山形県鶴岡市大鳥 大泉(大鳥)鉱山 Photo:2012年8月 (1/1) |
●主な採掘金属 : (主):銅、亜鉛、鉛、(副):金、銀、硫化鉄、アンチモン、マンガンなど。 ●主な採掘鉱石 : 方鉛鉱、閃亜鉛鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱、菱マンガン鉱、輝安鉱など。 ●経営母体 :古河鉱業→大日本鉱業/株(閉山) 山形県と新潟県の県境付近に位置する本鉱山はロケーションが海抜1000m〜1800mと言う高峰・朝日連峰に囲まれた極めて厳しい場所にあり峻険な山中での作業は決して生易しいものではなかった。特に真冬は日本海からの猛吹雪に見まわれ作業よりも雪下ろしの方が多いことも多々あったという。そんな中、1918年(T7)枡形採鉱場で大雪崩発生。飯場数棟が押し潰され150余名が死亡するという未曾有の大惨事があった(犠牲者慰霊碑あり)。 ・枡形山北側斜面に鉱脈が発見されたのがいつごろなのか定かではないが古い資料によると”地元民による発見〜1882年(M15)浅野某氏が鉱山を買収・・・云々”とあるので推測するに江戸時代後期から明治時代前半にかけてのことだと思う。最初はやはり金、銀目当てではなかったか。いずれにしろ浅野氏が鉱業権を得てから大滝鉱床や大床鉱床を開抗。大床鉱床(本鉱山最大の富鉱体)からはアンチモニーを発見している。 ・1895年(M28):古河市兵衛(古河鉱業創業者)が鉱山権を入手。 ・1905年(M38):古河鉱業がそれを継承。以降枡形山中に選鉱場や製錬場を建設したりそれぞれの間を索道で渡し大鳥部落ま で送った粗銅は足尾銅山に送られ銅の純度を上げて製品化した。この当時鉱山地内には従業員3000名近く いたというからその家族を入れると1万人近く、商店関係なども加算すると別子銅山のように険しい山中に1万人 以上の一大鉱山の街が出現していたことになる。 ・1918年(T7):大雪崩発生!150有余名の犠牲者。その後休山。 ・1922年(T11):古河鉱業、鉱業権を放棄。 ・1937年(S12):大日本鉱業(株)(似ているが日本鉱業[現新日鉱ホールディングス]とは別企業)が鉱山買収。これより数年間 に各鉱区も買収、寿岡に選鉱場を建設したり採鉱場から寿岡までの鉄索道を引いたり電力事情を改善したりと 近代化に尽力。 ・1945年(S20):鍋倉沢にマンガン鉱床を発見。 ・1946年(S21):選鉱場炎上。 ・1950年(S25):4年後のこの年選鉱場再建。その間どうしていたのか不明。 〜 :この間は詳細不明。 ・1978年(S53):大泉鉱山(大日本鉱業/株経営)も遂に閉山、現在に至る。 |
■左:山形自動車道「庄内あさひ」IC下車、県道349号線(最初は44号線だがすぐに変わる)をひたすら南下。12〜3キロ行くと荒沢ダム に到着。そこが写真の旅館「朝日屋」。どうやらこの地域の観光・登山の案内所になっているらしい。 ■中:同所の道路標識。神秘の巨大魚「タキタロウ」に会いたければ左手、大鳥池方向へ、349号線から新潟方向に行く人は右手方向に (小生はこっちに行きたかったが・・・)。できればゴールドパーク鳴海まで行きたかったがかなわぬ夢だった。理由は右の写真。 ■右:同所から数キロ行くと”通行止め!”。事前に電話で聞いていたのでやっぱり、という感じ。ゴールドパーク鳴海も文字通り元金鉱山 だった所だが何故か営業が非常に限定されていると言う(7/24〜9/25の毎週日曜日、時間は10〜14時まで)。それに山深い場所な ので途中がしょっちゅう通行止め。まるで宝くじみたいな金山行。なにせ昔はマタギが活躍していた朝日連峰の西の端。そんな場所 なのでなかなか人を寄せ付けない。そこにスーパー林道(県道349号線)を敷いたのだ。熊谷達也という作家がいるが彼の「邂逅の 森」の舞台になった場所。小生が一気に読んでしまった本だ。主人公は阿仁マタギ出身の男で彼のマタギ人生を軸に生涯のいろん な出来事を描いた作品。読んでみればいい。 |
■左・中:タキタロウ・オートキャンプ場のはずれにあった”神秘、巨大魚の里、タキタロウ”の案内看板。旅館「朝日屋」のすぐ隣。 ■右:寿岡発電所。通り過ぎて撮ったので北側を見る。 |
タキタロウ公園はずれのタキタロウ館の前にあった観光案内用地図をちょっとお借りして加工させていただきました(関係者の方、すみません)。架空索道は見たとうりあくまで想像図です。桝形山付近の坑口から寿岡の選鉱場まで索道で鉱石輸送されたことははっきりしていますが索道のルートが分かなかったので想像して作図しました。 |
■左:写真中央の左右に台地状に広がっているものは恐らくズリ山だと思う。 ■中:一度、行過ぎて戻る時に発見。真正面の斜面にその選鉱場跡があった。 ■右:鉱山石碑の道路わきから奥の選鉱場を望む。よく分からないがここが”タキタロウ村本部”らしい。うしろに平屋建ての事務所らしき建 屋があったが。 |
選鉱場跡を正面下部から撮影。桝形山の鉱床で採掘された鉱石を架空索道で寿岡のここまで送鉱しここの選鉱場で製錬場に送る”精鉱”(殆ど砂状態)の段階まで選別する。斜面上部の四角いコンクリのホッパーに送られて来たばかりの掘った鉱石を一時貯鉱しながら順次、下の斜面に据えられた機械にかけられ次第に細かくなり最下段に来た頃には砂のような状態で製錬場に送られる。 |
案内板より。 |
■左:道路から選鉱場を望む。選鉱場は木の陰になっている。わずかに傾いている案内板が上の写真の”選鉱場跡”。 ■中:「大泉鉱山碑」の石碑。前には(ここの鉱山で採掘されたと思うが・・・)きれいなサイコロ状の結晶の黄鉄鉱と他に2種類、重 晶石と黄銅鉱と思うがちょっと自信がない。裏側にも文面が刻まれている。(全文は下に) この碑は昭和12年開山から昭和54年3月、まで半世紀に亘り尊い歴史を残した大泉鉱山発祥の地としてその証を後世に伝える為建立された。鉱山の大動脈である採鉱課は碑の地点より12キロ奥地の枡形にあり坑道総延長は60キロに達しこの坑道から採掘された鉱石の総生産量は140万トンと記録されその鉱石は鉱山の生命線である直線8キロの架空索道により搬送され当地、寿岡選鉱場で精選、処理されていた。鉱山施設の規模は県下一と称えられ鉱山で働く250有余名の従業員、及びその家族は全山一家を旨とし誇りを持って人生の大半を大泉鉱山に捧げた。鉱山と大鳥地域そして朝日村との共生してきた時代を文献として伝える為に朝日村は平成7年3月大泉鉱山史を発刊されている。今また多くの人々の善意に守られてその心の灯に打たれ在りし日の隆盛を偲びここに閉山20周年に因み大鳥地内の空にそびえ立つ碑を鎮座させた。 平成11年5月竣工 建立者:大鳥地域住民一同、大泉鉱山有志一同、朝日村 ■右:選鉱場の上から足元の住宅地を望む。小さく石碑と案内板が見える。 |
■左:選鉱場を上に登る途中、強烈にあの艶っぽい独特の香りがかなり離れた距離から薫ってきます。あっ、これはあれだな!と思ってい たら案の定、ヤマユリただいま満開です!周囲を見ると所どころに結構咲いてます。どれもみな満開!”さ〜っ、寄ってらっしゃい、来 てらっしゃい・・・”と言わんばかりに・・・う〜ん、ついよろよろっと行ってしまいそうな・・・それ程濃い”香ほり”でしたよ(笑)。 ■中:選鉱場最上部のホッパー、鉱石取り出し口。 ■右:シックナー(比重選鉱機)だと思いますが小さいですね。攪拌用の装置の跡も見当たらなかった。ただの沈殿槽でしょうか。ならどうし て円形にしているのでしょう? |
最上部ホッパー全体写真。石積みと鉄筋コンクリートで選鉱場と言うのはどこもウルトラ超頑丈に出来ている。解体時は各種機械と鉄骨や木造部分を撤去し他の基礎部分はどうしても残ってしまうようだ。 |
■左:上からシックナー(だと思う・・・)越しに下を見る。日本的田園風景の中にさほど古くもない住宅が点在、その一角にデ 〜ンと廃墟のような選鉱場がその基礎だけとはいえ文字通り”野ざらし”。もう息絶えて久しいと言うのにとてつもない 存在感を現し下界をまさに睥睨するかのように見下ろしている。なんなんだろう・・・この存在感は・・・ ■右:中段辺りを見る。左写真の一段下あたり。今になってはもうどんな機械類があったのか想像するしかないが恐らく24 時間、四六時中煌々と明かりがつき騒音と埃にまみれて一種、不夜城の如くそびえていたのだろう。 |