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   福井県大野市面谷    面谷鉱山(おもだに)      Photo:20156  (1/1)  
主な採掘金属 :
主な鉱業権者 :



左:福井市から東方向へ国道158号線をどんど進み越前大野を超え右折すれば中竜鉱山に行ける分岐点も超え九頭竜湖
   に向かって東進。湖を右に見ながらしばらく行くと箱ケ瀬橋の分岐点に着く。ここを右折し橋を渡る。当日は工事のせい
   か時間制限があった。幸い制限にひっかからないで走行可能。

右:面谷橋まで来ました。これを渡ればすぐ左に折れる。

これより約4キロ、面谷川の両サイドが面谷鉱山の縄張りである。相当大規模だ。さすが三菱!

左:昔の鉱山操業時代の廃屋だろうか、それとも最近のものだろうか・・・
右:
砂防工事だろうか人はいなかったが道路に重機だけが残っている。

左:  

中:  

右:  

県道230号線から鉱山エリアに入ってくると殆どいきなり周囲全部がこの光景だ。何という光景だろう。これだけのズリ山が形成されるのは少々の規模では出来ない。思った以上に大規模な銅鉱山だったようだ。  
左:  

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左写真:ここは墓地のようです。
右写真:読めそうにないので下に転記します。  
                              〓 面 谷 の 由 来 〓
 面谷のあるこの地方一帯は昔から穴馬郷と言われていた周囲は山に囲まれ南には平家岳、東北に荒島岳、その中央部を大小の川が合流し九頭竜川に流入する。面谷はこの支流、面谷川上流の山峡に出来た部落である。この地域は農耕地が少なく気候が酷烈であった。そのため早くから開発されていた鉱山にのみ依存して数百年に渡り面谷を中心とした生活圏を形成してきた。そして面谷鉱山の経済活動の消長と運命をともにしてきた。
 鉱山発見の時代は明らかではないが康永年間(日本?業誌には康平)本村猟師清兵衛が面谷?平山頂に露出した巨岩の間にうずもれた一大老松根に露れた鉱苗を発見し是を掘削して鉱脈に当たったという。そして天正年間、碓井直右衛門更に開抗し後に大阪の豪商和泉屋、次いで西京の分銅が金主となり元亀の頃に隆盛を極め元和の頃はやや盛況に赴き採鉱業者七十余戸で一村落をつくっていた。面谷六十三戸の先祖である。その後、寛文九年には福井松平候が、天保三年には大野藩士土井候が幕府から資金を借りて稼業するなど藩財政にも多大な影響を与えた。
 明治四年に明治新政府よりの請負として村民の採掘が許可され杉村次郎と共同で鉱業社を設立創業した。そして明治十七年秋田弥右衛門が、ついで明治二十二年三菱合資会社がこれを継承し本格的な近代鉱山の経営が開始された。面谷は三菱合資会社が鉱山を経営していた明治二十二年から大正六年頃までが全盛時代であった。最盛時には六百戸・三千人が住んでいた。大野町に電気がない頃既に面谷川の流れで自家発電し電話・電信も早くから開通し「穴馬の銀座」といわれた。しかし大正十一年、遂に閉山のやむなきに至り全住民は故郷を捨て主として大野、名古屋、岐阜、東京、その他各地へ離散し現在は荒廃地と化してしまった。となりの墓地は当時、面谷に居住していた人々の先祖の墓である。

こちらはもっと読めそうにないので同じく転記します。彫った文字を後で読めるように写真に撮るのにひと苦労しました(笑)。
(読みやすいように改行しました)
                              南 無 阿 弥 陀 仏 
大正7年、面谷鉱山の景気最盛期からようやく斜陽に傾く頃であった。その年10月末頃に悪性の流行性感冒(インフルエンザ、面谷では成金風邪と言った)が全国を風靡した。
 丁度面谷鉱山でも秋の慰安会の芝居が終わった頃全国のあおりを受けてここ面谷にもこの風邪が入り込み全部落、全戸の人々が老いも若きも少なくとも一戸に(?)一人かしかも一斉に取り付かれ悩まされ、果ては面谷鉱山創始以来一ヶ月の中に未曾有の死者を出すに至ったことは誠に残念至極のことであった。今日の医療施設や医療の充実完備した時代とは異なり応急の手当てを施す術を知らずその惨状は誠に惨憺たるものであった。山奥の一寒村にいかなる経路を辿って風邪が入り込んできたものか分からない。

 秋も深まり面谷では10月(日時不明)鉱山の劇場で家族の慰安会が催され芝居か映画(活動写真)の会場で当時の伊藤医院長が悪性の感冒が流行しているので充分注意するよう話があった。まもなく面谷も患者が出始め10月中旬頃より11月にわたり(?)の全家族はほとんど軽重の差はあったが病魔におそわれていった。死亡者も働き盛りが多くある家では父を失い、ある家では母を失い、またある家では子供を失い実に悲惨な状態だった。流行が始まって一ヶ月あまりの中、90余命の死者が出たので鉱山の機能は一時中止をしたような状況だった。当時の鉱山の診療所の人員は伊藤院長に花(?)という薬剤師、看護婦と尾崎六兵衛の孫でウメさんと柳瀬正吉の孫(?)さんの5人であったが患者数が多いため医師の往診もままならず当時の面谷の人口は1000人ぐらいで鉱山は銅の値下がりで不況のため全盛期の人口の半数ぐらいになっていた。

死亡者の始末の状況は斉藤四郎氏と外の数名の若い人たちが幸い感冒にかからなかったのでその方々が日夜、死者の始末をしてくださった。火葬場(面谷ではサンスイと言った)村の上の離れた墓地の右側にあり一日に火葬できる仏は十名迄で残りの遺体は左側の葬儀の諸道具を入れる物置に ??一旦??の仏を保管し? 順番に火葬したようである。火葬場の建物も連日の余熱でついに焼失してしまいそれからは野天で仏を火葬した。棺桶は鉱山の工作課の大工さんが作ったそうであるが昔から貧富を問わず座棺であった。後にはそれも間に合わずごく簡単な四角い木箱で死体を横にして運ぶ有様で悲惨この上もないことであった。

死亡された90余命の方々は殆ど法名も持たずお経の一巻もあげてもらえず白骨となられた。その霊を慰めるため大正末年、轟弥五郎、岡幸吉、鳥山進吾氏等が発起人となり、当時尾崎藤衛門の家で長く呉服屋を営んでいた野村新吉氏が金2百円を寄付され慰霊碑を建立した。今日でも墓地の入り口に、南無阿弥陀仏と天然石に彫られて現存している。当時の面谷に住んでおられた方々はあの悲惨な状況を子や孫に伝え故郷の墓参の折には90余命のご冥福を祈っている。この成金風邪がようやく終了を遂げる大正8年頃から面谷鉱山の終焉となるのである。
                                         (岡山三栄氏談を元にした)


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