近畿地方、時に奈良と三重には水銀鉱脈が多い。特に有名なものは奈良県宇陀郡(現在の宇陀市)周辺、そして三重では勢和町の丹生鉱山がある。もちろんすべて閉山である。今回は奈良の宇陀郡にある”大和水銀鉱山”跡に行ってきた。現在ここは産廃や環境調査事業の「野村興産」というかつて北海道で水銀鉱山を経営し現在は国内唯一の水銀リサイクル事業をしている元親会社に吸収合併されている。
もともと奈良県宇陀郡という地域は万葉集の「大和の宇陀の真赤土(まはに)のさ丹(に)つかば・・・・云々」という歌にもあるように古代から水銀産出の多い地域である。(”丹”というのは水銀の意味である。) 水銀採掘はその後も続いていたと思うが特に明治に入ってからは政府の植民地政策であらゆる金属の増産が叫ばれ水銀も例外ではなかった。一例として爆弾製造や軍艦など船舶の塗装に貝殻が付着しにくいように水銀入り顔料を使っていた。他にも金や銅など金属の精錬にも大量に使用していた。また太平洋戦争中はここも例外ではなく労働力不足で主に朝鮮からの強制連行者で補なわれ大和水銀鉱山と神生水銀鉱山の2鉱山だけでも少なくとも100名以上の朝鮮人が過酷な労働を強いられていた、と菟田野町教育委員会の資料にもある。 鉱山の話に戻る。
この地域の鉱脈開発は特に明治以降積極的にされ五代友厚氏など幾人かの人々がいくつかの採掘事業を行ったが1909年(明治42年)、岡山県人の景山和民氏が大沢地区に有望な露頭を発見。この鉱脈が後の大和水銀鉱山の基礎になる。露頭発見後、製錬所も建設し水銀生産を開始。その後大和鉱業、宇部曹達工業と経営が変わり1955年、閉山まで続いた大和金属工業の経営となる。しかしその後積極的に鉱脈開発や製錬の近代化などをおしすすめ一定の成果を得たがいかんせん自前の採掘量不足を補えず1964年ヨーロッパから水銀鉱石の輸入を始める。がこの輸入鉱石が普通以上に不純物の多い鉱石で製錬の過程で大量の有毒物質を排出。それが周辺住民に被害を及ぼし結局、住民への補償や環境の改善などに尽力したが鉱山の存続にはいたらず1971年(昭和46年)水銀生産から撤退することになる。 |
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