OOGUKI  KOOZAN
大久喜鉱山 1/1
           愛媛県喜多郡内子町大久喜       訪問日:2009.03



 大久喜鉱山の発見は定かではないが下の写真にもあるようにおよそ1830年(江戸時代後期)頃、藩主加藤家により神南山東斜面にて露頭発見わずかばかりの採鉱をしたと伝えられている。手元に五十崎町史の鉱山関連部分があるので少し長いが要点のみ記す。
 「〜後、明治23年(1890)周桑郡の平岡春齢がウツケ谷で、東宇和郡の尾形磯吉がハチノス谷で探鉱を試みたがいずれも失敗に終わっている。S4年(1929)12月八幡浜の米田政行のものとなったがS9年(1934)5月、昭和鉱業に譲渡。以後積極的な機械化、近代化を図りS17年(1942)12月には月産銅量242トン(粗鉱含銅量)を記録。
 戦後はもっぱら探鉱に注力。本坑鉱床以外に山王、南部、西部、北部、大登抗の各鉱床を発見開発、さらに本山北部地区と本山西南部地区(渓寿抗)などで鉱床の存在を確認。
 昭和鉱業が手がけて以来30年間の銅産出量は約23、200トン、坑道延長は約75キロ、ボーリングは約143、900mにも達している。 〜中略〜 大久喜鉱山付近の地質は御荷鉾系(みかぶけい)と称され緑色岩類が主体で神南山を中心として南北約2,5キロ、東西約10数キロ以上の範囲にわたっている。鉱床は黄銅鉱、黄鉄鉱を主体に含銅硫化鉄鉱鉱床で少量の閃亜鉛鉱や赤鉄鉱を伴っている。鉱石の品位は高くは10%以上、低くは1〜2%である。〜」とある。
 
 昭和鉱業が1934年操業を開始した頃の鉱石の運搬方法はかます詰めにして人力で背中に背負って採鉱場から山王地区の県道まで運んでいたが当然ながら効率悪くまもなく採鉱場所からヨソリ地区まで架空索道を引くことになる。これにより飛躍的に人件費の節約と運搬量の増加が図られた。更にS12年(1937)9月には選鉱所近くから県道に面した貯鉱場までインクラインが完成。これにより生活物資や作業道具その他及び鉱石運搬などにも一気に拍車がかかった。
 
 もともと鉱山というのはだいたいが山奥深くにあるもので鉱石や物資の運搬にはどこでも難渋している。その点大久喜では五十崎町の街に隣接しておりあらゆる面で非常に恵まれていたと言える。
 インクラインが完成した1937年頃は日中戦争から太平洋戦争に至る時代で軍需物資としての銅は軍部からも奨励され何かと便宜を図られた。結果、採掘のための人手、資材、機械、食料、薬品などなどあらゆる物が優先的に調達され銅を初めとする金属類の生産も順調に進んだ。この頃日本人労働者に混じり朝鮮からも徴用されてきた人々が多いときで150名ぐらい働いていたという。(1948年12月現在労働者数:265名という) 
 
 戦後も長く繁栄していた大久喜鉱山だが1965年頃から鉱床の貧鉱化、鉱量の枯渇などにみまわれそこに安い輸入鉱石が入り次第に採算が悪化。更なる設備の近代化や合理化などを図ったが1968年遂に閉山宣言。地元の経済にも多大の影響を与えるため住民から鉱山継続の運動起こるが3年後の1971年、遂に閉山決定。後しばらくして鉱山の観光化や天文台構想などもあったらしいがいずれも実現せず現在に至る。
 ちなみに閉山まで経営していた昭和鉱業は現在、「昭和KDE」という社名になり森コンツェルンの傘下企業である。



  


 松山自動車道、内子五十崎ICで降りて大久喜鉱山に向かいカーナビをセットしていると写真の”五十崎歴史民俗資料館”の名前が。ここでちょっと思案。”そうだ、ここで何か資料が分かるかもしれんな〜”と思い急遽、資料館にカーナビをセットアップ。着きました。が、あれ?? な、何ですか・・・これ。休館!よく見ると去年から休館でした。でも、あきらめずに全部読むと「見学希望者は下記まで連絡を」とのこと。折角ここまで来たのだからと電話をすると担当の方が非常に親切に対応してくださりいくらも待たずに車でやって来られた。(この後、同氏には大変ご親切に数時間にわたり大久喜鉱山の話や熊の滝鉱山(大瀬鉱山)の話と現地までの案内までもしていただき大変勉強になり助かりました。当地出身の作家大江健三郎さん(内子町)の話もお聞きしながく忘れていた昔読んだ小説の事なども思い出した次第です。本当にありがとうございました。) 本題にもどります。
 と言うことで資料館の中に入り見学させていただきました。


 左の写真の下に説明があるが読めないので
                      下に記す。


鉱業 大久喜銅山(昭和鉱業KK大久喜鉱業所)

当鉱山の発見の端緒は定かではないが約160年前(天保年間、西暦1830年頃)時の藩主、加藤家によって開発されたとのことである。神南山中腹に事業所を構え含銅硫化鉄鉱を産出する。昭和初期より昭和鉱業がKKが操業し粗鉱は瀬戸内海四阪島へ送られていたが昭和46年閉山となる。


 上の写真のUPです。小・中どちらかわかりませんが学校のようですね。あるいは両方かも。左上の斜めに建っているものはどうやら解体された選鉱所でしょうか。いつ頃の写真かわかりませんが選鉱所の規模がちょっと小さいような気も。写真の関係でしょうか。


 豊秋橋から見た選鉱所のあった斜面。


 左の建物はなにか小型のホッパーのような感じだった。裏に回ると資材置き場。位置的には鉱山の真下部分にあたる。前が小田川。


 鉱山跡を地元の人に聞いて池から左に入り道なりに上がっていく。クネクネと行くと途中に写真の看板がある。


 よくある看板。こういう看板は必ず止まって確認する。すると写真のようにターゲットが表示されていることが多い。非常に役に立つ。


 鉱山跡にやってきました。これは鉱山事務所でしょうか?入り口(どこが入り口かよく分からないが)にあった木造平屋建てです。一部畳や襖なども見えたのであるいは鉱山住宅だったのかも。


 上の写真の下り坂から本体方向を撮影。真ん中の道路の傾斜は見て分かるとうりかなりきつい!勾配はおそらく10%位はあるのではないか。ただ解体作業で付けた道路か初めからあった道路か拡幅しただけなのかまでは分からない。写真中央の四角い平地はなんだったんでしょうか?
 工事は途中で土地の権利関係で止まっているとか。


傾斜のきつい道路を中間に立って上下を撮ってみたがあんまり意味ないですね。シュン!?


 今にも倒れそうな廃屋にこんなものが。ピンボケで薬品名が分からない。よほど怖い薬品だったので手が震えたかな?(笑) 黒板には何が?化学式?ではなさそう・・・。


 これはちょうど今回歩いた選鉱所エリアのど真ん中辺りに位置する。上から鉱石を落としていってクラッシャーやボールミルやテーブル選鉱等々で徐々に粗鉱から精鉱に細かく砕いていき選鉱所を出ると後は製練所に運ぶ。ここは選鉱過程のどの辺だろうか?


 基礎だけがコンクリートとボルトだけを残して哀れさを誘っている。  コンクリートの縁石で囲っているが縁石の向こう側は絶壁でドスンと落ちている。


 これは何でしょう?もちろんズリ山ですよ。ここの鉱山の歴史はよく分かりませんがどうやらズリ山の上に選鉱所を建てていたのかもしれない。現代の都会でのゴミの埋め立て地に高層ビルを建築しているのと同じ理屈だ。  これは重機の廃タイヤ。大きさを知るためにキャップを置いたがちょっと比較しにくいかも。お遊びです。


 昭和抗坑口である。大久喜鉱山の坑口はこれひとつではないだろうけどどのサイトを見てもこの坑口しか載っていない。まさか坑口一個?
 L写真は工事事務所の裏側の光景。R写真は正面から撮影。

 下の写真はズリ山との位置関係を知るために合成しました。坑口と坑道を残して山を全部削り取ったような形になってますね。



 坑道内部。トロッコのレールが敷かれていた。奥は自然崩落か埋め戻しかどっちだろう。  右の建物は工事事務所の裏の壁。地面のレール跡が分かるだろうか?左右に白い跡が残っている。


 坑道からまっすぐの延長線上に何やら頑丈な基礎が。スタッドボルトがあると言うことはこの上に機械が載っていたらしい。アルミバンは解体工事用だと思うが。  正面は巨大なズリ山。解体前はこの辺り一帯全部選鉱工場でところ狭しと機械類が設置されていたと思う。おそらくズリ山も向こうの山も工場の陰になって見えなかったことと思うが。


 選鉱所跡の南側最奥部方向を撮影。一面赤土だが見事に解体、整地されている。いったいここで跡地利用は何をするのだろうか?ちょっと耳にした限りでは何やらオフロードバイクのレース場とか他にもいろんな、ええっ?と思うようなプランがあるとか・・・。でもこの手の行政のプランは全国ことごとくシッパイしてますもんね。


 他サイトから一枚だけお借りしました。下の写真と比較するため。いわゆるBefore Afterです。偶然ですがカメラアングルがほぼ同一ポイントだったので。
 旧選鉱所上部から五十崎(いかざき)市内方面(北方向)を望む。川は小田川。向こう側の橋が豊秋橋、手前があけぼの橋。
 上写真の右端or下写真の正面の建物だが鉱山住宅ではなかったかと思う。
 旧選鉱所上部から小田川方面を見下ろす。
 手前の更地はおそらく学校跡地だと思うが。解体前に来て見たかった。ザンネン!


 あけぼの橋から大久喜鉱山方面を見る。
鉱山は写真の左上方向。





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