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長崎県西海市松島 松島炭鉱 撮影:2009年12月 |
松島炭鉱のルーツともいうべき石炭が松島で発見されたのは江戸時代、およそ1700年代後半に地元民により極めて小規模に利用(採掘と言うほどではなく)されたのが始まりだと言われている。ざっくりした話だがその後100年間ぐらいのことは塩田に利用したぐらいのことしか分かっていない。営業採炭を始めたのは三菱の1885(M18)年が最初である。当時としては最先端の立抗を開抗し営業を始めるがまもなく出水で撤退。18年後の1903年(M36)、今度は地元佐賀銀行の創業者が買収し後を継ぐ。まもなく1抗(島の北側)、2抗(1抗の西側)、3抗(島の西側)の三つを開抗しその後、松島炭鉱株式会社を立ち上げ1914年(T3・第一次大戦勃発)には第4抗も開抗する。しかし順調な採炭は長くは続かずその後まもなく1916年に2抗が、1919年に1抗が水没。その後3抗と主力の4抗で大正の全盛時代を担う。ちなみに松島には1抗〜5抗(時計と反対周り)まであった。1929(S4)年3抗で出水・閉抗(42名が犠牲)、1934(S9)年4抗が出水・閉抗(54名が犠牲、未だに海底坑道に取り残される)、1940年(S15)5抗出水・閉抗と数年間隔で相次ぐ出水や事故、犠牲者の続出などで海底炭鉱としての松島炭鉱は致命的な損傷を負う。その後は細々と残炭の採掘を続けていたようだが1963年(S38)遂に石炭産業の衰退とともに閉山となる。 この当時の海底炭鉱はまさに死と隣り合わせの環境にありひとたび海水が入るともう手の施しようがない状況だったという。採炭技術や坑道の保守・維持関係がまだまだ未熟だったこととタコ部屋的労務内容で悲惨な労働環境にあったためにどれほどの犠牲者が出たことか。 |
R202の大瀬戸町でのフェリー乗り場。失礼だがこれで採算がとれるのか?やはり公から補助が出てるんだしょうね、きっと。 |
●L写真:ここが池島炭鉱から石炭を供給されていた”電源開発松島火力発電所”。写真のように石炭が山積みだ。最も今は輸入 炭だが。島の北側、旧内浦港だと思う。たぶん大正時代の松島炭鉱全盛の頃の火力発電所ではなかったか。ここで発 電された電力が遠見山を越えて最後まで頑張った4抗(下の写真)に供給されていた。 ●R写真:”日本一小さな公園”らしい。10坪ぐらいあったかな?この辺は確か海水流入事故で数10人の犠牲者があった3坑の辺 りではなかろうか。島の西側。 |
●L写真:松島炭鉱操業時代の唯一の名残。4抗の跡。島の南の方にある。正面の煉瓦作りのものが竪抗巻上機室。その左の黒ずん だコンクリート製の建屋が内浦港(ここが下の説明板にある”山ノ神”と同所かどうか不明だが私が調べた限りでは発電所は 内浦にあった)の発電所から送電されて来た電力の変電室。手前の小ぶりの丸屋根のものが守衛室。 ●R写真:巻き上げ室の前には小さな慰霊碑が建立されていた。大きな慰霊碑が近くに別にある。お酒も供えられきちんと管理されて いるようだ。全体的にきれいだ。 |
●L写真:これが変電室。さほど広くはない。100uぐらいか。 ●R写真:こちらが立抗のワイヤー巻き上げ室。デザインがなんとなく教会風に見えるが私だけだろうか。それとも長崎だからやは りそういう風に建築したのか。三角屋根のすぐ下の光取りみたいな小窓はそこをワイヤーが通っていたらしい。立抗の位 置は上の写真の守衛室の手前、金網の外側あたりだと思う。 |
●L写真:後ろ側から見たところ。壁のみ残って屋根は完全にない。手前のH型の電柱は元送電用電柱。 ●R写真:内部。巻上げ機設置の台座が今はご覧の通り。 |
中はさすが長崎、マングローブのような亜熱帯植物が根をどこまでもはびこらしている。この生命力たるや恐れ入る。 |
道路側(北側)から見たところ。地元の心ある有志の方々が4抗保存と同時にこのように分かりやすく説明板と絵を書いてくれている。非常に分かりやすい。 |
●L写真:海底炭鉱と言うのはどこも同じでひとたび出水事故や落盤事故が起きるとそれはもうとても正視できないほどの悲惨な事態に 陥る。特に長崎県内の各炭鉱はほとんど全部が海底に炭層があり採炭もそうだが保守・点検・維持にもことのほか技術や神 経を使っていた。それでも所詮は人のやることだ。間違いやミスは必ずある。地上であればまだ逃げ場もあろうがいくら長い坑 道とはいっても所詮は海底だ。一方は地底の底。どこまで行っても逃げられない。もう一方は地上とはいえ出口がそうそうあち こちにあるものではない。それに坑道と言うのは文字通り蟻の巣のように縦横に三次元に広がっているので事故直後はなか なか事故現場の特定が難しいと思う。切羽の最先端で作業している人には逃げようにもそういう逃げにくい環境があった。まし て自分の現在位置より地上側で事故があった場合(犠牲者はほとんどがこのケース)などは逃げ道を塞がれる格好になる。 またこの当時は照明に近代の充電式キャップランプなどはなくまだカーバイドランプやカンテラの時代だったので炭塵やメタン など可燃性ガスが充満する環境下、その危険性たるもの言うまでもないことだろう。 ●R写真:ここでも海底炭鉱の悲劇が1934(S9・満州事変から日中戦争のはざま)年に発生した。54名の犠牲者は未だ遺骨収集もされ ず冷たい海の中だ。合掌。 |
●L写真:4抗遺構の道路挟んだすぐ隣にある慰霊碑。これは心ある有志の方がもっと山の方に荒廃状態 であったものをここにこのような形で建立されたようである。 ●R写真:向こうに池島が見える。 |
***** HOME おしまい |