北海道寿都郡黒松内町北作開 大金(おおがね)鉱山 Photo:2012年8月 (1/1) |
●主な採掘金属 :金、銀。サブとして銅、鉛、亜鉛。 ●主な採掘鉱物 :輝銀鉱、黄鉄鉱、黄銅鉱、閃亜鉛鉱、方鉛鉱、菱マンガン鉱など。非金属鉱物として重晶石など。 ● 品 位 :本鉱山での最も有望鉱床は西谷樋(木ヘンではなく金ヘン)と言われているもので鉱床規模は、ヒ押延長:N30 〜60°Wに350m、傾斜延長:NE85°に180m、脈幅:1〜2m(簡単に言えば、350m×180m×1.5mの鉱脈と 考えればよい)で平均品位は金:25g/t、銀は金の約10倍程度であったという。(昭和26年の資料から) ●経営企業 :(発見者は)陰山亀太郎氏→(最盛期は)日本鉱業(株)→日本精鉱(株)などいろいろ→(閉山時は)三菱金属 鉱業(採掘はせず製錬のみ)。 <鉱山史略歴>(一部、冊子「BYWAY後志」から抜粋) ・1913年(T2):陰山亀太郎氏が”夢のお告げ”で金鉱脈を発見したと伝えられている。 ・1932年(S7):当初は陰山氏等数人で採掘していたがまもなく日本鉱業(株)に鉱業権が移り本格的に投資、採掘が始まる。 この後〜1943年までの大金鉱山最盛期の11年間の金、銀産出は記録によると、金:1.6トン、銀:31トンにも 上ったという。 ・1943年(S18):太平洋戦争の中頃にはいわゆる”金山整備令”により休山。抗夫や鉱山機械などは周辺の鉱山に移転。 ・1945年(S20):戦後、採掘は再開したがなかなか有望鉱床に当たらず低品位鉱石に悩まされる。そのせいかどうかこの時期、 〜 経営が頻繁に入れ替わり日本精鉱(株)や帝國鉱業開発(株)など他数社が経営に携わったがいずれも撤退。 ・1956年(S31):三菱金属鉱業が鉱業権を継承。当時三菱は隣の町、寿都に亜鉛、鉛の寿都鉱山を持ちながら製錬場がなかっ た為、遠く宮城県の細倉鉱山まで送鉱していたので効率が悪かった。そのため大金鉱山の製錬場だけを使い 採掘はしなかった。 ・1973年(S48):三菱も鉱業権を放棄。大金鉱山の閉山決定。現在に至る。 大金鉱山(道南の黒松内町北作開にある天狗山[840m]南斜面に広がる廃金鉱山)には残念ながら精錬所など遺構の見える地点まで今回はいけなかったのです。と言うのもものすごい丈の高い雑草で覆われていて本丸までの一本道がしばらくはアタックしたのですが真夏の暑さのせいもあり途中で気がくじけました。8月の前半でしたが北海道はもっと涼しいと思っていたのに意外や意外、思いのほか暑かったですね。遺構の地点はわかっているのでまたいつか気候の良い時期にでもリベンジしたいですね。 と言っても写真の一枚もないと面白くないし証拠にもならないので数枚の写真をUPします。ついでに本の紹介も(下記参照)。 |
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<本の紹介> |
〜書 評〜 〓後志の奥行きに出会う旅を提案するインタビューブック〓 ●主な目次: ◆山中に眠る鉱山遺構、黒松内町大金鉱山 ◆武四郎はなぜ真狩川を間違えたのか、蝦夷古地図の系譜 ◆後志の歴史ある漁場のまちなみと建築、などなど他多数。 道南・後志地方の情報誌として他にも多数の地元密着型エッセーや農場、牧場などのインタビュー、ユニークなコラムなど多彩な記事と写真で読者を飽きさせない内容だ。編集と取材陣の努力と苦労もかいま伺わせる雑誌に仕上がっている。 〓購入方法〓 ●雑誌名:『BYWAY後志』(”バイウエイしりべし”と読む)、A4版、●価格:1,050円(税込み) ●発行元:はまなす財団BYWAY後志編集部、●電話:011−205−5011(電話すれば送ってくれます。) |
現役当時の製錬場。元山からの架空索道も写っている。大金鉱山のサイトによくある草生した石積みの神殿のような廃墟は元はこんな姿だった。想像できるだろうか・・・(上に掲載の冊子「BYWAY後志」から転載) |
●左:後ろを振り向いて撮影。海は寿都湾。対岸ちょっと右手が寿都市街。海岸線には風発が多数設置されている。 ●右:ここだけを見るとまるでアマゾンのジャングルのようだ。遺構の場所は正面の森の中のようである。 |
●左:この地道の向こうが遺構地。案内していただいたYさんによると1キロもない距離だと言う。 ●右:しばらくアタックしたが段々とこの状態がひどくなり暑さもあり気がくじけました。 |