三井三池炭鉱 「宮の原坑」    (1/1)   
        (福岡県大牟田市宮の原町)       撮影 : 2006.11


 宮の原坑は1898年(明治31年)に開坑、三川坑など有明海の海底炭層で採炭をはじめる前の時代、明治、大正時代の三井の主力坑であった。その当時は坑内作業で一般坑夫に混じって婦女子や囚人、あげくには馬まで使っていたという。しかし1930年代、昭和初期になって「婦女子の坑内作業禁止」「囚人労働廃止」「坑内での馬の禁止」などが決まり採炭作業の近代化が叫ばれるようになった1931年(昭和5年)にはすでに閉鎖になった。(地下水の排水作業だけはつい最近までしていた)。1998年、重要文化財として指定をうける。


                                  


 現在唯一残っている第二竪坑櫓。宮の原坑には二基櫓があったがこれが当時、一般坑夫専用のやぐら。もう一つの方は木製で今はもう跡形もなく当時は囚人専用だったらしい。資料によると坑内でも一般と囚人とは一切接触することなく鉄柵で厳格に分けられていたという。またここと宿舎(「三池集治監」 現、県立三池工業高校)との間も昔の映画でよく見る”手かせ足かせ”をはめられて一列縦隊で行き来していたようだ。ちなみに囚人たちはここを修羅坑(シラコ)と恐れていたようである。


 現在”宮の原坑”はまわりを住宅に囲まれ往時の面影はほとんどない。右写真に少し周辺住宅が写っているが現在のその敷地は驚くほど狭い(人に言わせると”こんなもんだろう”とも云うが。ここの前に万田坑に寄ったが万田坑の半分ぐらいか)。ただそれでも保存が決まっているというからよかった。近寄ってみるとやぐらの塗装は結構はがれている。左写真の手前のレンガ建物はかつてのデビーポンプ室。


 手前の斜面はこの写真では(何故か)スッキリしているようだが実際には膝ぐらいまでの雑草がビシッと繁っていた。右のレンガ造りの建屋は当時の巻上げ用のウインチが設置されている。


 いろんな角度から撮りましたが、左側は藪かに刺されながら腰高までの雑草を分け入り(11月なのにね〜)ちょうど後ろ側から撮りました。すぐ右は民家の家庭菜園のようでした。右写真は真逆からのものです。右下のレンガ造りがデビーポンプ室。


 「宮の原坑」の案内板。入り口の横に立っている。文面を下に転記する。
 
 国指定重要文化財(建造物)
三井石炭鉱業株式会社 三池炭鉱宮の原坑施設
 国指定史跡
三井三池炭鉱跡 宮の原坑跡 万田坑跡
三池炭鉱は明治6(1873)年に官営となり大浦坑、七浦坑、宮浦坑、勝浦坑等を主力坑として施設の近代化が進められた。


 現在唯一残っている社宅。コンクリート製のガッシリしたものだ。  ここにも石炭トロッコが4両残っていた。ご覧のようにすぐ近所に今風の一般住宅がせまっている。


石炭用トロッコが2両だけまだおいてありました。  この中にケージの巻上げ用ウインチがある。撮りたかったが中には入れない。しかしさすが明治、大正時代のレンガ造りは頑丈だ。


やぐらの足元の内部写真。  ケージ上下用のガイドレールか。木製だったが真新しいようである。


 ポンプ室の内部。このコンクリートの土台にイギリス製の排水用デビーポンプが2台設置されていたらしい。動力は蒸気だ。第一竪坑にもデビーポンプが2台あった。


 かつての三池炭鉱鉄道のレール跡。このあたりの炭鉱坑口を殆ど全部接続していた。そして三池港へ運ぶ。往時は一般客も普通に乗車していたらしい。閉山前にはさすがに禁止になった。今は写真のようにジョギング&サイクリング道路?になっている。車は通行できなかった。


 これは炭鉱住宅ですが、当然もう閉鎖されています。ただ閉鎖されて相当時間がたっていて普通ならとっくに解体されているはずですが今だにそのままと言うことは保存を検討中なのか、それとも反対運動があるのか?はたまた財政難か?木造の建物自体は相当傷んでいる。ただちょっと歩いただけだがほとんどゴミがなかった。都会でこういうロケーションだともうゴミだらけだ。何か関係者か周辺住民の特別な想いあるいは行動があるのだろうか。


 かつての囚人の宿舎、”三池集治檻”。現在は福岡県立三池工業高校  当時、囚人坑夫が”手かせ足かせ”で歩かされていた集治檻入り口の坂。昔読んだ資料によるとそのあまりにひどい姿に周辺住民が可愛そうに思いにぎり飯を握らせたこともあったという。


 かつての面影はこの石垣のほかにも学校の裏側にもある。今回はそちらの方の写真は撮っていない。


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