NISHINA KOOZAN
       仁科鉱山   1/1    
        静岡県賀茂郡西伊豆町大沢里白川      Photo : 2009.03





 仁科鉱山というのはあまり知られていない。どちらかと言えばマイナーな部類に属する。掘っていた鉱石は主に明ばん石。アルミニウムの原料になる鉱石である。平和時であれば民需用でも戦時中という状況を考えれば軍需用、特に戦闘機やその他航空機関係、兵器用の材料であるジュラルミンを製造するのになくてはならぬ原料だ。
 もともと1930年台に発見された鉱床だから日本の金属鉱山の中ではかなり新しいヤマと言える。最初はもうちょっと西側(海側)の宇久須鉱山で明礬席を採掘されていたが後、1942年頃戦禍が激しくなり南方戦線が敗北に次ぐ敗北でそれまでのアルミの原料、ボーキサイトの輸入が不可能となり遂に時の軍部は国内での調達に必死になる。翌1943年宇久須鉱山は宇久須鉱業(株)が仁科鉱山は戦線鉱業(株)<国策企業・初代社長は軍人>が設立されアルミ増産に励む。しかしアルミナの質があまりよくないせいか電解製錬がうまくいかず完成品の歩留まりが悪く増産が思うように進まなかったらしい。そこで軍部は1944年〜1945年にかけて住友に宇久須鉱山を古河に仁科鉱山を半ば強制的に経営をさせて確実な増産をもくろむことになる。(それ以前からだがこの頃に特に朝鮮人、中国人の強制連行が激しくなり仁科や宇久須にも大量の連行者がやってくる。特に仁科鉱山の場合、その”戦線鉱業”という社名からも分かるように国策企業で且つ軍人の経営だったためか連行者の扱いは一際ひどかったという証言もあるようだ。)
  一段と敗色濃くなった1945年の年明け頃から(事実上軍部に命令された)古河経営の戦線鉱業は新たに仁科鉱山に数千人の労働者を投入して選鉱所や索道やその他土木工事を突貫工事で慣行、周辺の鉱山から機械類なども移転したりしたが結局、同年8月15日、完成を待たずに敗戦を迎える。その後鉱山が再開したという話は聞かない。
 結局、仁科鉱山というのは1930年〜1945年の15年間という鉱山としては短い間に実際に明ばん石を採掘、アルミを製錬していた時期はもっと短くなんともはかない鉱山だったようである。敗色濃い戦時中という事情もあろうがそれにしても手にした”成果”に比しなんと犠牲の多かったことか。ちなみに秋田の花岡鉱山で起こったいわゆる花岡事件も同時期である。



                               


 県道59号線を西伊豆町から北東方向、湯ヶ島温泉方向に向かい走っていると5〜6キロで分岐点に。バス停「出合」だ。ここで右折。白川沿いに数キロ行くと目的地だ。


 バス停の時刻表。驚くほど便が少ない。右の地図の四角くアカで囲った部分がだいたいの仁科鉱山エリア。


 そのまま行くと次第に左右に鉱山時代の遺構らしきものが見えてくる。この辺りはおそらく強制連行されてきた朝鮮人・中国人たちの飯場があった場所だと思う。もう少し行くと学徒動員されてきた学生達の宿舎もあった。ついでに言うと戦時中は労働力不足のため各地の鉱山で学徒動員が実施されていたようだ。それも理系ではなく文系の学生が主だったようだ。これも余談だが昔聞いた話では戦時中、特高や憲兵に睨まれたり左翼系の人たちは捕まると戦地の最前線にやられたり鉱山や炭鉱などに送り込まれたことがあったという。真偽の程はよく分からないがさもありなんとも思う。


 ここの地名、赤沢(赤川)の名前の由来だと思うが文字どおり川が赤い! 鉄分のサビなんでしょうね。この川は上から下までず〜っと真っ赤でしたね。見事に。


      <L写真>
 ここ仁科鉱山で犠牲になった中国人殉難者の慰霊碑である。
 仁科鉱山という名前自体一般にはほとんど知られていないせいか場所も奥まっていることもありこの慰霊碑も訪れる人はほとんどいないだろう。
                 <写真の内容>
 太平洋戦争の末期、多数の中国人が強制的に連行されわが国の鉱山、土建、荷役等々労働に従事させられた。その一部、178名が当時仁科村(現西伊豆)にあった戦線工業に就労したが当時の極度に悪かった食料事情と強制労働のためこのうち82名が現地において死亡された。これらの遺体は1954年殉難者慰霊実行委員会により手厚く葬儀が行われた後遺骨は本国へ送還された。この度有志の発起人により母国の解放を見ずに他界された殉難者の霊を慰めるとともにこのような悲惨な犠牲をもたらした戦争への反省と子々孫々にいたるまでの日中友好の誓いを固めるためゆかりの深いこの地に中国人殉難者の慰霊碑を建立した次第である。
                                      酒井郁造
     1976年7月4日  西伊豆町中国人殉難者慰霊碑建立実行委員会


 まだ真新しいお茶とジュースがあった。花は無かったが。お供えだとは思うが・・・まさか誰かが捨てていったものか?お供えにしては置き場所がちょっとねえ・・・。???


 何かしら非常に気になる老木(巨木)でした。おそらくは数百年かそれ以上この地にじっとたたずんで鉱山の様子を見てきたことでしょう。ここで働いていた人々や家族の疲れた顔や喜ぶ顔、泣き顔や酔っ払った顔、あるいはいろんな揉め事や子供たちの歓声などなど上からじっと眺めて微笑むこともあれば”何を馬鹿なことを!”と怒りたいことも多々あったことでしょうね。
 この老木は中国人殉難者慰霊碑のすぐ前にあります。


 慰霊碑の前の広場。かつてここには鉱山事務所があったらしい。L写真の方は当時の建物の基礎だけが残っている。同じくR写真は石垣が残っています。


 慰霊碑前からいよいよ”本丸”に入っていきます。これは最初の橋、赤川橋。架橋年は昭和39年10月。戦後架け替えたのかも。


 橋を渡り最初は工事車両を見かけた左手方向に行くことにした。道はダンプが通るぐらいだから延々とこんな道路が続く。  左手方向にどんどん行くと川向こうにまた石垣が続く。今となってはもう何の跡だったのか資料か生き証人でもいない限り分からない。ひたすら歩いたがどうやら方向違いのようだ。というよりも周辺を目をさらにして歩いたがそれらしき登坂できるような箇所が見つからない。仕方なく元の分岐点まで戻る。


 先ほどの赤川橋まで戻ってきた。そして今度は右手方向に。というのもさっきの工事車両の運ちゃんにいつもの”声かけ運動”を実施。そこで仕入れた新ネタ?を信じ赤川林道に行くことに。その運ちゃん曰く”赤川林道に沿っていくと左手に赤沢歩道の標識があるからそこを登っていくと坑口らしきものがあるよ”とのこと。その新ネタを信じ行くことに。道路は四トンダンプクラスなら楽に行ける道だ。どうも工事用らしい。


 ちょっと行くとこんなUの字の跡が。ひょっとして元インクライン(傾斜鉄道)かも? 鉱山の守り神、大山祗神社。登ってみようと思ったが何故か鳥居に結界が張ってある。なんとなく奇妙だったのでやめた。 もう少し行くと左手に今度は人工的に四角く削ったような跡があった。左右2〜3mぐらい、奥行きも同じぐらいの小さな跡だった。上からケーブル様のものが垂れ下がっている。何か分かるでしょうか。ちなみに林道の右側には赤川が流れている。


 やってきました。いよいよ坑口行きですよ。でもどこから登るの?歩道ったってそんな箇所がないんだけど・・・。やはりここまで来ると普通のハイキングコースみたいに考えてはいけないんだろう。周りをうろうろするとここかな?と思える箇所が。道なき道を登ると下の写真の道に出た。


 出た〜!! やっときましたよ。明らかに鉱山道路と思える場所に。これは間違いなくビンゴですよね。ひょっとしてトロッコ軌道も敷設されていたかも。 明らかに人工的に岩を除去してますよね。この向こうがいよいよ本丸か!


 さっきよりもはっきりそれと分かるU字溝、かなり上の方から続いていた。これはほぼ間違いなくインクラインだろう。  インクライン降りきった辺りにこんな△岩が。側面に何かの跡が。


 切りくずした岩の間を抜けもうちょっと行くと道が半分落ちている。どうやら雨で崩れたようだ。管理人がロープを張っている。これ以上はちょっとヤバイかな?と思いむこうの方を見るが道がカーブしていて見えない。しばらくはこんな危ない道が続くのかな、と思いそれでも行ってみようと思ったがやはり一人での鉱山めぐり。若し何かあっても誰も助けを求められないという環境故、戻るも勇気とばかりにここで引き返す。(本当はビビッたんですが・・・<笑>)
 元の林道に戻る途中、ちょっとminiアクシデントが。
さっきの赤沢歩道の標識から上に上がった場所が分からない! いつの間にか行き過ぎていたのだ。あれっ!とばかりに周りを見るが、
 「おかしい!こんな景色じゃなかった筈だ。」
 降りれそうな場所もない。う〜ん・・・。こういうときこそ落ち着け!とばかりに自分を叱咤、深呼吸する。でもその間も胸が高鳴る。 おちつけ!おちつけ!欲しくも無いのにペットボトルの水を飲む。
もうちょっと行って手がかりがなければ戻ろうと思いもう少し行く。
 
「いや、こんな道じゃなかった。戻ろう。こういうときはあんまり無闇に動き回らないほうがいい。一旦、見覚えのある場所まで戻ってそこから再度出発だ。」
 
そう思いさっきの削った岩まで戻ろうと少し行くと、
 「あった!」
標識から上がってきた場所が分かったのだ。ただちにずるずるっと下まですべるように降りた。
 「ああ、ここだ、ここだ。さっきの赤沢歩道の標識だ。」
ホットした。
 
 次からはこういった場合に何か目印を持参したほうがいいのかも。よく枝にひもを結んでいるのを見るがあれがいいと思うがどうだろう・・・。こういうことに慣れている方がいたら意見を聞きたいものだが。掲示板にでも投稿していただいたらありがたいのですが。よろしく。


 林道に戻って少し行くと道端にこんな石が。白っぽい全体の中に箇所箇所に緑色の部分があります。ただの石っころなんでしょうか?それともこれが明礬石?


 そのまま林道を奥へ入っていきます。右側に今度は八瀬歩道が。ここは何も新ネタを持っていないのでそのまま写真だけで素通り。(後で考えると行けばよかったかな。何か新しい発見があったかもしれない)


八瀬橋。昭和38年9月建築。


 赤沢林道をまっすぐ進んでくるとこんな標識と光景が。標識は林業関係者の何かの境界標識でしょうがこの穴はひょっとして散弾銃か何か猟銃の穴では? R写真は裏側の様子。鉱山とは全く関係ありませんがついでだったので。


 製材した板が立てかけてある。なんでしょう?道は板の後ろ側にスイッチバックして続いている。もちろんそのまま登る。がしばらくで道は行き止まりだった。


 スイッチバック後の行き止まりの箇所。道はここで終わりだった。が・・・・・  ・・・ところがまたまた”滝ノ沢歩道”というのが現れた。ここも新ネタなし。引き返す。


 製材の更地辺りで東側からの赤川と南側からの?川が合流。橋が架かっていたがその橋から見た川の様子。見事に色が違う。赤川の方はその名のとおり赤い。が”?川”の方は川本来の色だ。もっとも色だけでは何が含まれているかまでは分からないが。特に金属鉱山の場合は上流でその廃鉱水が混じっていないともかぎらないので飲むのはやめたほうがいいだろう。もっとも少しぐらい飲んでもすぐに症状が出るものでもないだろうが。逆にすぐに症状が出るほうが分かりやすいんだが。いずれにしろそんな”人体実験”までする価値はないだろうから飲まないほうがよい。 


 製材板の向こう側(写真奥側)にもちょっと行けるような雰囲気があったので行ってみたが、
 ・L写真:木のツルが見たとおりで気持ち悪いぐらいだった。
 ・R写真:もっと奥まで行ってみたかったがさっきのようなコトにでもなったら今度は洒落にならんなあ、と思いとどまった。その変わり巨大ツルの向こう側に行くことに。


 巨大ツルの向こう側は赤川。
どうやら川の向こう側にも獣道らしき道がはっきりと認められる。
 川をわたることにした。そして見つけたものは・・・・


 獣道らしき道をどんどん登る。がこの辺が限界だ。目印を持たずに登るには危険すぎる。今度迷ったら本当にSOSになりかねない。 何故か所々にこんな茶色い子ビンが落ちている。はじめは栄養ドリンクか?と思ったがそうでもなさそう。


 川向こう側で見つけたものがこれ。いったいなんでしょう?鉱山時代の遺構であることはほぼ間違いないと思うが。今にも落ちそうな大きな岩は下の石垣の遺構と関係あるのかないのか分からないが鉱山という性格上、関係あるとは思えない・・・。ただ排水口らしきものがある直径3〜4mぐらい、深さ1mぐらいのこの風呂おけみたいなものはいったいなんでしょう?まさかホンマに風呂桶?沈殿池にしては小さすぎるしね。シックナーにしてもおかしいし・・・。だんだん風呂桶に思えてきた・・・。(笑) しかし下手ですね〜。この絵(笑)


 車までもどろうと歩いていると滝ノ沢歩道の近くにそこだけ黒い土が。なんだろう?石炭のように真っ黒だったが。エリアは狭かった。広範囲ではない。


 帰ってきました。赤川林道から慰霊碑を見たところ。帰ってからサイトチェックしたところ何とこの慰霊碑の後ろの山にもつまり、八瀬歩道や滝ノ沢歩道方面にも当時の坑口があったらしい。そこまで行くにはやはり重装備とリスク管理が出来ねばと思う。
 いつになるか分からないが次回を、乞うご期待!!





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