TO I  KINZAN
 土肥金山 1/1
410-3302  静岡県伊豆市土肥2726     Photo : 2009.03



あまりにビックリなので実感が湧きません。
なのでフレームを付けました。(ナンノコッチャ・・・!?)
これって本当に金塊?鉄か鉛に金メッキじゃないの・・・? なんて疑うのはやめましょうね。
”そう、ホンマに金なのだ!!”と信じましょう。(アンタが一番疑がってない?。ガチョン!)  


                                


 土肥金山の歴史は古い。12世紀後期平安時代にはすでに金鉱床が発見されていたという説がある。14世紀の室町時代には採掘が始まっており戦国時代の1550年頃にはもう積極的に金山としての役割をはたし1577年にはいくつかの新鉱脈も発見され伊豆の支配者、今川家や北条家の軍資金になっていたという。江戸時代に入ってからは家康の命により大久保石見守長安(おおくぼいわみのかみながやす<”ちょうあん”と表記した資料もある>)を伊豆の金山奉行に置きこの頃より完璧に佐渡金山同様、徳川幕府の台所になる。
 1613年、大久保長安が没し(相当量の金の横領が発覚し一族郎党斬首の刑に処せられたという)その後しばらくして金山が衰退、1625年休山となる。 〜後略〜(下の”伊豆市指定、記念物 土肥金山”を読んでいただきたい)

  明治に入り探鉱の結果、有望鉱床を発見しヤマを再開。以降大正、昭和と続く。途中1932年から太平洋戦争を挟んで1959年まで住友鉱業が経営。同年から1965年閉山まで短期間だったが三菱金属が経営。以後三菱系列の土肥マリンに管理を任せ現在の観光事業に至る。
 坑道の総延長:約100キロ、最深部:海面下180m、生産量(推定)は金:約40トン、銀:400トン、となっている。(ついでに言うなら)銅と鉛も少量だが採れた。



                               


 R136を南下。土肥山川を越えたらすぐ左側に大きな”土肥金山”の看板が。すぐ分かる。  さすが元三菱経営です。看板も駐車場もバカデカ!。どんな大型バスや特殊車両でもOKですね。  金、きん、キン、kin、どこまで行ってもキンですね。いっそのこと駐車場にダンプで金をドバ〜ッと撒いてくれんかな〜。
”さ〜、今から10分間だけ砂金をよりどりみどり掴み取り自由!!好きなだけ持って行け〜!”式の出血大バーゲン?みたいなことしない?しないよね・・・・・。(0笑0)


 みやげ物、レストランなどなど。


 観光坑道入り口。立派!生野銀山もこんな感じの入り口じゃなかったかな?ここまでりっぱではないが。門番がいなかったかな。ここの門番はしゃべるんですよ。もち人形ですが。近づくと”おぉ〜、♪よう来たの〜、われ〜♪”じゃなかった、なんだったかな??忘れた。(ミス花子に聞いても分からんよね〜<笑>)
 冗談はさておいて、バックの山の中が金鉱床だ。帰りに売店の人に「かつての坑口や選鉱所その他の遺構なんかは見れませんか?」と聞くとはっきり「無理です!危険です。」といわれた。当然でしょうね。


なんとか読めるように加工しましたが・・・。


 これはなんでしょうか?崩れた崖の変わりにくっつけただけ?柵があったのでそばまで行けなかったが。  何でも金、キン、金尽くしですね。目がチカチカしそう。 でも”金山”ですからしようがないですね。泳いでる鯉も金では。(道理でモ−ターの音が・・・<笑>)


 観光坑道入り口。  入ったところ。


坑内温度は15.5℃。真夏でもだいたいこの温度ぐらいだ。坑道内はどこでもあんまり温度変化がない。一年中15℃前後で推移している。だからお酒の熟成にもってこいなんだろう。


 蟻の巣のように掘り進んでいく様子。地中深くなると送風しても行ききらず(当然だよね)酸欠で倒れる人足が多かったことと思う。  水汲み人足の様子。これは若干新しいやり方だ。木材を筒状に加工して弁を一箇所作り水鉄砲の原理で押したり引いたりして下から上に排水する。


 ・L写真:上の写真よりも古い水汲みのやり方。ちなみにこれは模型なんで明るいが実際には当時はほとんど真っ暗闇。わずかにサザエの殻に菜種油を染み込ませたボロギレに火をつけてそれを照明にしていた。想像できるだろうか?
 ・R写真:手回し式送風機である。どの程度効果があったのだろうか?換気は送気だけじゃなく排気の方が大事なんだけどねえ。


 ここまで曲がる?ギヤがひとつふたつ跳んでるのかも?あるいは分かってるがご愛嬌でそのままにしてる? 前の女性?の”注意”を引こうと思って・・・。(笑)
 にしても前の女性(人形)は美人でしたね。どこか有名ブティックに飾られていたマネキンでしょうか。(笑)


 いわゆる遊郭ですね。明日をも知れずいつ死ぬかもしれない金堀人足にとっては文字どおり”宵越しの金は持たない”んでしょうか。そんな単純な話ではないでしょうが。


 岩盤がしっかりしているんですね。だからこの程度の枠組で大丈夫なんでしょう。


 ・L写真:読んだとうりです。
 ・M写真:何故かここの観光坑道はいたるところ色っぽいですね。サービス満点・・・かな?でも時代考証的に見て髪の長いこんなスレンダーな女性がいた?おまけに地獄のような鉱山に・・・。まあ深く追求しないでおこう。
 ・R写真:江戸時代は混浴だったと言うがそのせいだろうか。


 当時19キロでは軽いのでは。別子銅山では男で45キロ、女で30キロを担いで銅山越えをしていたのだが。何が違うのだろうか。そのまま逃げる者がいて被害を最小限に抑えるため? まさかね〜。


だいたい何処でも似たようなものがあります。


 R写真の岩盤のUPがM写真です。この赤いのが金鉱脈ですって。


〜〜と言われてもね〜。全く実感が湧きません。ひょっとしてこの鉱脈はとなりの天正金山につながっているとか、でしょうか。


 親方:「〜お〜い、留(トメだったかな?)! 遅えぞ〜。なにをぐずぐずしてやがんだ・・・。早くしろい!」
 
留:「ああ〜、おっか〜に会いてえな・・・・・〜」

 というようなまあこんな感じの会話がスピーカーから聞こえてましたね。


 金山資料館と入り口の金鉱石。これで2、3トンあるんでしょうか?2トンとして品位0.002%として40gぐらいでしょうか。残りは多少の金属類を取るとしてもそのほとんどをズリとして捨てる。圧倒的に捨てる部分の方が多い。後の250キロの金塊の場合で計算すると同じ品位として約12.500トンの金鉱石が必要になる計算だ。


 まあ実にたくさんの金山があったんですね。青い○は私が実際に行った金山、黄色い○は資料館の資料にあった金山です。それにしても伊豆半島というのは金の多い地域なんですね。それも南半分に集中しているようである。(写真は合成写真です)


 こんな大判も小判も一般庶民は一生手に出来なかったんでしょうね。TVの必殺仕事人はしょっちゅう手にしてるけど・・・。それが酒に変わって・・・。


 なにやら非常にややこしいですね。


 後ろの人が”えっ、なにこれ!”って一瞬怪訝な顔をしてましたね。子供だと泣く子がいるかも・・・。
 もちろん金箔を作る光景ですよ。


 おもしろいですね。本当ならハカリがこんな風になる筈はないんですが。そこが”価値秤”の所以ですか。仮に30gと860kgで釣りあわせようとするなら柄の長さを何メートルまで延ばす必要があるのでしょうか?(アホなこと考えるのはやめましょうネ。シンドイデス)


 ・L・M写真:防犯ビデオ作動中、とあるが各地で盗難にあっているが。もっともこんなに巨大金塊ではないが。
 ・R写真:よくある実体験コーナーだ。12.5キロの金塊を左の穴から持ってみる。手首がグキッとこないように。



 終わりです。山の中に入りたかったよ〜。次回のたのしみにしときます。





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