大和水銀鉱山  奈良県宇陀市菟(う)田野区大沢   1/1   
     (やまと すいぎんこうざん)
                                  探 訪 日  2007年2月
 近畿地方、時に奈良と三重には水銀鉱脈が多い。特に有名なものは奈良県宇陀郡(現在の宇陀市)周辺、そして三重では勢和町の丹生鉱山がある。もちろんすべて閉山である。今回は奈良の宇陀郡にある”大和水銀鉱山”跡に行ってきた。現在ここは産廃や環境調査事業の「野村興産」というかつて北海道で水銀鉱山を経営し現在は国内唯一の水銀リサイクル事業をしている元親会社に吸収合併されている。
 もともと奈良県宇陀郡という地域は万葉集の「大和の宇陀の真赤土(まはに)のさ丹(に)つかば・・・・云々」という歌にもあるように古代から水銀産出の多い地域である。(”丹”というのは水銀の意味である。) 水銀採掘はその後も続いていたと思うが特に明治に入ってからは政府の植民地政策であらゆる金属の増産が叫ばれ水銀も例外ではなかった。一例として爆弾製造や軍艦など船舶の塗装に貝殻が付着しにくいように水銀入り顔料を使っていた。他にも金や銅など金属の精錬にも大量に使用していた。また太平洋戦争中はここも例外ではなく労働力不足で主に朝鮮からの強制連行者で補なわれ大和水銀鉱山と神生水銀鉱山の2鉱山だけでも少なくとも100名以上の朝鮮人が過酷な労働を強いられていた、と菟田野町教育委員会の資料にもある。  鉱山の話に戻る。
 この地域の鉱脈開発は特に明治以降積極的にされ五代友厚氏など幾人かの人々がいくつかの採掘事業を行ったが1909年(明治42年)、岡山県人の景山和民氏が大沢地区に有望な露頭を発見。この鉱脈が後の大和水銀鉱山の基礎になる。露頭発見後、製錬所も建設し水銀生産を開始。その後大和鉱業、宇部曹達工業と経営が変わり1955年、閉山まで続いた大和金属工業の経営となる。しかしその後積極的に鉱脈開発や製錬の近代化などをおしすすめ一定の成果を得たがいかんせん自前の採掘量不足を補えず1964年ヨーロッパから水銀鉱石の輸入を始める。がこの輸入鉱石が普通以上に不純物の多い鉱石で製錬の過程で大量の有毒物質を排出。それが周辺住民に被害を及ぼし結局、住民への補償や環境の改善などに尽力したが鉱山の存続にはいたらず1971年(昭和46年)水銀生産から撤退することになる。





 桜井方向から宇陀市に入って国道166号線の「水分橋南詰」交差点を左折。県道218号線をちょっと行くと製材所があり写真の場所に来る。(今回は写真が少ないので似たような写真もアップしています、ご了承を。)鉱山はこの右側になる。 


看板どうり。”野村興産(株)ヤマト環境センター”だ。ここを右折するとすぐに下の写真の場所に来る。 


  ゲートが閉まっていた。ここから中をあんまりじろじろ見るのもちょっと気が引けるし通報でもされたらまた説明するのにやっかいだし、ということで早々に退散することにする。 


 閉まっているゲートから撮った中の様子。静かで大変にキレイな敷地内だ。この敷地内のどこかに水銀の坑口があるのかと思うと是非、見てみたいが。しかしそれはかなわぬ夢か。会社に正面から見学を申し込んでも小中学校の社会見学ならいざしらず私たちのように単なる趣味の愛好家ではそれも門前払いだろう。あきらめるしかない。かつての精錬所の場所はたぶんこの写真の正面、1本だけちょっと背の高い杉らしき木があるがその下あたりではなかったかと思う。ここからではその片鱗さへわからない。 


 1960年(昭和35年)当時の操業中の精錬所の様子。小生にはよくわからないが銅や亜鉛などの精錬所はもっと大規模だがこの写真のものはそれほどでもなさそうである。事業所の規模の違いからか?あるいは水銀の場合はそんなに大きなものは必要ないのか。専門外なのでよく分からない。 


 会社の裏側から見た様子(南から北を望む)。まわりがあんまり静かで人がいないのでかえってカメラを撮るにも気が引ける。あんまりずうずうしいことはできない。もっと若ければ、と思うがこればっかりはどうしようもない。  


 この辺り一帯は林業が盛んなのか写真のような光景が至る所に。ここは鉱山と道路を挟んですぐ隣である。あるいはこの木材置き場もかつての貯鉱所だったのかもしれない。根拠のない推測だが。 




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