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  長崎県西海市大島町崎戸  崎戸炭鉱   撮影:2009年12月   
長崎県は西彼杵半島の北西に位置する大島。この大島の南西側すぐ隣に蛎浦島と崎戸島と言う二つの島がある。崎戸炭鉱の本丸は崎戸島ではなく手前の蛎浦島になる。ここ蛎浦島に年産120万トンもの石炭を出炭し一時は、高島、端島と並び三大鬼ケ島・監獄島と悪名を馳せた三菱崎戸炭鉱があった。それほど労働環境が過酷でひどいところであった。太平洋戦争中には強制連行されてきた朝鮮人、中国人等があまりの酷さに抗議し長崎刑務所に送られ挙句に原爆で被爆死した者もいた。
そんな崎戸炭鉱で営業採炭が始まったのは1907年(M40)、九州炭鉱汽船によるが当初から三菱が資金融資や販売面などいろいろ関与し1911年には株式の半分を取得、販売権を独占、北海道と九州での三菱系炭抗基盤拡大の一方の雄になる。その後は三菱の主導でどんどん採炭の近代化を図り、第一抗の蛎浦抗、第二抗の浅浦抗,第三抗の福浦抗と次々と坑口を増やす。
1940年(開戦前年)には名実ともにこの炭鉱は三菱のものになり北海道の三菱美唄炭鉱に次ぐ出炭量を誇り九州での三菱系列炭鉱のTOPになる。また最盛期には家族も含めると小さな島に7〜8000人もの人口がいた。
戦後は長崎市の被爆や敗戦の焼け野原で一時は衰退していたが戦後復興で石炭需要に火がつき長く活況を呈していた。が石油への転換政策その他で1968年(S43)遂に石炭の火は消え閉山となる。

これは余談だが先年、バトル・ロワイヤルとか言う若者の殺し合いのよく分からない映画があったがそれのロケがここ崎戸炭鉱の炭住を利用して行われたらしい。が後始末を満足にしないでほったらかしで帰ったので地元ではひんしゅくをかっている、と言う話を聞いた。


L写真:県道52号線大島大橋を渡り大島炭鉱跡を脇に見ながら一路南西へひた走る。まもなく県道15号になり立派な橋を渡ると蛎浦島に到着。渡ってしばらく
      行くともういたるところに崎戸炭鉱の跡が目に入る。ここは三菱が経営していたので規模も大きい。写真の湾口の上部の煙突、住宅群は全部炭鉱時代
      の遺構である。
M・R写真:これはダイアソルトと言う製塩工場の前にあったもの。ギヤがついていると言うことはクレ−ンの旋回用ではないのだろうか。石炭の積み込みに使っ
        たのかもしれない。


L写真:途中こんなものがあった。なんでしょう?
M・R写真:福浦抗での立抗巻上げ機室。ご覧のように草生して屋根は落ち内部は押して知るべしというところか。竪抗は建屋の海側にあったようである。しかし煉瓦と言うのは結構もつもんなんですね。どこの炭鉱や鉱山でも煉瓦造りは比較的しっかりしているようだ。


L写真:三枚とも福浦抗(第三抗)周辺の様子。これは煉瓦つくりの巻上げ機室からちょっと坂を下った辺りから撮ったもの。
M写真:福浦の対岸、浅間神社の方から撮ったもの。写真の工場は今も稼動しているようだ。かつての炭鉱時代の煙突や貯炭ポケット、船積み用のベルトコンベア
      土台らしきものが見える。
R写真:歴史民族資料館(炭鉱記念公園)の上から撮ったもの。写真の対岸が浅間神社辺り。煉瓦の煙突はてっぺんが草ではなくもう雑木林状態。


L写真:資料館の道路挟んで東側の様子。煙突は何に使っていたものか不明。その右側の黒っぽいかまぼこ型のものが坑口かと思ったのだがどうも??、何となく変・・・
M写真:煙突の根元。煙突はてっぺんまでツタにからまれている。
R写真:私が行った時はご覧の状態。奥を見たが何となく坑口ではなさそうな感じ・・・向こう側は海とは反対側だしスルーになっている。なんだろう?


L写真:同所を振り返ったところ。左の電柱の右側の建屋が歴史民族資料館(炭鉱記念公園)。広い更地だったので炭鉱時代の作業場は間違いないと思う。
M写真:同所を県道15号線から見たところ。今は建設会社の事務所らしいがこの門構えは炭鉱時代の正面玄関ではなかったのだろうか。
R写真:奥の方を見ると草生しているがいやにでかい物が見える。その左向こう側にはわりとおしゃれな住宅がある。今は製塩会社の社宅だが元炭鉱住宅。

L・M写真:西海市崎戸 歴史民族資料館・炭鉱記念公園の入り口。右の丸いものはおそらく坑口だと思うが。扁額の跡らしきものも見える。内部のUPは下に。
R写真:資料館の玄関口。


上の写真、丸いものの内部。隙間から撮ったがコンクリートで塞がれている。明らかに坑口だ。それも斜坑だと思う。方向としてこのコンクリートの向こう側が海方向。ここが福浦抗なんだろうか?  


L写真:炭鉱記念公園にある炭鉱夫家族の銅(石)像。台座には「活力」の文字が。
M写真:資料館横にある人車と炭車。
R写真:資料館内部にあった蛎浦抗の採掘風景。


炭鉱記念公園の片隅に会った”三菱崎戸炭鉱跡”の巨岩。


ここには井上光晴文学碑がある。”ガダルカナル戦詩集”や”地の群れ””虚構のクレーン”など数々の問題提起作品を世に刊行した。同氏は1926年、福岡県久留米生まれ。世に同氏のことを経歴詐称とか幼い頃のあだ名を持ち出していろいろ言う輩がいるが当時の時代背景や地域性、同氏の文学への姿勢などを考えるとそんな単純なことではないと思うが。若い頃の一時期、崎戸炭鉱の炭鉱技術者養成所で教鞭をとっていたこともある。石碑には同氏の詩、「のろしはあがらず、のろしはいまだあがらず・・・・・」の詩が刻まれている。因みに同氏の息女。井上荒野(あれの)さんは今も作家として活躍している。


L写真:島にはまだまだたくさんの炭鉱時代の遺構が残っている。これもそのひとつ。zoom upで撮ったものだが山の上に住宅か事務所らしきものが見える。
M写真:こちらは貯炭ポケットか。出荷のための石炭を一時貯めておくところ。
R写真:県道15号を南に向いて行くと道路端にこんな”何かあるな・・”と思わせるものが。止まってこの奥まで歩けばよかったものをずぼらして素通りしてしまった。
      後で後悔・・・。たぶん奥には炭鉱住宅がたくさんあるんだと思う。

L・M写真:蛎浦島の南端にはこんなコンクリート製の桟橋があった。単なる乗・下船用の桟橋かこれも炭鉱時代の遺構かちょっと不明。
R写真:最後になったが対岸の浅間神社側から見た福浦抗周辺の丘の上の遺構。当時はここにたくさんの鉄筋コンクリート製の炭鉱住宅(社宅)が建っていた。
      今はこのように遠くから見ると丘の上の突起物としか見えない。突起物の正体も不明。
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