北海道寿都郡寿都町字大磯 寿都(すっつ)鉱山 Photo:2012年8月 (1/1) |
今回の鉱山めぐりは避暑も兼ねて北海道に的を絞ろうとプランを練ったところ車なら北海道だけではもったいないと思い結局、東北も廻ってしまい随分欲張った鉱山ツアーになってしまいました(いつものことですが・・・)。 何十年ぶりかに津軽海峡フェリーに乗ったところ偶然、寿都の道の駅”みなとま〜れ寿都”の観光案内の方(S女史)に出会い実に気さくな方で船中、いろんな話をしながら小生が鉱山めぐりのことを話すとわざわざ寿都鉱山に詳しい方(山本竜也さん。HP”南後志をたずねて”)を紹介していただき結局、同氏に寿都鉱山と大金鉱山をガイドしてもらうことになった次第です。全く面識のない者にわざわざガイドまでしていただきその節は本当に助かりました。 S女史と山本さんには改めてお礼申し上げます。その節は本当にありがとうございました。
●主な採掘金属 :(鉱山発見時は)金(Au)、銀(Ag)、(後の主要金属は)亜鉛(Zn)、鉛(Pb)、銅(Cu)など。 ●主な採掘鉱石 :黄銅鉱、黄鉄鉱、方鉛鉱、閃亜鉛鉱、錫石、輝安鉱(アンチモン)、輝蒼鉛鉱(ビスマス)など。 金属意外にも脈石から雲母、重晶石(バリウム)、石膏など。 ●経営企業 :鉱山発見時からは他山と同様、個人、会社含め多数の経営者が交代。最後に三菱鉱業が採掘、1962年 (S37)同社も採掘を終える。詳しくは下に記載。 |
<鉱山史略歴> | ||
・1893年(M26) (翌年日清戦争) |
: | 大和政治氏が寿都郡渡島町にて銀の試掘権得る。その2年後に今谷多三郎氏が隣地で銀の採掘権を得る。この2件が寿都鉱山についての現在最古の記録。ただしこの当時、銀採掘の熱意はあるものの成果はたいしたことなかったと言う。 |
・1908年(M41) | : | 武田恭作氏(小坂鉱山<秋田>所長時代、閉山間際のヤマを銅山として復活させた業界では知られた人物)が寿都鉱山の鉱業権を入手。早速探鉱を開始、3年後には銀採掘を軌道に乗せる。 |
・1914年(T3) (第1次大戦勃発) |
: | 銀採掘で軌道に乗った武田鉱業(武田恭作代表)だったが平行して経営していた秋田の発盛(椿)鉱山(銀、銅の露天掘りで有名)の産出量が減少、大戦の影響もあり販売も思わしくなく結果、寿都鉱山を同年高田商会(明治・大正期に三井物産と並び称された商社。後年宮城県の細倉鉱山など経営)に譲渡。 |
・1915〜20年頃 (’17年:ロシア革命) (’18年:大戦終戦) |
: | 武田鉱業から寿都鉱山を譲渡された高田商会は名前を「広尾鉱山」と改称。銀の採掘をやめ主に亜鉛と鉛鉱床の探鉱に尽力し有望鉱脈を発見、営業採掘を始める。しかし’18年に第一次大戦が終戦、それまでの戦争特需から急激な不景気に。記録によると’17年には亜鉛鉱5990トン、鉛鉱2749トン生産したが終戦の翌年、’19年には生産量が半分以下になりその後も立ち直れず遂に広尾鉱山も1922年に休山。 |
・1934年(S9) (’31年:満州事変) (’37年:日中戦争) |
: | 三菱鉱業/株が広尾鉱山の鉱業権を取得。鉱山内整備や近代化、探鉱に投資し’37年に営業採掘を再開。この頃軍部は大陸侵略一辺倒で金属資源、とりわけ銅、鉛、亜鉛は武器製造に欠かせない金属なため増産に次ぐ増産であった。同鉱山もどんどん機械化、近代化を進め竪抗櫓や大型コンプレッサーなど導入。ちなみに寿都鉱山は三菱鉱業社内では手稲金山の支山としての位置づけだった。 〜こういう過程で太平洋戦争(1941年〜1945年)に突入。〜 |
・1950年(S25) (朝鮮戦争勃発) |
: | 戦後復興や新たな戦争その他で金属需要が増え戦地からの復員も進み全国の鉱山・炭鉱はこの頃からフル操業になる。広尾鉱山も「寿都鉱山」と改名し再出発に。 |
・1956年(S31) (旧ソ連と国交回復) |
: | それまでは寿都では選鉱せずに採掘した鉱石をそのまま細倉鉱山に送鉱していたがこの年、隣地の大金鉱山の選鉱場を買収し選鉱するようになる。 |
・1962年(S37) | : | この頃より次第の鉱量減少により労働組合に”閉山”を通達。再雇用など種々の問題もあったが同年休山。これ以後、採掘権は同じ三菱グループの千歳鉱山に譲渡。 |
・1972年(S47) | : | 採掘権は千歳鉱山に譲渡されたが再びの操業には至らず同年2月、正式に採掘権が放棄されここに寿都鉱山”閉山”が決定。 |
<本の紹介> |
〜書 評〜 〓後志の奥行きに出会う旅を提案するインタビューブック〓 ●主な目次: ◆山中に眠る鉱山遺構、黒松内町大金鉱山 ◆武四郎はなぜ真狩川を間違えたのか、蝦夷古地図の系譜 ◆後志の歴史ある漁場のまちなみと建築、などなど他多数。 道南・後志地方の情報誌として他にも多数の地元密着型エッセーや農場、牧場などのインタビュー、ユニークなコラムなど多彩な記事と写真で読者を飽きさせない内容だ。編集と取材陣の努力と苦労もかいま伺わせる雑誌に仕上がっている。 〓購入方法〓 ●雑誌名:『BYWAY後志』(”バイウエイしりべし”と読む)、A4版、●価格:1,050円(税込み) ●発行元:はまなす財団BYWAY後志編集部、●電話:011−205−5011(電話すれば送ってくれます。) |
立抗やぐら前での従業員集合写真、昭和28年(1953年)3月15日撮影/小島剛さん提供 =上記雑誌より転載= |
●左:道の駅「みなとま〜れ寿都」から山方向に数分走ると写真の現場に着く。ただ一般の住宅地なのであまり失礼のないようにしたい。 ●右:同所で見た火薬庫。坑口かと思ったが案内していただいた方によると元火薬庫とのこと。京都の大谷鉱山に似た坑口があった。 |
上記モノクロの集合写真にある竪抗やぐらというのは現在はごらんのように地元企業の倉庫に使われている。なんでも坑口は閉山時に大量の土砂を投入されていると言う。 |
●左:竪工やぐらのあった場所から50〜60m山側でこんな遺構を確認。コンクリの基礎だが何の基礎だろうか?ここが選鉱所(一時 期、手選鉱していたらしい)だとしたらベルコンのものか、orプーリーの支持台? ●中:何かの軸受けの残骸が。さほど大きいものではない。 ●右:同所から竪抗やぐら方向を見たところ。 |
●左:昔の鉱山住宅が一部残っている。これは三軒長屋のように見える。勿論今は空家。 ●中:右側の白壁の鉱山住宅は手を入れて今も人が住んでいるようだ。 ●右:同所から見た海側の景色。正面の海は寿都湾。対岸は北海道電力の泊原発がある泊村の辺り。 |
●左:鉱山操業時代に映画や演劇など職員やその家族の福利厚生に建てたという鉱山会館。今は物置に使われているらしい。 ●中:シャッター上のひさしの上にかすかに三菱のマークの名残が残っている。 ●右:同所から山側、つまり鉱山側を望む。鉱山が操業時代にはこのあたりはおそらく殆ど全部が鉱山関係の敷地だったろうと思う。鉱 業権が三菱以前の時はそうでもなかったかもしれないが三菱に鉱業権が移ってからはさぞ資本投資していると思う。 |
●左:往年の寿都鉱山のズリ山の一部。恐らく他所にもあると思うがそこまでは廻れなかった。 ●中:正面の建物は一般の家屋。寿都鉱山自体が非常に住宅地、海岸に近い場所だ。道の駅「みなとま〜れ寿都」からも近い。 ●右:左写真を逆側から見たところ。 |