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     宮城県気仙沼市鹿折    鹿折(ししおり)金山      Photo:20128  (1/1)    
主な採掘金属 :金、銀、銅。
経営企業    :個人経営者多数→昭和に入り日本産金会社が経営。→堀家万太郎氏がS24年再挑戦→S46年閉山。

<朗 報>
東日本大震災で被災、休館していた「鹿折金山資料館」は2012年10月、リニューアルOPENしたようです。

                           <鹿折金山の略歴>
(詳しい資料が少なく鹿折金山資料館のサイトから略歴をお借りしました。資料館の方へ:もしご迷惑であればお知らせください。)

・藤原時代  奥州藤原氏の黄金文化を支えた金山のひとつと伝えられる。
江戸時代  源氏沢鉱山として唐桑村の古館が探鉱し、中期には御本判持ち(金堀り鑑札)たちが4〜50人も集まったという。
        近世になってから地下に埋蔵される金銀銅鉱の採掘が始
まる。
明治14年  山形県南山村の鉱山師信夫歌之助が鹿折村源氏沢らを探査している。
同  20年  鹿折の菅野駒治が秋田県阿仁の鉱山師中村亀治を招いて開発、金山を発見。
同  27年  仙台元寺小路内ヶ崎峯吉が試掘、この頃から鹿折金山が注目され「鉱脈珪岩、金、 硫化鉄、脈走南東18度、傾斜
        40度にして鉱脈の露出数条、旧坑少なか
らず。谷間に廃砂夥しく精練に耐えるべし。」と紹介されている。
同  33年  秋田の鉱山師中村亀治から早稲田大学工学部教授徳永重康に鉱山の権利を売渡。
同  36年  気仙沼の吉田正章と徳永重康が共同で開発、経営した。金の含有率20%という高い鉱脈を発見した。
同  37年  金の含有率83%という自然金が発見され、米国セントルイス万国博覧会に出展し、「ナゲット・モンスター(怪物金)」
        と称賛され、青銅メダルを授与された。このことが
日露戦争の外債獲得に大きな貢献をした。徳永の回顧録によると
        「鹿折金山は金
塊がゴロゴロ、大きな金山ではないが金塊の大きい点では世界的標本である。使用人は600人、
        事務員だけ20人いた。」という。
同  41年   国内10大金山といわれた。
同  42年  古賀廉造個人のものとなり、50馬力の機械を備え付け、1日1万貫の鉱石を採掘したが、43年に休山した。
昭和13年  堀家万太郎により復活。その後日本産金会社が経営し、1時期トン当たり200gの豊鉱にもあたったが、大部分は
         トン当たり3gの貧鉱であった。

同  24年  堀家が再挑戦し、小規模ながら生産した。
同  46年  鉱業権を放棄し、鹿折金山が閉山された。



気仙沼市内から県道34号線を北上、JRドラゴンレール大船渡線(被災により未復旧)「上鹿折」駅を右に見ながら2〜3キロ行くとJRの高架と交差する。そこが写真の地点。三叉路になっており県道は左側の道路。右が本丸方向。その方向に案内板が見える。下に拡大写真。

左:鹿折金山保存有志の方々にお礼申し上げます。いつも思いますが観光収入のあまり望めない歴史遺産を残す、という殆ど使命
   感のためだけに全国の廃坑山ともどもきちっと管理、保存、道案内の標識など整備されているのにはほとほと感謝します。その
   おかげでたいして迷いもせず目的地に着きます。本当にありがたいものです。
右:「金山」バス停。分かりやすい。

案内板を拡大してみました。モンスターゴールドの重さ2.25キロ(2250グラム)、含有率が83%ということは1867.5グラムの金が含まれているということでしょうか。信じられない・・・。今からでも掘ったら出ないだろうか?

左:訪ねた時閉館だった鹿折金山資料館。2012年10月にリニューアルオープンしている。
中:資料館前から金山側奥の方を撮影。
右:4番坑口と事務所跡を撮影。モンスターゴールドが採掘された第2坑道(徳永坑)は写真左の道を登る。

四番坑口跡と事務所跡。と言ってもどこがどう坑口なのか埋め戻した跡を見てもよく分からない。地面の平らなところが事務所跡だっただろうと想像するだけ。

こちらがモンスターゴールドが採れた徳永抗の今の姿。

左と中:接近して撮ってみました。坑口は崩落してしまって内部はのぞけない。それとも不届き者の侵入防止のために崩したのだろうか。
右:こちらは坑口の後方の姿。別になんてことのない山の斜面。

      (1/1)     HOME    >完<