長崎県長崎市高島 高島炭鉱 撮影:2009年12月 |
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高島炭鉱は説明によると1695年に平戸の領民、五平太と言う人が最初に石炭を発見したと言われている。後、江戸時代は佐賀藩と英国人トーマス・グラバーが共同で採掘・経営をしていたらしい。明治に入り土佐の藩士、後藤象二郎が経営権を買取る。がなかなか経営がうまくいかずまもなく同じ土佐の出身、岩崎弥太郎(三菱財閥の創始者)に1881年経営権が渡る。同氏が経営に乗り出してからは採炭の効率化・近代化に尽力しそこへ時代も追い風になりその後、1986年閉山にいたるまで105年間の間に実に5500万トンもの石炭を生産した。なんと一日:1435トンの計算だ。 |
●L写真:長崎港から高島へ行く連絡船の桟橋。 ●M写真:客は少ない。 ●R写真:高島到着。着いて気づいたが横揺れに強いカタマラン(双胴)型船体だった。 |
● L写真:高島炭鉱石炭資料館。この前に軍艦島の模型(下に掲載)がある。 ●M・R写真:正面玄関にあった説明と内部。館内には非常に貴重な操業当時の写真などが多数あり見過ごすにはこころもとなか たので下に写真をUPした。 |
●上左写真:高島の航空写真。いつごろの写真か不明。 ●上右写真:@連絡船桟橋、A二子坑口、Bボタ山、C蛎瀬竪抗口、 Dグラバー屋敷、E北渓井坑口、F学校、 G仲山新坑口H現在の風発 ●下の写真:資料館のビデオ画像から拝借。 蚊焼町辺りから高島と軍艦島にS32(1957年)に海底 水道を引いている。 |
資料館前にあった模型。右は採炭当時の人車とバッテリロコや炭車。 |
下6段の写真は全部、資料館内にあった写真で非常に貴重なものばかりなので解説図からトリミングしてUPしました。 |
蛎瀬立抗は島の西側。上の写真のC番。二子抗は島の南側、同A番。仲山新抗は東側、同G番。百間崎抗はちょっと分からない。 |
左から〜●端島炭鉱は軍艦島のこと。●中ノ島炭鉱は軍艦島の北隣の島。墓地がある。●尾浜抗と横島炭鉱はよく分からない。 |
左から〜:●蛎瀬竪抗口の様子。●1982年蛎瀬坑口が火事に見まわれた。そのときの様子。●二子坑の埋め立てのビフォアー・アフター ●炭鉱住宅から見る二子竪工抗櫓。 |
左から〜:●1957年頃の百間鉱員社宅・小学校講堂●1966年頃の百間崎の高島小学校(現海水浴場) ●1975年頃の日吉岡社宅●1959年頃の西浜海岸のボタ山。 |
左から〜:●1960年頃の炭鉱社と夕顔丸●日本最初の洋式立坑の北渓井坑口(ほっけいせい)、上の写真E番 ●1873年〜74年頃の北渓井坑の石炭積み出しの様子●1907年頃の尾浜〜蛎瀬エンドレス運搬の様子。 |
上左から〜:●1936年頃の協和会館(映画館)●1901年頃の高島炭鉱職員クラブ。 ●1950年〜1959年頃の坑外通勤電車(蛎瀬〜仲山間) ●1950年頃の坑外通勤電車仲山停留所。 |
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左:南洋井坑(なんようせいこう)の説明。 |
水深約50mぐらいの海底下のそこからまた約300m〜900mぐらい地中に掘り進んだ地底の炭層目当てにこれだけの坑道を掘っている。炭層は池島方向に延びている。 (ライトブルー:採掘跡、レッド:採掘計画、濃ブルー:新区域。黄丸は高島、赤丸は軍艦島) |
●L写真:ほとんど無人の炭住アパート郡。周りはキレイに掃除が行き届いているようだ.こういうところは本当に日本独特の国民性かもし れない。外国ならまずこういうことはないだろう。今住んでいる場所でさへごみだらけが多い。空き家になったら・・・・・ ●M写真:二子抗の坑口が金網の向こう側にある。その向こうにはほとんど無人の炭住アパート郡が。 ●R写真:二子抗坑口のUP。地下に部屋があるように見えるが坑道はそこから入るのだろうか。 |
●L写真:島内には結構このような炭鉱操業時代の名残が見える。これは住宅ゾーンに近い場所だったので水道配管だと思う。まさか暖 房用のスチーム配管ではなかろう・・・北海道の豊羽鉱山には階段の脇にこのような暖房配管があったが。 ●M写真:かつての西浜海岸のボタ山があった場所。南側から撮影。今はこんな風になっている。何にもない。ただ地面には石炭らしき ものがけっこうまだあるようだ。 ●R写真:ボタ山の西浜海岸の南のはずれ。向こうに見えるのは正面が軍艦島、左側が中ノ島。ここにも桟橋らしきものの残骸が残って いた。 |
●L写真:島内一周道路を歩いていると蛎瀬抗跡の南側、権現山公園西斜面下にこんなものが。斎場でしょうか?内部を見ると何か それらしき構造になっていたようだが・・・ ●M写真:トーマス・ブレーク・グラバー(1838〜1911)の胸像。以下に説明板から抜粋。 「グラバーは1859年(安政6年)、イギリスから日本に渡りグラバー商会を設立(佐賀藩とグラバーは高島炭坑共同経営契 約を結び合弁会社を設立。炭鉱開発に伴い立抗や蒸気動力、風車喚起などの新しい技術を採用して同年5月、立抗の採 掘を開始した)。彼は炭鉱開発のため長崎南山手の自宅のほかにこの高島に洋式の邸宅を建てました。また密談のため 自宅と長崎にある佐賀藩邸の松林源蔵の居室に日本発の私設電話を引きました。以下省略」 ●R写真:洋式の邸宅のあった場所。現在の島北端、高島公園の一角。 |
●L写真:島内案内板。日本は親切です。外国にはこんな物はほとんどない。 ●R写真:明治に活躍した後藤象二郎の屋敷がここにあったらしい。島の北の方。彼は一時期、高島炭鉱の経営をしていた。 |
ここが北渓井坑(ほっけいせいこう)の坑口。島の北側。「掘削を始めて1年後の1869(M2)年、深さ43mのところで厚さ8尺(上8尺層)に到達し北渓井坑は開坑しました。その後1876(M9)年、海水侵入のため多くの炭層を残して廃坑となり現在、本町地区に井坑跡が残っています。日本最初の洋式立坑。」(説明板より) |
高嶋神社内の「蛎瀬坑罹災者招魂之碑」と「慰霊碑」。蛎瀬坑罹災とは、明治39年(1906年)3月28日(前年に日露戦争終)に発生した坑内ガス爆発。この事故で307名が尊い犠牲となった。 |
●L写真:高島神社の壊れた鳥居。 ●M写真:扁額(これも扁額というのか?正式名称思いつかない)には高嶋になっている。地べたに落ちていたが。それも割れている。 ●R写真:山の上から見た船着場。一隻が近づいている。向こうの山々は長崎半島蚊焼町辺り。 |
港近くの老人ホームの裏にその坑口がある。現在はご覧の通り。そのすぐ脇に下の左の写真のものがあった。 |
●L写真:仲山新坑坑口脇の変な物。大きな岩にたくさんドリルのような穴があいている。マイトをつめるための穴あけ練習用? ●R写真:高島神社から降りてくる途中にあったガジュマルのような南洋植物の根っこ。炭鉱には関係ないが見ていてすごいので 思わずカシャッ! |
●L写真:島内を歩いているとかつての炭鉱住宅らしき家が目に付いた。屋根はブルーシートで覆われている。どうやら物置かもしれない。 ●R写真:島最南端部の風力発電機。この向こう約3キロぐらいに軍艦島がある。写真の風発手前の広場周辺が二子坑のあたりになる。 |
***** HOME おしまいダヨ。 |