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茨城県久慈郡太子町大字太子 塩沢金山 写真を写したとき : 2009.12 |
●主な採掘金属 : 金 (Au) ●経営企業 : 北海道硫黄株式会社(三井系) 当地の塩沢金山は開坑が西暦1600年頃といわれている。戦国時代から江戸時代にかけこのあたり一帯を支配した佐竹藩当主・佐竹義宣が積極的に金山開発を奨励した。その後長くその歴史は不明で近代の昭和に入り北海道硫黄/株(三井財閥系。群馬の小串硫黄鉱山や北海道の幌別硫黄鉱山など経営)塩沢鉱業所を1934年(S9)に設立、金の採掘に着手。戦争直前の1940年頃には300〜400人の坑夫、家族を入れるとその数倍の鉱山人口を有していたことになる。当然ながら関連する諸施設や商店なども多数あったことだろう。今の光景からは想像出来ない。しかし太平洋戦争が始まりまもなく金山整備令が発令され軍需物資としての銅や鉄、鉛などは増産継続だったが金は中止命令が軍部から出され1943年(S18)塩沢金山は閉山となる。たった9年間の操業だった。 塩沢金山を中心にして東西約1km〜1.5kmの距離(東に仏沢金山、西に栃原金山がある)に三つの金山が横一線に並んでいる。地質的考察はどうかわからないが距離的に言って同一鉱床ではなかろうか。 |
●L写真:栃原金山から県道32号線を東進すると大沢集落を越えた辺りで写真の光景が目に入る。ターゲットは左側。 ●R写真:この写真は道路から見える光景だ。白い家屋の上部バックに選鉱所らしき遺構が残っている。 |
選鉱所らしき遺構のUPだが本来ならある筈のない場所に大きな立ち木が成長している。悠久の年月の経過を感じる。 |
●L写真:ちょっと登ってみた。選鉱所跡まで行けない。眼の前なのに。 ●R写真:麓には当時の何かの基礎らしきコンクリートの塊が藪の中から顔を覗かせていたがそれが何なのか不明。 |
道路を挟んだ反対側の光景。畑は民家のものだがこの堤防のようなものの向こう側は川だが異常に頑丈なこの作り方は恐らく鉱山関係のものだろう。貯鉱場か?積込み場だろうか?、ネット情報では精錬後のスラグや汚泥などの捨て場だったというが。 |
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