山形県尾花沢市銀山新畑 延沢銀山 Photo:2012年8月 (1/1) |
●主な採掘金属 :銀。 ●地質及び鉱床 :(低中温)熱水鉱床。 ●経営企業 :(江戸時代のため)幕府や藩の経営となる。 延沢銀山は1456年室町時代の中頃に石川県金沢の人、儀賀市朗左衛門氏が発見したと言われる銀鉱山である。後に豊臣秀吉にも献上したともいわれ江戸時代の寛永年間(1624〜45年)が銀採掘の一番の最盛期であった。ひところは石見銀山、生野銀山と並び称せられる日本三大銀山のひとつに数えられた。1634年幕府直営の直山(じきやま)となり50年程続いたがまもなく産出量が減少、1689年閉山となる。 |
■左:尾花沢市の国道347号線から県道29、県道188と乗り継ぎ(延沢)銀山温泉の中心街に入っていきます。銀山の”本丸”は写真奥の 方だ。ここから徒歩約20分ぐらい。 ■中:分かりやすい名前”銀山川”。この川の上流に坑口・坑道などがある。訪れたのは8月の夏真っ盛り!暑っつ〜イ!?もう通行人は みんなタオル首からぶら下げ完全に顎が上がっていましたよ。子供たちは川にザンブリと川遊び真只中!(わしも入りたかった 〜・・・) ■右:鉱山は写真の地図、右下方向。 |
銀山川の両側に沿って旅館があるのですがこれらの建物、ちょっと変わってますよね。大正ロマン建築という触れ込みらしいですが・・・。 |
さあ、ここからが鉱山エリアです。と言っても温泉街とくっついているので楽にこれる。”銀山白銀公園案内”とあるが銀山白銀公園そのものが鉱山エリアになっている。 |
疎水坑跡。出ました!鉱山での一番の悩み事、出水対策である。現代のように水中ポンプがあるわけでもなく江戸時代までの鉱山はみんな出水問題で鉱山労務の半分、時にはそれ以上の労力をとられていた。排水がうまくいかず廃鉱山になったヤマがいかに多かったことか。 |
■左:先に進みます。こんな道です。 ■中:精神科医であり歌人の斉藤茂吉さんの石碑もありました。 ■右:思わず水に浸かりたい程でした。この写真の手前では子供たちが水遊びしていたが。延沢銀山の鉱床はこの川の上流(この辺り も含めてだが)一帯である。 |
途中にはこんな坑口も。延沢銀山の詳細がよく分からないのでこの坑口が何坑道か不明だが内部から冷たい風が吹いていたので閉塞坑道ではない。屈んで内部を覗いてみたがどちらかに曲がっているみたいで奥はどんな様子か分からなかった。 |
他にもこのような坑口がいくつか口を開いている。こういうところは兵庫の生野銀山に似たところがある。生野銀山でも観光坑道ではなくその上、山の奥の方、ずっと歩いて上った辺りがこんな感じである。見たところ”試し掘り”のように思えるが・・・。 |
■左:延沢銀山の本丸までやってきました。公園と言うだけあってきれいに整備されている。 ■中と右:坑口です。枠組みは合掌枠ですね。岩盤があまり頑丈ではなく周囲からの地圧の影響を受けやすいようですね。内部は木材 (恐らく松材だと思うが)での支保坑だらけだった。 |
■左:支保坑だらけの坑道内。 ■中:”焼き堀り”の説明。要はタガネやノミを使わずに薪などを燃やして目的の岩盤を熱しその後水を撒いて急冷させそういうことを何度 も繰り返すことで岩盤を脆くさせ採鉱する方法である。一見、一度に大量に採鉱できてよさそうに思うが危険この上ない。煙道も作ら ないといけないし落盤も危ないし何よりも火を使うこと自体が危険だ。 ■右:湿度の高いのがお分かりだろうか。年中地下水(雨水や雪解け水)が滲出しているので気温は低いがほとんど湿度100%、飽和状 態に近い。汗にぬれたTシャツもここでは乾かない。気温が低いのでさほど気にはならないが出てからが霧でよけいに濡れている。 |
■左:上の写真の坑口から入って出て来た別の坑口。なんという坑口だったか南坑口か北坑口どっちかだと思うが。 ■中:外の岩盤から中が見える場所があった。 ■右:銀山発見者の儀賀市朗左衛門の銅像があったらしいですね。この時はもうくたくたでした。いつも思うのだがもう少しゆっくり回らな いといかんな〜と反省しきりです。このDNA何とかならんのかね〜、イヤホンマ・・・。 |