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   長崎県西海市大島町  大島炭鉱  撮影:2009年12月   


 大島炭鉱は正式名称を”松島炭鉱株式会社、大島鉱業所”と言う。その名の通り大島の南に位置し度重なる出水事故に悩まされ閉山になった松島炭鉱のことである。大島で石炭が発見されたのは江戸時代後期といわれている。明治に入って試掘程度はされたようだが本格的な採炭にはいたっていない。本格的に採炭になったのは大正期に入ってからのこと。やはりそこには明治以降の政府の植民地主義、軍拡路線の基礎となる燃料確保、資源確保の一翼を担う石炭の増産という至上命令があったからだと想像できる。明治以降〜終戦の1945年まで一貫して国内の炭鉱、金属鉱山などは増産に次ぐ増産だった。(ちなみに大正期〜1935年<S10>までの松島炭鉱株式会社はそれ以降の三井系の同名会社とは違い佐賀銀行創業家が設立した方である)
 そんな中、ここ大島炭鉱は他の炭鉱よりも坑内ガスに悩まされる率が多く松島では水にやられ大島ではガスにやられると言う惨憺たる状況にも係わらず時代が時代だけに増産を止められなかった。ついでに加筆するとここの炭層は断層が多くスムーズな採炭が難しかったと言う。しかしそんな炭鉱も度々の出水や犠牲者続出で遂に1932年(S7)閉山。
 その後1935年、松島炭鉱株式会社(これが後に池島炭鉱を経営することになる三井系列の松島炭鉱株式会社。先の佐賀銀行系のそれとは社名は同じだが別)が大島炭鉱を買収。営業採炭に入る。坑道や炭層の条件は同じだが資本力と言うか政治力と言うかその後は良い炭層にぶつかり積極的な機械化も進め1936年(S11)〜1970年(s45)閉山までの間に約1.500万トン産出した。もっともその間にも事故やトラブルや労働争議は耐えなかった。逆にそれらを上回るほどの利益があったから続けられたとも言える。
 戦後も比較的順調にいっていた炭鉱事業も1955年頃になると石炭の斜陽化と有望な炭層が見つけられず1970年(s45)遂に松島炭鉱大島鉱業所は閉山になる。


L写真:長崎県西彼杵半島から大島大橋で大島に入るとすぐに造船所が見える。住友系の大島造船。
R写真炭坑操業時代はさぞかしにぎやかだったろう目抜き通り。写真の三叉路を左に行くと標識どおりに崎戸(炭坑)方向に行く。


L写真:大島楽市ショッピングセンター。炭鉱操業時代からあるショッピングセンターだ。もっとも何年か前にリニューアルしたようだが。確
     か経営は炭鉱経営企業だったうに思うが。今はどうか分からないが。
M・R写真大島炭鉱の慰霊塔。”松島炭鉱株式会社”と書いてあるのはここの炭鉱が池島との間にある松島炭鉱(この松島炭鉱/株は
      明治時代の佐賀銀行創業家のそれとは別物)の経営企業と同じだから。ちなみに開抗順序は@松島、A大島、B池島、の
      順序である。初期の採炭からいろいろ経営が変わっているが最終的には三井が全部の炭鉱を支配している。正式名称は
      「松島炭鉱/株、大島鉱業所」となる。


L写真:ショッピングセンター前に広がっている元炭鉱住宅が立ち並んでいた区域。今はご覧のように何か不自然な柱のようなものが
     いくつも草に覆われて並んでいる。雑草を刈り取れば当時の遺構をたくさん目に出来ると思うのだが。
M写真同地点から南の方向に行く。ず〜っとこんな感じばかり。よく目を凝らして見ると配管類やコンクリートの何かの基礎や明らか
     に採炭に関する施設様のものが結構確認出来る。
R写真奥のほうに行くとやはりかつての炭住があった。今も人が住んでおられるようだ。家の周りはキレイに掃除されている。


L写真:最上部写真の三叉路付近まで戻ってきた。かつての炭住は(当然だが)こんなにきれいに建て替えられている。ベランダには
     満艦飾とまではいかないが結構、洗濯物が干されている。空室もあろうがそれなりに入居者も多いのだろう。若年層の人口を
     増やそうとするならそれなりにインフラ整備をしていかないとダメだろう。町おこし、村おこしも人が居てこその話だ。
M写真百合ケ岳公園に行く道から見下ろした景色。L写真の住宅のある辺り。主だった炭住は当然ながら全部今風に建替えられて
     いる。上の写真のような当時を彷彿させる炭住は探さないと見つからない。
R写真よく見るとシックナー(浮遊選鉱機あるいは比重選鉱機とも言う)が見えたのでUPで撮ってみた。使われてはいないと思うが
     水が満水状態。雨水か。兵庫県の夏梅鉱山ではこのシックナーで魚を泳がしていたが。山奥で魚の養殖なんてのも面白い
     かも。
     *****     HOME     おしまい