山形県最上郡金山町谷口銀山 谷口銀山 Photo:2012年8月 (1/1) |
●主な採掘金属 :銀。 ●経営母体 : 新庄藩(江戸時代)。 山形、秋田、宮城の3県境付近に位置する谷口銀山は江戸時代に開削された銀山である。発見時期の詳細は不明だが最盛期は江戸時代の初期、1624年〜1652年(寛永〜慶安)の頃といわれている。当時、間歩(坑道)が66箇所あり銀堀小屋や遊女宿も多数あり毎日生銀33貫目(約125キロ)を生産し新庄藩の台所を潤したと言われている。廃坑になったのは1845年(明治維新の23年前)、やはり水抜きの難しさからと言う。ただその間の約200数十年間の採掘状況はわからない。 現在は貴重な歴史遺産を埋没させてはならないと1984年「谷口銀山史跡保存会」が結成され銀山の保存・維持・管理に尽力されている。 |
■左:国道13号線(羽州街道)を金山町に入りナビに従い右左折を繰り返していると”目的地周辺に着きました”との案内が。これが問題な んだな〜。目的地周辺に・・・云々と言われてもそこから先が???なことが多いんですね。同じ経験者も多いと思います。あれ、なんと かならないんでしょうかね・・・。まあとにかく写真の場所までやってきました。 ■中:目の前を通っているのに写真の標識が見えず地元の人を探し、”すみませ〜ん、谷口銀山は・・・?”、”そこですよ。あんたの横のそれ 〜”ってな具合に。そうなんです。目の前にあったのです。それが写真の標識と入り口の道路なんです。 ■右:車で入っていくとすぐ左手に「新大切敷(水抜き抗)跡」の標識が。”敷”と言うのはちょっと字が違うんですが坑道のことです。漢字変換 しにくい文字でいくつかの漢字が当てられています。矢印通り降りていくと下の写真の場所に着きます。先日You Tubeを見てると保存 会の方々が数人の希望者をこの坑道内に案内していました。内部は結構歩きやすく整備されてましたね。この坑口の反対側の坑口が 私も初めて知ったのですが上の写真の「谷口銀山入口」の標識からちょっと入った右手の道路脇にあったんですね。知ってたら必ず見 てただろうに。残念! |
しばらく降りていくとちょうど道路の真下あたりに新大切敷(坑道)跡がある。どうやらこの坑口は上の道路の銀山入り口近くに続いているようだ。 |
■左:坑内の様子。気温は低いが湿度(殆ど)100%状態。年中こんな状態だから支保坑はやはり松材が多いのだろう。松材の場合いは100年 位もつという。100年はオーバーだろうが他材木に比して長くもつらしい。足元には排水用のホースが走っているのが見える。 ■中:上の方の平らっぽい感じのところが道路。高さは10mぐらいあるだろうか。 ■右:”拾分壱跡”の石碑?詳しくは分からないが何でも10分の一払わないと出られなかった、からという。何が10分の一なのか分からない。 よくあるのは鉱山地区に商売に来た商人が帰りしなに儲かった分の1割払え!という言ってみれば”通行税”or”所場代”みたいなもの か。同じ山形県内の永松鉱山にもこんなのがあったが。 |
谷口銀山の案内説明板。奥の方に数百メートル入ると谷口銀山史跡保存会の方々の手で案内図が設けられている。ここでも矢張り坑内の水抜きが主眼目であったようだ。日本の鉱山の場合い露天掘りは少なく圧倒的に坑内掘りが多い。鉱床(鉱脈)というのは地下深くから火山活動や地殻変動その他で(堆積鉱床というのもありますが)地表近くに上がってきたもので最初に発見する部分は当然地表近くの鉱床の上部先っちょということになる。そのため掘り進んでいくと自然に地下深くになって行く(あたりまえの話です)。水抜きはそういう環境での作業で本業の鉱石採掘作業よりある意味もっと大変な作業であった。掘れば掘るほど深くなっていき出水量も多くなる。最下部での水抜きはもう大変なんてものではなかったようである。時代は江戸時代。何もかも全部人手頼り。挙句”水抜き抗”を掘ることになる。同じ例は佐渡金山でも南沢疎水抗があったし延沢銀山にも疏水抗があった。しかしそれでも水抜きの難渋で廃坑になったようである。 ちなみに水抜きの大切敷(未甲割)跡はこの看板の右手を川の方に下ったところ。 |
戦国時代の武将達が合戦の時よく見ているような絵図である。距離感や位置関係は説明に書いているようにあまりよく分からないが小さく”東西南北”(赤い下線)だけは書かれているのでそれを地図上でなぞってみると大体の場所は分かるのだろう。優良抗と言われた「傳助抗」と「勝抗」は絵図の真ん中あたり(青い丸点)がそれ。現在地は左手の赤い丸。 |
ここに書かれている谷口銀山発見者の金売吉次(かねうりきちじ)と言う人物は当時、奥州(今の東北)で採れた金、銀を都(平安時代)である京都までかついで運び商売をしたという商人らしい。ただ諸説がありそういう商人を総称して”金売吉次”と呼ばれたとも言われている。源義経との関係性は奥州と京都の間を行き来していたため奥州の藤原氏とも面識があったのか義経が奥州に下野するときに仲を取り持ったようだ。カネを求める者と権力を求める者の利害が一致したようだ。 |
上の案内看板から下へ降りて大切敷跡へ行く途中の様子。足場はあまりよくないので足元には要注意。 |
■左:水抜坑の大切敷(未甲割)跡。滝のすぐ左脇を抜いており坑口も坑道内部も結構大きい。この位置関係から察するに滝壷に排水し ようとしたのだろうか。 ■右:大切敷の内部の様子。土砂が相当溜まっているが右側だけを歩けるようにしたのだろうかそこだけ細い通路ができているようだ。 天井高もそこそこあるようだ。連れがいるなら入ってみたいものだ。 |