試合を観ていない人間が、道場開きに行くなんて、生まれたての子馬を有馬記念に出走させるようなものだが、行くことにしてしまった。出発の一週間くらい前からおなかが痛かった。東京に行くのは、高校の修学旅行で皇居に行って以来だった。着て行く服に迷い、職場の友達に、「格闘技の道場開きには、どんな服着て行くんがマナーなんやろ」と聞いたが、誰もそんなことわかるはずもなかった。広尾駅からP,s LABまで、普通の人なら五分で歩いて行けるところを、四十五分かかってたどりついた。広尾駅で、安田拡了さんを発見したので、「ついて行ったら着ける!」と思ったのに、尾行に気づかれたのか、まかれてしまったのだ。

 そこで、船木選手と二人で写真を撮るという念願がかない、帰りの飛行機が落ちて私の遺体が事故現場から発見されても、遺体の顔は笑っているだろうと思うほど嬉しかった。Sさんの忠告を忘れて、鈴木選手にも写真を頼むと、鈴木選手は、横浜育ちのカンで、私が田舎者だと見抜いたのか、やさしく対応してくれ、私を感激させた。

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 そのとき、「どうしても冨宅さんとも写真が撮りたい」と思っていた記憶があるので、この時期に、ファンになりかけていたと思うのだが、一か月前の博多では、特に冨宅さんの試合を意識して観た記憶がない。この六月と七月の間に何があったのか、もうボケかけているので忘れた。

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 幸せなことに、道場開きに行ったことで、後援会の中に知り合いができた。なので、八月の梅田大会は、その方と一緒に観戦したが、会場に行くまでは別々だったので、ステラホールまで一人でたどりつかなければならなかった。JR梅田駅の近くらしいから、駅の地図を見ればわかるし、わからなければタクシーの運転手さんにでも聞けばいい、と、迷子のプロのくせにタカをくくって出かけたが、地図を見てもわからず、タクシーの運転手さんに聞いても誰も知らず、途方にくれてしまった。ステラホールの入っている「スカイビル」と言えばわかったんだろうが、そんなこと知らない。交番で聞いて、何とかたどりついた。

 その日は、はじめての、東京VS横浜の道場対抗戦だった。現在のような、ismVSグラバカなら、まだいいけど、私は個人的に、当時の道場対抗戦が、最後まで好きになれなかった。が、このときははじめてなので、とりあえず興奮していた。

 冨宅さんは、UWFのテーマで入場してきたが、当時の私には何の曲かわからなかったのは言うまでもない。冨宅さんは、窪田選手に勝ち、それからマイクを握ると、
「勝とうが、負けようが、まだまだ引退なんかせえへん、やめてたまるか!」
「ここのリングは僕の人生なんですよ」

 と、涙声で叫んだ。
 
 この日は、三勝一敗で、東京道場の勝利に終わった。勝った東京道場の選手一人一人が表彰され、GAORAからメダルが贈られたが、プレゼンターの方が、冨宅さんの名前が読めず、つかえてしまい、見かねた客席から、「たかく!」と、助け舟が出された。そのあと國奥選手が表彰されるときには、早めに、客席から、「きうま!」と声が飛び、プレゼンターの方はほっとなさったに違いない。

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 台風が近づいていて、スカイビルのあたりも風が巻いていた。
 その夜、フェリーで大阪を発った。翌日の朝、松山に着くフェリーだ。
 親戚が、そのフェリーの船長をしていたので、操舵室に入れてもらったが、操舵室は、海面から、十メートル以上の高さがあると思うのに、窓に波しぶきがかかっていた。大きなフェリーだから、普段はほとんど揺れは感じないが、この夜だけは違っていた。汗を流そうと、大浴場に行くと、誰もいなかった。気持ち良く一人で湯船につかっていると、フェリーが大きく揺れ、湯船が、ありえないほどタップンタップン波立ち、小柄な私は端から端まで流されて、あちこちにぶつかり、タイルで擦り、とても痛かった。

 風呂で流されたことと、冨宅さんの涙が忘れられない、真夏の旅だった。
 冨宅さんの言葉を聞いているとき、「ああ、私は、この人のファンなんやなあ」と思った。
 どうしてかはわからないが、まあ、そんなもんかもしれない。



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