長生炭鉱    山口県宇部市西岐波大沢  1/1
    ちょうせい たんこう             Photo : 2008.04



・採炭種=褐炭(亜炭)
・開抗=1914年(T3)〜閉抗=1942年(S17)
・経営企業=現宇部興産
 長生炭鉱は1914年(T3)に開坑された宇部炭鉱群の中では比較的新しい海底炭鉱である。1914年に開坑され1942年(S17)に落盤、水没事故により閉坑された。他のページでも書いたがもともとこの周辺の宇部炭鉱群は周防灘の海底でも比較的浅い層に石炭層が集まっていたためどうしても海水圧の影響を受けやすく落盤事故や浸水事故が後を絶たなかった。特に大きな事故では長生炭鉱の閉坑原因になった1942年2月落盤、水没事故での183名死亡、1921年(T10)新浦炭鉱で浸水事故で34名死亡、1915年(T4)東見初炭鉱事故で235名死亡など海底炭鉱故に事故が多発した。事故が多かった背景には海底だった以外にも石炭の種類が褐炭だったこともある。褐炭は水分など不純物が多くガスもよく発生する。それゆえピーヤのような吸・排気設備の徹底が急務だった。そして忘れてならないのはこれらの犠牲者の中に強制連行されてきた朝鮮人が相当数いたということである。特に’42年の長生炭鉱の事故では183名(確定分。一説では200名以上とも言う)の犠牲者の内140名近くが朝鮮人だったという。そして183名の犠牲者は未だに一片の遺骨すら引き上げられずにかつての坑道内に閉じ込められたままである。後に長生炭鉱のことを人は”朝鮮炭鉱”と言ったと言うがこういった犠牲者の多さがそう言わせているのかもしれない。
 毎年、事故のあった2月3日には現地で慰霊祭が行われているが日本人犠牲者の遺族はもちろん韓国人犠牲者の遺族も韓国から参列して日本政府と宇部市に遺骨の掘り起こしを請願している。が未だかなっていない。すでに遅きに失しているが何とかして早急に犠牲者の霊を弔ってあげたいものだが。そしてピーヤとその周辺の関連施設の永久保存を願いたいものだ。



拡大




 これが長生炭鉱のピーヤと言われるものである。ここへ来るまではもっと沖の方だと思っていたがなんと岸に近いことか。写真は潮が比較的満ちている時間帯だったがそれでも岸から100m前後ぐらいではないだろうか。こんなに間近にあるとはおどろきだ。そもそもピーヤとは海底炭坑の換気口でニ本あるのは吸気専用と排気専用である。ピーヤとはどういう意味なのかと調べると土木用語でなんでも桟橋とか埠頭とかそういう意味らしい。しかしこの煙突のようなピーヤの下に200名近い犠牲者の遺骨が存在場所もはっきりしているのに未だに放置されていると言うのは先進国日本としては恥ではないだろうか。


・L写真:沖側のピーヤである。すぐ近くで漁船が(当たり前だが)日常のことのように操業している。漁船側にしてみればさぞジャマな
     存在だろう。
・R写真:岸側のピーヤだ。どちらもかなり大きいものらしい。



防波堤の上からかつての炭抗住宅、事務所、斜坑口、貯炭場、食堂などが所狭しと建ち並んでいた道路右側の雑草が生い茂っているエリアを撮ったもの。ピーヤは写真左側の海のほうである。


  上下三枚は壊されずにまだ残っているかつての炭住である。見たところ今でも使われている感じだった。ただ住居用に見えたが物置用かもしれない。もうすでにほとんどの炭住は当然ながらない。広大な雑草地には所々に”ここには何が建っていたのかな?”と思わせる基礎らしい部分があるが当時を知っている方ならともかく我々には分からない。それでも想像を思いめぐらして当時の空気を感じることは出来る。


これが広大な雑草地だ。撮影ポイントは長生炭鉱殉難の碑の石碑の辺りから北東方向を向いている。右手が海、左のクリーム色の建物はパチンコ屋、そのすぐ右側をJR宇部線が走っている。上の写真の炭住は写真の真正面の方である。


・L写真:これはJR線と国道との間で見つけた炭住だ。相当傷んでいるので放置されているようである。この周辺にはいくつかの廃屋
    状態の炭住があった。
・R写真:JR宇部線だ。もちろん今でも現役の鉄道である。


雑草地の南西のはずれにある”長生炭鉱殉難者の碑”。 なんとなく犠牲者の石碑としてはさっぱりしすぎのような感じもしないではないが。手前の白い部分はなんでもこの場所が元食堂だったせいで水周りの床だったとか。私達が行った時も床にタイルが張ってあったので何故かな?と思ったものだ。タイルの上に石碑を建立したものらしい。


石碑の文面には簡単でも長生炭鉱の歴史や事故の内容、犠牲者の氏名など何も書かれていないので片手落ちだという声もあり新たに「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」が結成され今ももっときちんとした石碑を建立しようとの運動が展開されている。


 ”新浦”とは”新生浦”の略のことでしょうか?勝手な想像です。JR宇部線です。


 上の踏切りから海側へ100m程来たところ。炭住と墓地がたくさんある。写真の建物もかつての炭鉱住宅だ。


                                 訂正のお知らせ
長生炭鉱をよくご存知の読者より貴重な情報をいただきました。上の写真(下の内部写真も同)のかまぼこ型のコンクリート構造物を
”斜坑口”と記載していましたが実は斜坑口ではなく何かの倉庫だったとのこと。トロッコ軌道も荷物の出し入れに使っていたとのことです。ここに謹んで訂正いたします。貴重な情報ありがとうございました。 2013/3/26記。



これは長生より北東よりにある新浦(しんうら)炭鉱の犠牲者の「殉難者之墓」だ。石碑の裏側にも書いてあるものを読もうとしたが読めなかった。L写真はその隣にあった同じく「無縁(仏の)墓」。


長生炭鉱のすぐ隣、江頭川の河口南東部に写真の”新浦会館”がある(車の前の建屋)。ここはかつての新浦(しんうら)炭鉱の斜坑坑口があった場所である。ここから写真左手方向の海に向かって(下の写真の右手の小さなプレハブの右手に写っていないが新浦会館がある。)斜坑があった。明治初期に開坑された新浦炭鉱も1921年(T10)12月の暮れも押し迫った正月直前に大事故が発生。数十人の犠牲者を出した。この事故の後まもなくとなりの長生炭鉱に吸収された。
それにしても当地に来て歩いて分かったが何とお墓の多いことか。さほど広くない炭鉱跡地に墓石が数え切れないほど建立されている。炭鉱犠牲者だけではないにしろやはり事故の犠牲者が多いのだと思う。歩いていると遺族の方らしき人が墓参をされていた。  


床波漁港から西方向(宇部空港方面)を望む。左手の二個の赤い□がピーヤである。位置関係はこんな具合である。右のプレハブの周辺にかつての斜坑口やたくさんの墓、旧炭住、犠牲者の石碑などがある。




           HOME    1/1      
>おしまい<