山形県寒河江市幸生 幸生(さちう)鉱山 Photo:2012年8月 (1/1) |
●主な採掘金属 : 銅、亜鉛、鉛。 ●経営企業 : (開坑の頃は)住友家(泉屋)→(江戸時代中頃は)幸生村の有力者→(明治初期は京都の金融業)小野組→その後すぐに古河市兵衛(古河財閥創業者。この当時小野組で番頭として才覚を発揮)に経営権が移り閉山まで続く。 幸生鉱山の歴史は下の写真に詳しいがここに要約する。 ・1682年(天和2年):幸生村の名主才三郎氏が発見し大坂商人泉屋吉左衛門(後の住友)が開削。 ・1794年(寛政4年):有望鉱床見つかり幕府直轄の銅山になる。 ・1809年(文化6年):水抜き工事が完成。 ・1835年(天保6年):休山。 ・1837年(天保8年):請負制で鉱山再開。 ・1858年(安政5年):産銅量増加するが続かず5年後廃山。しかしその後も名主が個人で採掘続行。 ・1868年(明治元年):”江戸”から”明治”になり武家社会から近代資本主義になる。 ・1874年(M7年):小野組が鉱山を再開するも失敗。 ・1876年(M9年):古河市兵衛(古河鉱業、足尾銅山など経営)が鉱山を引き継ぐ。 ・1891年(M24年):古河鉱業、幸生鉱山と永松鉱山を所有。以後、製錬工場や架空索道など積極的に近代化を推進し1961年 閉山まで続く。 |
■左上:推測だがこの場所は元鉄索場(「昭和初期の幸生銅山」の写真、左下)のあった場所ではないだろうか。 ■左下:幸生小学校からしばらく行くと案内板の手前左手に川の方に行く道が。入っていくと途中でチェーンが。その向こうにはどうも沈 殿池らしきものと小さな管理小屋らしきものが見えたが人の気配は皆無。他に何もなさそうだったのでそのままスルー。 ■右:鶴岡方面から国道112号線を寒河江市に入り山形道の「西川」ICを過ぎてちょっと行くとR423の分岐点に着く。そこを標識通り 左折(北上)して4〜5キロ行くと左手に写真の”幸生銅山回想”の案内板が目に入る。手前右手には小規模の墓地(下の写真、 銅山墓地?)が見える。 |
■上の写真:1682年(5代将軍綱吉”生類憐みの令”、松尾芭蕉活躍)に発見された銅山の経営は住友一族から幕府直営、村の有力 者、古河鉱業と変遷していく。 ■中の写真:1682年発見から1961年閉山まで280年間もの長きに渡って銅を掘り続けた鉱山であった。280年もの長期間ひとつの 現場を維持するということがどういうことか現代の企業活動ではちょっと考えにくい。経営母体が代わっているとはいえ当然 ながら鉱山経営というのは採掘しながら一方で探鉱して常に採算に合うだけの有望鉱床を探す、という作業が繰り返され る。鉱物というのは再生されないので”取りっ放し”。だからむしろ”探鉱”の方が企業にとっては生命線を握っていると言える かもしれない。どの企業も当然探鉱した結果、”ここはこれ以上ダメだ”と結論付けたのにまた、別の企業が”ここはいける” とふんで莫大な投資をして採掘する。これの繰り返し。現代ならハイテク企業の技術欲しさの倒産、吸収、合併など珍しくも ないが昔の鉱山の場合、さほど採掘、選鉱、製錬技術に違いはないように思うのだが。ただ考えるに”探鉱”技術だけは各 社特色があったように思える。地中の見えない部分に宝物があるかないか、あっても多いか少ないかなど男のロマンをかき たてる何かがそこには潜んでいるようにも思える。 ■下の写真:案内板のイラストマップ。どうやらもう少し歩けば別の坑口も見つかったかも。 |
銅山墓地にしてはちょっと規模が小さいように思うのだが。常にどなたかが墓守されているようだ。 |
■左:上のイラストの新大切坑か火薬庫のあたり。どちらかわからない。橋の向こう側に行ってみたが雑草で不明 ■中:同所から大切坑方向を見る。 ■右:大切坑の今の姿。 |
今もきちんと管理されている大切坑。と言ってもタテ・ヨコの大きさはさほど大きくはない。人が立って入れる高さではなかった。中腰にならなければ。トロッコ用の軌道はちょっと見当たらなかったが。奥に延びている水路みたいなものは何だろうか?コンクリートでふたまでしてあるが。 |