三池炭鉱(福岡県大牟田市〜熊本県荒尾市) (1/2) (”三池港周辺”含む) ・撮影:2006.11 |
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筑豊、三池、夕張と言えばかつての日本の産業を石炭と云うエネルギー面から支えた礎ともいえる代表的な炭鉱である。日本の石炭を語る場合い炭鉱は他にもあるがやはりこの三大炭鉱を抜きにしては語れない。夕張炭鉱などは今でこそ破産自治体として有名だがかつては三池や筑豊など九州各地の炭鉱から応援や移住してきた炭鉱マンがたくさんいた。それらをテーマにした映画もあった程である。 ここ三池炭鉱は国内でも出炭量がトップクラスであったが特に有名なのはやはり三池争議であろう。私が子供の頃は毎日、新聞の一面がこの争議の記事で埋まっていた記憶がある。発端は1960年(昭和35年)会社側からの多数の指名解雇、これに組合が激怒。時は60年安保の年である。後に久保清さん刺殺事件など紆余曲折を経て第二組合ができる。そうした中、1963年(昭和38年)三川坑で炭塵爆発事故発生。死者458人、CO中毒患者約840人の犠牲者を出した。 1997年(平成9年)三池炭鉱、閉山。現在に至る。 |
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子供の頃に新聞でよく見たデモ隊でいっぱいの正門。”懐かしい”と言えば関係者に叱られるだろうか・・・。 | 会社の看板。もっと朽ち果てて荒れていると思っていたが・・・。 |
門の隙間から内部を撮った。やはり建屋は相当傷んでいる。写真の左手の方が広大な更地でかつての貯炭所や人車、鉱車などいろんなものが置かれていた。いずれはここも何かに転用されるのだろう。 |
ごらんのとうり今は何もない。かつてはここに山のような石炭やたくさんのトロッコ、貯炭場、選炭場などなどが所狭しとあったのだろう。 |
上の写真に同じ。 |
鉱業所の周囲の様子。 |
同じ場所から有明海方向を望む。火力発電所か? | 周囲の様子。 |
大牟田三井港倶楽部。今はレストランになっている。三川坑の正門はこの建物の後ろ側にある。 | 大浦坑の遺跡。左写真の三井港倶楽部の前にあった。 |
1963年(昭和38年)の三川坑炭塵爆発事故の見取り図。爆発地点はほとんど入口近くだ。当然奥にいる坑夫たちは・・・・・。この図では若干分かりにくいがいわゆる三池炭鉱群というのはその殆どが有明海の海底下にある。そのため所どころの海の上に海底坑道からの換気口がある。初島もそのひとつ。つまりそれほど海底に石炭の鉱脈が多かった。 |
大牟田石炭産業科学館 |
今回、ここの写真は色々と失敗でした。科学館の入り口の写真をまず忘れたこと、中では同じような機械の写真ばかり撮ったことなどなど。写真のアップもやめようかと思ったのですが恥をしのんで載せました。 |
”〜産業科学館”の中にある体験コーナー。この看板を見て最初私は”本当の坑道内に入れる!”と小躍りしました。が、入ってみると何となくウン・・・??。違う!こりゃ坑道じゃない。単なる体験だった。ちよっとガッカリ。本当の坑道を体験したいと思うのは私だけでしょうか。この中にあった重機類の写真は下にアップしました。 |
石炭を掘るにもいろんな機械があるものです。上の”MITSUI MIIKE”と大きくかいてある物はロードヘッダーでしょうか。三池炭鉱が閉山してからは北海道の夕張炭鉱に移動したものではないでしょうか。これのヘッドの回転速度は思った以上に速いものでしたよ。石炭は金属鉱物よりずっと硬度が低いせいだと思うが。 |
左は体験コーナー、右は外の展示場にあったもの。バッテリーロコではない。パンダグラフがあるということは架線式だったのか。火花はどうしたんだろう?火災の危険性のない場所だけでの使用だったのか? |
●ちよっと読みにくいので下に書きます。● 馬渡社宅の壁書 「ふるさと」朝鮮は遠く・・・ 大牟田市馬渡町にあった「馬渡社宅」は昭和14年(1939) 頃、炭鉱労働者の住宅として建てられました。太平洋戦争中、 その一部は、朝鮮から強制連行され、三池炭鉱で働かされた 人たちの宿舎になっていました。この「壁書き」は強制連行され た人たちが故郷を想う気持ちを押入れの中の壁に書きつずった ものといわれています。平成元年(1989)、第51棟の一室か ら発見され保存のために切り取られました。 |
●ちよっと読みにくいので下に書きます。● 十人弁当箱(じゅうにんべんとうばこ) この弁当箱は三井鉱山に勤務していた久保槌次郎氏(久保シズエ氏の義父)が、三井監獄(明治39年に三井集治監から改称)の囚人より寄贈されたものです。ケヤキ製で非常に丁寧な作りです。大正年間に製作されたものと推測されます。(久保シズエ氏 寄贈) |
SL以外は屋外展示場のものです。右上のようにきれいに塗装されたものよりも下の二枚のように赤く錆びたものの方がいい味を出してると思うのは私だけでしょうか。 |
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