SA ZA RE KOOZAN
佐 々 連 鉱 山 1/1
           愛媛県四国中央市金砂町小川       訪問日:2009年



 佐々連鉱山の発見は1690年頃、元禄年間の頃と言われている。場所は近代に入り住友鉱業が開抗(当ページの写真)した場所とは違いもう少し東側、下の地図の”中ノ川”の源流あたりであった。明治の中頃に伊予は東宇和郡の某氏が同鉱山を再開したときなんでも坑道内に「元禄二年大阪屋開坑」との文字が刻まれていたらしいが定かではない。
 開抗から再開した近代までの約200年間のことはよく分からない。資料もほとんどない。
 再開後は東宇和郡の某氏から1918年(T7)岩城商会(北宇和郡出身の岩城卯吉氏の創業。後神戸に渡り海運会社を経営、第一次大戦で財を成す)に売鉱。同商会に経営が移ってからは採掘も探鉱も積極的に近代化を進めそれなりに出鉱量も増えたがいかんせん岩城商会(鉱山は岩城鉱業が経営)は鉱山のプロではなかったため次第に経営が悪化。1940年(S15)遂にいくつかの有望鉱床や架空索道、選鉱所
など鉱山としての基盤を築いたまま住友金属鉱業に経営権が渡る。佐々連鉱山が注目を浴びだしたのは主に住友に渡ってからである。その住友鉱業も1950〜60年頃がピークで新鉱床もたくさん開発されたが1970年に入り国際相場も下落。採掘経費もよりかかるようになり遂に1979年閉山となる。
 最後になったが産出金属は金、銀、銅、鉄、亜鉛、マグネシウムなど。鉱石ではザクロ石、滑石、雲母、カンラン石など。メインはやはり銅であった。
  


 金砂湖の様子。ほとんど水がなかった。四国はいつも水では悩まされている。


 金砂湖から鉱山の方向に行く三叉路にあった標識。  鉱山に向かっていくとすぐにこんなかつての遺構らしき建屋が。鉱山エリアはもうちょっと先なのでこれは守衛室かも?よく分からない。


 どちらもズリ山。カメラアングルが違うだけで同じズリ山である。実にきれいに整備されているので知らずに通るとズリ山とは分からないだろう。


 何を撮ったかと言うと手すりのような鉄の軌道だ。M写真を見ると分かるが横にギザギザが付いているがおそらくこれにギヤをかまして手すりのような軌道上を上下しているのだろう。鉱山というのはこういった設備産業と言うか設備技術はお手の物である。トロッコやバケットローダーや蓄電池車やスラッシャー、スクレーパーetc自作品が多数ある。重機で有名なコマツなど石川県の鉱山事業から派生した企業である。


鉱排水浄化装置 現鉱山事務所の入り口。


こちらはホッパーだろう。 鉱排水浄化装置の向こう側に見えたがシックナー(比重選鉱機)だと思う。 山の中腹にあった小屋。竪抗関係かワイヤー巻き上げ用の小屋だろう。


 相当大規模なコンクリート基礎だ。R写真は基礎の中央に凹型を作っているが間を何かが通っていたのだろうか?巨大なプーリーでも?違うと思う。分からない。


 石垣の上が佐々連小学校のあった場所だと思うのだが。草ぼうぼうだが平地になっている。だがR写真に上に登る道があってなんとなくそっちも学校に通じる道かな?と思うのだが・・・。違うよね〜。誰かオセエテ!?学校の石の看板が横たわっている。詳細写真は下に。


 上の写真で横に倒れている「佐々連小学校」と「伊予三島市立」の石塔。M写真はちょっとはなれた所にあった石盤「なかよくたくましく 昭和4?年秋建立」とある。


 鉱山碑全景。右側が銅版碑。


上写真の鉱山銅板碑だが読めないので下に記す。
                        佐々連鉱山碑文
 佐々連鉱山は伊予三島市の南側、四国山脈の中央部に位置し開山は遠く元禄二年と伝えられている。大正七年神戸の貿易商、岩城商会が設立した岩城鉱業株式会社が佐々連鉱山の経営に乗り出し金立樋(カネ片)・金砂樋の発見、佐々連ー江之元間の索道の架設、江之元積み出し設備の設置などに尽力し佐々連鉱山発展の基礎を築いた。
 昭和15年、住友鉱業株式会社は岩城鉱業株式会社の株式の50%を取得して佐々連鉱山の経営を引き受けるにいたった。
 昭和25年3月、別子鉱業株式会社(後に住友金属鉱山株式会社と改称)は住友鉱業からの分離・発足とともに佐々連鉱業株式会社(昭和17年岩城鉱業株式会社から改称)を吸収合併しその後佐々連鉱山は住友の中堅鉱山として発展した。
 佐々連鉱山は優勢な鉱況にめぐまれ、昭和34年に金剛樋(カネヘン)、昭和36年に新泉樋(同左)の新鉱床を発見し坑内及び坑外の諸施設の増強をはかり昭和37年には日量845トンの出鉱量を誇り最盛期を迎え昭和30年代において住友金属鉱山株式会社の鉱山部門の有力な収益源として貢献した。
 優良鉱山として活躍した佐々連鉱山であったがその後鉱況の悪化、採掘掘羽の深部化等により昭和49年頃から急速に採算が悪化し苦しい状況となった。出鉱量を縮小して鉱山の延命を図ったが昭和54年6月30日遂に閉山した。
 佐々連鉱山の操業に精励刻苦従事された多くの方々及び伊予三島市をはじめとする地域の皆様の暖かいご支援に感謝の意を表し今ここに記念の碑を建立する。
                             平成6年8月吉日   住友金属鉱山株式会社


鉱山碑の表と裏。


 佐々連通洞が見えてきました。石碑のあった場所と同じ場所です。ユンボやらダンプやら何やら作業をしているみたいですね。L写真の建物はBLの入っている格納庫。通洞抗入り口で二又に分かれた左側の軌道がこの建物に入っている。充電や整備・修理などもここでするんでしょう。


 通洞抗入り口付近です。内部からは何やら音がしてましたがそれほど激しい音ではなかったですね。奥で白くみえるのは照明です。いったい何をしてるんでしょうね?メンテナンスだろうけど・・・。


 格納中のBL。あんまり動かしていないようでダンボールが倒れかかってますよ。上の○印は動かしてOK、のサインでしょうか。ならば×印もあるのか?どっちでしょう?
 L写真は軌道跡。通洞抗からまっすぐの延長線上になります。この先に選鉱所があったのでしょうね。おそらく初めのズリ山とこの場所との間だと思いますが。


 鉱山碑の前の道を奥へ行くと佐々連通洞抗の上をグルッと巻き込むように裏山の上の方に行ける。すると予想通りかつての鉱山住宅跡が見られる。もちろん現在は何もない。あるものと言えば家が建っていた石の基礎や上の方にあった家にいくための階段や石垣、生活排水溝など想像さえはりめぐらせばそこにかつてはたくさんの一番方から三番方までこれから坑内に入る人や汗とほこりで真っ黒になって坑内から出てきた人、それを迎える妻や子供たちの姿、酔っ払って大声出したりけんかをしている輩たちの姿を想像できる。


 上の五枚の写真は歩き回って撮った鉱山住宅街の遺構です。石垣や排水溝、スピーカーから送電用の碍子まで見つける気があれば結構あるもんですね。


 鉱山住宅を流れている小川に削岩用のビットがガードレールの支柱がわりに縁に突っ込まれている。川の中にはバルブの付いたパイプが見えていた。


 来るときには気づかなかったが戻る時によく見ると上小川を渡る橋から上流側に何かがある。これは降りて行って見なければ。

 


 う〜ん、まだ奥のほうの川の上流側に何か秘密?めいた物があるような気がする。道も何もないが川の水量は相当に多い。手前のパイプは鉱排水用のパイプだろう。と言うことは奥に採掘坑道があるのだろうか。


 上流側のUPですがこんな感じです。管理用の通路はあります。明らかに奥に坑口らしきものがあると思いますがねえ。


今回佐々連鉱山はこれにて終了。正直言ってもう少しぐらいは何らかの遺構が残っているかなと淡い期待を抱いていたのですがやはり駄目でしたね。こうやってどんどん産業遺産が消えていくんですね・・・・。


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>おしまい