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   静岡県浜松市天竜区龍山町下平山  峰乃沢鉱山 Photo:2010.11  (1/1)   
採掘金属 : 銅
経営企業 : 久原鉱業(→日本鉱業→日鉱ホールディングス)  

峰之沢鉱山は戦国時代の武田信玄の命により発見された金山と言われているが江戸時代に入ってからの金山との説もある。当時の採掘模様が分かる”金山地蔵”や”女郎塚”というものが現地にあるらしいがどこか分からなかった。開発の歴史は明治に入ってしばらく後、江戸時代以来の採掘が始まるが採掘者の詳細は不明。その後は,

・1907年(M40):久原鉱業が鉱業権を取得。
・1912年(T1) :この頃には茨城の日立鉱山開発の経験もあり機械化を進め職員数も増え出鉱量が年産3万トン近くにも
           なる。
・1920年(T9) :鉱山にて大規模火災発生。しばらく操業停止。
・1934年(S9) :操業再開。時代は大陸侵略に邁進しようとしているさなか(この3年前満州事変)、政府、軍部にとって地下
           資源は喉から手が出るほど欲しい状況、増産に次ぐ増産(まもなく’39年ヨーロッパで第二次大戦始まり
           満州でもノモンハン事件勃発)。
・1942年(S17):前年の開戦により金属の増産が叫ばれていたがこの年、選鉱場が完成。これで粗鉱5000トン/月の処理
           が可能に。引き続き粗鉱倍増計画を立案。同時に戦線悪化に伴い前線に徴用される坑夫が増え欠員補充
           に朝鮮半島からの強制連行者が増え始める。
・1945年(S20):年初にまた大規模火災発生。休山に。8月終戦。
・1950年代半ば:戦後の混乱期を脱し戦後復興にまい進。戦災で焼け野原になった日本はあらゆる方面で物資が不足。イン
           フラ整備やその他で金属、中でも銅、鉄、鉛、亜鉛などはいくらあっても足りない状況。増産に次ぐ増産でこの
           頃が平和な時代での同鉱山最盛期で従業員数700人にも達し全鉱山人口はその数倍にも達したという。そ
           れだけの人々がこの平地の少ない山間に住んでいたというからおのずといろんな業者もやって来る。まさに
           ”天空の銅山町”出現だ。
・1969年(S44):いいことはいつまでも続かない。次第に銅鉱石も貧鉱になり有望鉱床もままならず出鉱量も減少、枯渇に。
           同時期の貿易自由化にも影響され遂に操業停止、閉山、現在に至る。

 最後に:いろいろ書いたが現地を歩いてみて感じたことは現地の今の姿を見てとてもこの”暴れ川”天竜川の急峻な山間でほとんど平地のない斜面ばかりの場所に数千人もの人々が労働と生活をしていたものとは思えない。変化の激しい地形を除けば茶畑の広がる温暖な地域である。愛媛の旧別子銅山や埼玉の秩父鉱山なども山深い奥地の大規模鉱山だが当地でも同じ想いにかられた。”兵どもの夢の跡”とはよく言うが本当に山奥の鉱山を歩いているとつくづく人間の欲望のはかなさと言うか馬鹿さ加減と言うか、いったい人間は何をしているんだろう・・・と禅問答の如き境地に陥る。最もそのおかげで今の豊かな生活も出来るのだが。おりしも福島では原発の大事故が起こり当然ながら全原発の廃止方向に向かうかと思いきやこの期に及んでまた「復帰」の陰りが見え隠れする。自然を支配しようとまでは考えていないと思うが科学の発展・進歩については遺伝子組み換えの例を持ち出すまでもなく今一度考え直す時期に来ているのではないだろうか。いつの時代も科学の進歩は善と悪の両方をはらんでいる。進歩とはそういうものだ。ただそれを利用しようとする人間の思惑次第で良くも悪くもなる。ただひとつ願うことは地球上のほとんどの物は創造より破壊の方が簡単だが唯一、原発だけは逆だと言うこと、またちょっと飛躍するが遺伝子組換えやクローン家畜(人間)など神の領域に踏み込んだ研究だけは中止して欲しいと思うのは小生だけだろうか。
 話が違う方向に行ってしまいそうなのでこの辺で終わります。   


L写真:天竜川の途中の秋葉湖東斜面にはたくさんの茶畑がある。その茶畑の九十九折れをどんどん登ると途中右側に写真でよく見る
     峰の沢鉱山の今は廃墟になった鉱山住宅が見えてくる。
M写真:
お茶の花です。ついでに撮影。
R写真:急斜面に建築された峰之沢鉱山住宅の脇から天竜川を見る。


龍山村立下平山小学校跡地。右の写真の左側の小さな文字には次のように書いてあります。
  〓本公園は峰之沢鉱山の閉山とともに昭和45年に廃校となった龍山村立下平山小学校跡地を利用しています。公園にそばたつヒ
   マラヤスギとその下にある門柱は小学校当時からあるものです。云々〓 手前の広場は校庭だったのかも。


L写真:坂の途中見つけました。11月だというのに植物が生茂っていて注意しなかったら見落とすところだった。これは車から降りて撮
     っているからはっきりしているが車中からでは分かりにくい。建物の際まで行きたかったが藪でふさがれていて人を拒んでいる
     ようだ。しかし一頃は1000人以上の鉱山労働者を抱えていたというからさすが日本鉱業の銅鉱山である。

R写真:上がれないので左の写真のUPを撮ってみたが。


L写真:二棟の間にもう一棟あったように思うのだが。思い違いだろうか・・・。
R写真:アパートに上がる階段。いくつか上がる階段や道があるのだがこれがそのひとつ。持参の農耕用の鎌で藪こきして上がろう
     としたが歯が立たず無理だった。林業用のなたでないと無理だ。しかし錆びてはいるがきちんと手摺も付いている。


L写真:2号棟の”2”の数字が読める。屋上の金網も遠くから見る限りはしっかりしているようだが・・・しかし急な斜面に建てたアパ
     ート、居住性はどうだったんだろう。何処へ行くにも急な登り降りだから生活自体が大変だったと思う。足腰は鍛えられるか
     もしれないが・・・
M・R写真:
見れば見るほど”天空の城”ならぬ”天空の町”である。よくも暴れ川と言われた天竜川沿いの急峻な山の急斜面に住
      宅を建てられるものだ。住めば都とは言うが。春や秋など季節のいい時はいい眺めだろうが反面、大雨など天気の悪い
      時などは怖くなるのでは。


L写真:やはりこんな当時を彷彿させる遺構があった。なんのパイプかは分からない。
M写真:
バックの山がなければまさに閑静な木立の中のマンションという感じなのだが・・・。
R写真:昔懐かしい換気扇。省電力ならぬ無電力。いや「風力換気扇」と言うべきか。今普及すべきでは。


L写真:途中にはこんなものが。重力式濾過装置制御盤。
M写真:
だいぶん上部に来たがここも一面茶畑。
R写真:茶畑の向こうの斜面にはかつて鉱山病院があった(茶畑で働いていたおばさん曰く)。つまりこのあたり一帯すべて鉱山の作業場だ
     ったということである。今はご覧のとおりだ。


今は製材所になっているがここがかつての選鉱所。


L写真:製材所となりの実に時代を感じさせる何か分からない遺構。選鉱所の関連施設だとは思うが。
M・R写真:
天竜川に架かる鉱山時代のインクライン(傾斜鉄道、ケーブルカーみたいなもの)の橋脚らしいがどうも小生が調べた限り位置
      的にちょっと違うような気もするのだが・・・では何か、と聞かれると???です。


L写真:天竜川に架かっている瀬尻橋。
R写真:旧国鉄時代のバス停「日入沢口」。このバス停は生きているのか死んでいるのか・・・不明。バス停の上部の山の中が鉱山
     地域になる。

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