大瀬鉱山 1/1
            愛媛県喜多郡内子町大峰    訪問日:2009.03



 愛媛県内子町にあった大瀬鉱山は明治時代その周辺にあった中小の銅鉱山である大内滝鉱山(別名程内鉱山orごんだ鉱山とも呼ばれた)、大瀬鉱山、熊之滝鉱山などの総称のことである。
 発見は諸説あり@江戸時代に隣の広田村、中山町ですでに稼動していた鉱山がありそこの山師が発見した。A富山の薬売りが熊の滝鉱山の露頭を発見した。B地元に残っている記録によると明治20年(1887年)に鉱脈発見、と年代も含めてはっきりしたものはない。
 ・大内滝鉱山(第61号鉱区):1887年(M20年)篠崎謙久郎氏により開抗したが失敗。1912年大瀬鉱山(株)が買取り探鉱したがこれも失敗。
 ・大瀬鉱山(第62号鉱区):大瀬鉱区は龍現寺裏山の尾根の北側、北東側斜面にあった。1888年河野清平、中尾新助等により開抗。当時年産350トン程の産出銅があったという。しかし1895年にはすでに鉱量枯渇。新鉱床も発見できず休抗。この頃現地では真吹製錬法で粗銅を生産、製品は馬の背に乗せ中山を経由、郡中港に運んだという。
 熊之滝鉱山(第68号鉱区):位置が大瀬鉱山とは逆で南西側斜面、龍現寺西側に位置する。採鉱期間は短く1889年(M22)〜1892年(M25)と4年間だった。(と言うのもここは個人経営のためか)全て手掘りだったので鉱体の上部部分しか採鉱できず深部はそのまま残ったままであった。

 三鉱山はこのように全てが一度は失敗したが1909年(M42)、矢野荘三郎氏等により買収した熊の滝鉱山で深部での有望鉱床が発見されるや早速、翌1910年矢野荘三郎、藤野亀之助らにより大瀬鉱山株式会社を設立。(本社:大阪) 以後それまでの旧式の方法を改め法人経営で各施設の整備・充実化、採掘、選鉱、製錬の機械化、鉱石・物資輸送の効率化(架空索道の建設)、などなど外国からも機械を導入し積極的に近代化を推し進めた結果、採掘量も飛躍的に増大。
 再開当時は地元で真吹(まぶき)製錬をしていたが鉱量が多くなりすぎ地元だけではさばききれずに精鉱段階で四阪島製錬所(住友)に送鉱することになる。これは余談だが山元から中山までは索道で送ったが当初、中山から郡中港までは索道がまだなくて荷馬車で運んだ。ところが荷馬車の数が半端ではなく日に数百台の荷馬車が通るのでその運賃が経営を圧迫することになりおまけに道路の傷みが激しく苦情が絶えなかったと言う。そんなわけで中山〜郡中間も索道化が急がれた。
 1913年(T2)、理由は不明だが大瀬鉱山(株)は三鉱山全てを久原鉱業(社長久原房之助、後の日本鉱業)に売却。翌1914年には第一次世界大戦が勃発している。当然ながら鉱業界は未曾有の活況。それまで休山していた中小鉱山もこのときとばかりに再開。久原鉱業はまもなく1915年に大瀬西鉱床という有望鉱脈を発見。これがはずみになり以後より探鉱・試錘が盛んになる。手元の資料によるとT3〜T6の四年間で掘進坑道は9076m、試錘は2692mとある。
 念願であった中山〜郡中間の索道が1914年(T3)完成。鉱石増産にも拍車がかかり製錬も国内のみならず朝鮮(鎮南浦精錬所)や台湾(金爪石鉱山精錬所)にも送鉱した。後1916年(T5)に自社所有の佐賀関製錬所が完成、そちらにも送鉱した。ちなみに最多は1916年(T5)で含銅硫化鉄鉱産出高は64282トンという記録がある。一日176トンである。銅品位は約4%というから悪くはない。
 第一次世界大戦後の世界恐慌により銅の国際相場が暴落。国内の銅鉱山も軒並み閉山となり1920年ついに大瀬鉱山も閉山。その後1950年(S25)若干の相場の持ち直しにより試錘・探鉱を試みたが失敗。遂に1954年(S29)休山(閉山)にいたる。鉱区権は現在も日本鉱業(1928年(S3)久原鉱業(株)から日本産業(株)に変更、翌1929年鉱業部門を分離独立し日本鉱業(株)を設立)が保有している。 

 最後に公害だが明治、大正時代は現地で製錬もしていたこともあり当時の製錬は技術的にまだまだ未熟で硫黄の排煙や排水なども浄化せず垂れ流しのため山の木々は枯れ川には魚がいなくなりズリで谷は塞がるなど鉱山で経済が潤いもするが反面、生活が立ち行かなくなる場面もあった。当時は他鉱山でもそうだったが硫黄の排煙で無風時など山の中が一日中帯状に雲海がたなびいていたという。人々はなれない内は目がちくちくしたり頭痛がしたりのどが痛かったりといわゆる公害の諸症状が普通だったという。1974年県の担当者が閉山後の公害関係を調査したが多少は農作物被害を認めたが有害物質の異常値はなし、と判断。現在に至る。下の滝の写真を見ると”本当に・・・?”と思うが。



 大久喜鉱山のページで書いた五十崎歴史民俗資料館での担当員の方に最初に案内していただいた場所がここです。内子町から国道379号線を東に。大瀬から北に入り県道241号に。しばらく行くとここに来る。R写真の真ん中に大瀬鉱山の一鉱山”熊之滝鉱山跡”の文字が。ここでは夫婦滝だけを見てもどる。その夫婦滝だが・・・なんと・・・


 これが夫婦滝。右が男滝、左が女滝。(確かそうだったと思うが・・・)


 ・L写真:女滝。きれいだ。
 ・R写真:ところがこちらは何か変でしょう?岩肌が溶けているような。事実そうみたいです。金属鉱物を含んだ岩肌に(強)酸性の水が流れているような構図ですね。この上流に熊之滝鉱山や大瀬鉱山があるのです。昔の鉱山なので鉱水処理をしていないのでしょうか。案内の担当員の方も、この川の水は強酸性なんですよ。だから魚がいないんですよ、と同じことを言っていた。地元民はいったい・・・?上の村民の飲料水は・・・?


 わき道から上の方に登ってみた。途中、農作業のおじさんに鉱山跡はまだでしょうか?と聞くと、”えぇ、まだ相当あるよ・・・”とのこと。引き返すことに。と言うのも上の方まで行ける道路があるので。しかし行ってみたが結局坑口は見つからなかった。


下に何枚か明治、大正時代の操業中の写真をUP。
                              <町史より>





 かつての大瀬鉱山事務所。今はどういう状態なのか分からない。物置ぐらいには使われているのだろうか。  昔の鉱山事務所。バックに裏山が見えるところを見るとどうやらL写真の道路の右側、斜面の下辺りからの撮影か。


 鉱山事務所周辺の風景。地図では竜現寺の辺りかと思う。、まさにのどかな典型的な日本の農村風景だ。この足元の地下にいたる所にかつての銅山の坑道が縦横無尽に走っているのかと思うとこうして地上にたたずんでいても何か不思議な気持ちになる。


 春だったせいか菜の花がとてもきれいでした。通過だけではもったいなくって撮りました。


内子町大瀬にある作家、大江健三郎さんの生家。今はご兄弟が住んでおられるとか。




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