三井三池炭鉱 ”宮浦坑”    1/1 
                                        Photo:2006,11


 宮浦坑は1887年(明治20年)に最初、官営で掘削を始めた炭鉱である。がしかし翌年1888年には三井組(三井金属鉱業)に払い下げられた官営最後の炭鉱坑口だ。現在、残っている煙突も”・・・月〜が出た出た〜・・・の”炭坑節”のモデルとも言われているがこれは筑豊も同じことを言っているのでどっちがどっちとも定かではない。確かなのは1887年〜1968年(閉山)まで堀り81年間もの長い間に4000万tもの量の石炭を世に送ったことだけは確かである。計算すると一日に1350tもの量を出炭したことになる。


 「宮浦石炭記念公園」だ。わりと分かりやすい場所にある。私が行った時は誰もいなかった。中は全部、無料だ。と云っても有料にするような展示物はなにもないが。ここの見物はやはり大斜坑入り口と人車と煙突、それと掘削機械か。(これで全部だが)


       宮 浦 石 炭 記 念 公 園  (下に転記)
宮浦坑は1887年(明治20年)2月に開坑し、1968年(昭和43年)の閉坑までの81年間、三池炭鉱の主力坑口の一つとして約4000万トンの石炭を産出しました。ここにある煙突および大斜坑は石炭採掘と大牟田発展の歴史を物語る重要なメモリアル的建造物であり日本の近代史、産業史を知る上できわめて貴重な施設です。
 大斜坑のプラットホームや建造物内には実際に使用された人車や石炭掘進機械などを展示しています。<案内板より>
 大煙突。 


 かつての”宮浦坑本坑”の大斜坑だ。この斜めの坑道を下の写真の人車に乗って延々と有明海の海底に向かってつき進んでいく。昔読んだ本に"・・・今日は無事に帰れたが明日は生きて出れるかどうか分からん・・・"という現役炭鉱マンの切ない胸のうちを語ったものがあったが。三池の場合、殆どの炭鉱が海底で繋がっている。そのため1963年の三川坑炭塵爆発のように一旦事故が起きると当然ながらその影響たるや全部の坑道に移っていく。その悲惨な惨状たるやもう表現のしようがないぐらいである。よく炭鉱の写真で”指さし合図”とか”ガスマスク不着用の者は入坑禁ず”とかはたまた”号令!声かけ運動”とかその手の安全キャンペーンの写真をよく見るが、しかしそれらを全部確実に守ればいいだろうが掘っているのはロボットではなく生身の人間だ。現実にはなかなか守りきれないものがある。(守らなきゃいかんのだが)
 ところでここもそうだが三池坑全体としては海底などの坑道は今はどういう状態なのだろうか?まさか”埋め戻し”はしていないだろうと思うが。経営不採算で閉鎖なのだからそんなカネのかかることをするはずがないか。


       大 斜 坑 跡(説明は下に)           これが実際の人車だ。中は結構狭い。
斜坑は地上から石炭層にいくまでの斜めのトンネルで宮浦大斜抗は1924年(大正13年)から1990年(平成2年)まで坑内で働く人や採炭資材などの出入り口として使用されました。また人車などは巻き上げ機のワイヤーロープで動き堀り出された石炭もここから運びだされました。坑口高さ 2m 巾 5.61m。


 上4枚の写真はワイヤーでの巻き上げ駆動部分です。石炭ということでやはり”ガス”とか”炭塵”に火花の引火を防止するためにこういう構造にするんでしょうか。それにしても滑車の部分が何か複雑ですが・・・。始動時のショック吸収でしょうか、ワイヤー破断防止?はたまた火花防止?ウインチの巻き上げ力軽減?????車内のレバーみたいなものはブレーキ?


 救急車と負傷車。あまりこれには乗りたくないですね。ちょっとぐらいのケガなら自分で歩くだろうし、これに乗るということはそれなりのケガ、ないしは重傷者だったんでしょうね。大事故の時はこれに犠牲者も載せられたんでしょうね。できれば工場の片隅で錆びていてくれる方がありがたいですが。


なんとなく”ロボコップ2”で事務所の中で銃を撃ちまくるあのロボットに似てますネ。


 大斜坑の隣ですがここも斜坑です。手前に資材用のトロッコ様のものがある。こんな風にして各種資材を現場に下ろしていた。  これは大斜坑の上部。屋根に当たる部分です。これ以上は入れません。


記念公園のとなりにある三井化学。凸型の電機機関車(上半分が赤いやつ)が見える。


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