別子銅山シリーズ <そのA> |
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愛媛県新居浜市別子 訪問年:2009年 |
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今回、二度目の旧別子銅山訪問記です。前回(3年前)の時はダイヤモンド水より少し上までしか行っていないので何やら不完全燃焼でした。二度目は是非銅山越えまで行くぞ!とばかりに張り切って登りました。ただ登るには登ったんですが・・・シンドカッタ〜!!start〜Endまで高低差は約500m。大したことはないんだけど(本当は大したことある、と思うんだけど恥ずかしいので言えない。言ッテルケド・・・笑) 二度目の感想としては随分キッチリと整備されていたこともあるが開抗以来300年以上もの長きに渡り海抜1000mもの高所で過酷な労働を強いられてきた人々の苦労が随所にある案内板を読んでみるとよく分かる。(あんまり感想になってないですね・・・) |
詳細図 ♪ M ♪ A ♪ P ♪ 詳細図 |
上下二枚の地図画像は旧別子登山口にあったものです。 |
赤 枠 ♪ M ♪ A ♪ P ♪ だいたいこの辺 |
ここは旧別子銅山の出発地、つまり駐車場だ。階段手前に”P”がある。 |
旧円通寺跡は多分この上の石垣の上の方だろうと思う。 |
円通寺跡 別子銅山専用の墓所である。この谷の上段に広い寺床がありそこに銅山の頼み寺、円通寺があった。正しくは雲谷山三業院円通寺小足谷出張所で本寺は別子山保土野にあった。大正5年I(1916)別子銅山が嶺北の東平へ移った後、大正8年(1919)火災により消失したため寺の機能は別子山白尾の南光院境内に遷された。山内に眠る諸精霊の供養は今も続けられ毎年8月初旬には住友金属鉱山(株)始め住友関係者が登山して南光院住職導師のもと懇ろな供養がおこなわれている。 寺床と無煙仏の卒塔婆は別子銅山開抗300年を記念して平成2年9月住友金属鉱山(株)が建てたものである。 |
歩き出して10分ぐらいでちょっと脇を見ると何か石の間に錆びた鉄の塊がコロンと転がっている。”なんだろう?”と思い手にとってみたが”錆びた鉄”以外には思いつかない。トロッコの車輪か?とも思ったが何か変・・・レールにあたる部分の幅が広すぎる。内部にベアリングでもあるかな?と思いあれこれと触ってみたがよく分からない。L写真の上部のシャフトらしきものの左に割ピンらしきものが見えるが・・・・・ |
案内板が読みにくいので別掲に記します。以下全て同様。(全て全文掲載) | ここは出発点から歩いて10〜15分ぐらいのところ。歩きやすくよく整備されている。 |
小足谷集落跡と醸造所跡 この辺りは別子銅山で最も新しく開かれた集落跡である。小足谷の集落は大きく分けて三つに別れ、小足谷の橋を渡る手前とその対岸の朝日谷集落には労働者が住みこの辺りには往還に沿って商家が軒を連ねていた。そしてこの先の接待館地並みから上は雇人(職員)の集落で俗に上前集落と言って商人の住む下前集落と区別されていた。 右の屋敷跡は味噌と醤油の製造所で煉瓦造りの窯や煙突の跡が今も残っている。 上の段の広い敷地はよく話題になる小足谷醸造所跡である。別子銅山で酒の醸造をはじめたのは明治3年(1870)からで最盛期には年間100KLも製造していた。銘柄井ゲタ正宗、別名「鬼ごろし」ともいった。 (上の写真説明文より全文。) |
もうちょっと道なりに登っていくと右手に緩い石垣がある。その辺りがかつて明治中頃に近代化を進め飛躍的に土木部門を拡充した結果、広大な倉庫を建て後に劇場として使われた旧別子銅山当時の建物跡だ。下の写真の建物が当時ここに建っていた。 |
土木課(劇場)と山林課 別子銅山の近代化が軌道に乗り出すと採鉱、製錬の生産部門と平行してそれを支える部門も増強されていった。つまり製炭と土木部門が大きなウエイトを占めるようになり明治10年頃にはこの辺りの用地が造成され明治14年(1881)にはここを起点とする車道が中七番まで開通し夥しい抗木や建築資材・木炭等が牛馬車によって運び込まれた。明治22年(1889)山林係が山林課に昇格し左の石垣群が山林課、右の広い造成地が土木課になった。土木課では明治22年に棟行20間、桁行10間、下屋を入れて延べ350坪もある巨大な倉庫を建てた。明治23年5月の別子銅山200年祭にはここを劇場として開放し上方から歌舞伎の名優を招いて盛大に祝った。以来ここが毎年5月の山神祭には劇場として使われ山内唯一の娯楽場となっていた。 (上の写真説明文より全文) |
まだまだ先を行きます。 またまた右側に(左側は川だからしようがないか)古い煉瓦造りの高さ:2mぐらいの塀みたいな遺構が残っている。ちなみにL写真は道側ではなく内側を撮ったところ。 |
小足谷接待館と傭人社宅 明治期に入って急速に鉱業の近代化が進む中でそれに伴う各界の要人が頻繁に来山するようになった。そこで明治34年(1901)一般人が経営していた泉亭を改装して別子接待館として営業を開始した。因みにこの年10月には住友家15代家長(友純公)が宿泊されている。この煉瓦塀もおそらくその時点で築かれたものであろう。 この50mほど先に見える煉瓦塀を廻らせた邸宅の跡には歴代の採鉱課長が住んでいたと言われている。その隣が醸造課長宅でこれより小足谷に沿って20棟ほどの傭人社宅やクラブなどが建ち並んでいた。 また醸造所に向けて下るところの住居跡は明治19年に開校した小足谷尋常小学校のあったところで、明治22年黒橋に新築開校した別子尋常小学校に統合されてからは改装されて教職員の住宅になっていた。(全文) |
L写真の右側の道が銅山越えに行く道だが道の左側は足谷川で当然今は降りれない。 かつては案内板の写真にあるように河川敷(と言っていいかどうか)に相当大規模な浄化水用の沈殿池があったようだ。 |
小足谷疏水道と収銅所 この道を下ると足谷川にでる。底に小足谷疏水道の坑口がある。別子銅山の深部に溜まった坑内水を排水するために寛政4年(1792)に着工した。坑道の長さは940mもありこれは手掘りの時代においては 常識はずれの大工事であった。従って途中何度か中断があり明治元年(1868)に4番坑道に貫通した。 この完成によって坑内水の排除と通気問題が一挙に改善された。但し、坑内水には硫黄や重金属が含まれており川に直接流すことは出来なかった。そこで排水は延々と箱樋の中を流し鉄屑を入れて銅を沈殿させ余水は沈殿池に溜めて浄化し上澄みだけを放流していた。この対岸一帯にはその施設が構築されていた。(全文) |
ダイヤモンド水の場所だ。そう、この水にはダイヤモンドが混ザッテイル時ガアルンダヨ・・・。ダカラ水溜リニハダイヤモンドガイッパイ・・・あるわけないよね〜。んなあほな! <全部ジョークですよ、マジになって取りに行かないでね・・・念のため。 (-^〇^-)> 名前の由来はココをクリック。 |
(ここはたしかダイヤモンド水より手前側じゃなかったかな・・・? どっちだったか忘れた・・・) この石垣の上に小学校があったという。 |
小学校と測候所跡 政府は明治5年に学制発布、これによって子女の初等教育が義務づけられるようになった。これを受けて別子銅山では明治8年(1875)に勘場の下方、通称、目出度町に私立の足谷小学校を設立した。その後も学校教育は次第に一般化し明治19年5月には人口の急増もあって小足谷に尋常小学校を開校、さらに明治22年9月にはここに私立小足谷尋常小学校をを建設、続いて高等小学校も併設した。さらに明治27年(1894)に私立別子尋常小学校となった。最盛期の明治32年3月には生徒数は男女合計298名、教員7名であった。 学校跡の隣で高い石垣のあるところは私立別子測候所で煙害対策一環として明治31年に設立された。 |
ここは当HPの別子銅山2006年版にも書いたが昔の製錬所跡で足谷川の向こう側(左岸・R写真)にかつての焼窯がたくさんあったらしい。L写真の川にオーバーハングしたような溶岩ようのものはカラミである。この当時のカラミは製錬後のカスと言ってもまだ銅がかなり残存している。 |
・L写真:トラス橋の焼鉱窯群 この辺りの地名はトラスバシという。正面にせり出している溶岩のようなものは製錬をして銅を採った残りの酸化鉄である。これをカラミという。カラミがあると言うことはここにも製錬所があったという何よりの証である。写真では無数の焼窯が立ち並んでいるがその前は溶鉱炉があったことになる。 |
かつての製錬所群のあった場所。溶鉱炉(焼窯)もかなり多数あったようである。ただこの頃は鉱石焼鉱の燃料には木材を燃やす方法しかなかったのでその木材の消費量たるやつまり森林伐採がどれほどの激しさだったか押して知るべしであろう。明治に入ってからの近代製錬法以前は一説によると粗銅1トン製造するのに約10トン弱の木材が必要であったという。開抗以来江戸時代の約200年間(途中、落盤や諸事情で休業もあっただろうが)は大雑把に言って粗銅生産量年間平均:500〜600トン(1千トンぐらいという説もあるが)あったとして単純計算でも10万トン以上の粗銅が生産されている。つまり燃料用木材が100万トン近く供給されていたということである。むろん大雑把な計算ではあるがそれほどは間違っていないと思う。そこに精錬用だけではなく坑木や各種住宅、施設建設用、補修用、一般家庭の煮炊き用などなど当時はほとんど全て木材に頼っていたからその必要量たるや膨大な量になっていたと思う。周辺のみならず広大なエリアが禿山になる所以だろう。 下にもあるが木方(キカタ)という地名ができるほど製錬の燃料としての”薪”を確保することが鉱山維持の至上課題であった。当然そこから出る硫黄を含んだ排煙もおびただしいものであったと想像出来る。排煙で日光が遮られて・・・とあるがそれらがほとんど全て周辺の山々や人々に降りかかっていたのである。時代は正に健康被害よりも 幕府や大名優先、明治に入っては企業利益優先の時代だったから出来たことである。 |
木方吹所(きかたふきしょ)と焼窯場 吹方所とは製錬所の古い呼称である。開抗当初は下(しも)の床屋とも言った。下の方の谷間は両岸とも絶壁になっていてその上にせり出すように荒吹炉と間吹炉が建ち並んでいた。ここに吹床(昔の溶鉱炉)が置かれていたのは開抗後間もない元禄年間のことである。以来明治30年頃まで200年あまり鉱山の心臓部として機能してきた。 この辺りの地名はキカタと呼ぶが木方とは薪を多量に使って鉱石を焼くことからそう呼ばれるようになった。これから上部一帯には何百という焼窯が重なるように並んでいて立ち上がる排煙はしばしば日光を遮ったという。この平坦地には千窯という明治になってから改良された効率の良い溶鉱炉があったらしい。 |
藪に隠れて何やらよく分からない写真だが対岸の山の中腹に重任局と勘定場があった。重任局と言うのはいわゆる鉱山事務所のこと。勘定場は会計である。 |
重任局(じゅうにんきょく)と勘定場 明治時代は組織の改変や施設の移動はめまぐるしく行われた。この下の方では木方吹所(きかたふきしょ)に続いて谷川に沿って銅蔵・吹方役所・勘定場が並んで建っていたが明治24年には別子銅山の組織改変が行われて吹方役所は製錬課となって今のダイヤモンド水の所に移り勘定場は会計課となって数年後には南口の方に移った。 また明治25年には勘場(目出度町)が火災で焼失し勘定場の上手に遷ってきた。その時はもう重任局と改称されていて屋上には櫓太鼓を備え従業者に時を知らせていた。更に上流にかけての斜面には木方集落が軒を並べて建っていた。 |
全部こんな道である。歩きやすい。矢張り大企業だからか定期的にきちんと整備されている。ここには載せていないがもっと下の方の足谷川に架かっている橋など3年前に来たときはパイプを溶接しただけの比較的簡単なものだったが今回は非常にしっかりした物に架け直しされていた。この山は住友林業の所有地との立看板がどこかにあったように思うがそのせいだろうか。 L写真は銅山越えへの標識だ。迷うことがない。 |
歓喜抗より10分ぐらい下(最上段の地図の天満抗の辺りか)に案内板のない坑口が右手に。何かな?思い近づいてみると中からものすごい湯気が。これは正に湯気である。眼鏡がたちまちくもってしまう。奥に温泉でもあるのだろうか。柵がされていて入れないが奥をのぞくと岩がごつごつと塞がっていてその奥は湯気で何も見えない。ひょっとしてあるいは坑道掘削中に温泉に突き当たってしまったのか。とにかく湯気がすごかった。 |
だいぶん上の方だったと思うが山の中腹に旧別子銅山鉱山街があった。勘場と呼ばれた鉱山事務所はもちろん製錬された出荷待ちの銅の一時保管場所、銅蔵や各種資材置き場などなど鉱山運営の中枢的な各種のものがこの地にあった。 また鉱山労働者やその家族にとっては商店街や学校や各種の生活必需店などが軒を並べていた。 |
目出度町(めったまち)鉱山街入口 ここから足谷川の源流(風呂屋谷)を渡り蘭塔場の裾を廻って土持谷を過ぎると広大な平坦地に出る。今そこは深い森の中だがかつては別子銅山の中枢で勘場という大きな建物があった。大阪の泉屋本店から派遣された支配人や手代衆が多数詰めていた。また勘場には銅蔵や食料庫・資材庫・来客接待所などが付属していてその周辺は厳重な柵が廻らされていた。 勘場の下の方はいわゆる目出度町という商店街で今日のデパートにあたる伊予屋を始め料亭、一心楼、饅頭の奥定商店等々軒を連ね更に郵便局や小学校まであり銅山本部の下町的存在であった。 |
ここが別子銅山の歴史上最初の坑口である”歓喜抗”と”歓東抗”である。名前からしてよほどうれしかったのだろう。 |
別子本舗(標高1.210m) 本舗とは一山の主たる生産坑のことである。元禄4年5月9日、幕府の稼行許可を得て泉谷はただちに開坑の準備にとりかかった。その時点でこの谷間を利用して掘り出した鉱石から銅を取り出すまでの工程を組み込むためにここに中心となる坑道を開けることにした。前年の秋に始めて調査にやってきた泉谷の番頭、田向重右衛門が下した決断であった。かくして別子山中に最初に開いた坑口がこの歓喜間符と歓東間符である。重右衛門が考えた通り以来明治になって東延斜坑が主たる生産坑になるまで凡そ200年間、ここが本舗であり続けた。背後の平坦地には敷方役所があって負夫によって運びだされた鉱石は重さを量って買い取り砕女(かなめ)小屋へと運ばれた。 上方一帯、ヒノキの木立の中には山方と呼ばれる坑夫の住宅が並んでいた。 *現在も稼行許可の日には大山積神社(新居浜市角野新田町)にて在浜住友連系各社による例大祭が斎行されている。 |
こちらは歓喜抗口の正面。奥は坑木でガッチリと塞がれている。元禄3年(1690)、阿波の山師がこの地で銅鉱石の露頭を発見。翌元禄4年(1691)、泉屋(後の住友)が幕府の採掘許可を得て開坑。文字通り別子銅山のスタートはここから始まった。下の写真の歓東間歩もすぐ隣にある。 |
三角形のおむすび型の山が勘場(鉱山事務所)のあった場所である。蘭塔場というのは墓地のことである。江戸時代の元禄7年(1694)に発生した大火災の犠牲者を弔うために建立したものという。 明治32年(1899)の台風被害も別子銅山のみならず四国全域に死者、行方不明者1500名を越える一大被害をもたらした。特に銅山内の山の斜面にしがみつくようにあった鉱山住宅や鉱山施設などは一時間に200ミリ以上という想像を絶する豪雨に禿山となって保水能力のなくなった山肌が耐えられる筈がなかった。8月28日午後8時30分頃、高知に上陸した台風が別子銅山を直撃。同時刻に全山を揺るがすような地響きとともに山津波が発生。あっという間にあばら家のような住宅は中でジッと息を殺して身を寄せ合って耐えていた人々とともに押し流されてしまった。 翌朝その惨状を見た人々はとても正視できる状態ではなかったという。記録によると銅山エリアだけで死者500人以上、内行方不明者が250人を越えたという。崩れた土砂と一緒に流された家屋や家財道具そして哀しいかな遺体までもが銅山川から吉野川に流れ挙句は紀伊水道にまで達したという。未だ地中に埋まったままの行方不明者もいるという話も聞く。 |
勘場と見花谷 正面の深い木立のある辺りが元禄7年(1694)以来銅山の本部である勘場があった所でその下の方が目出度町鉱山街であった。右の方で岩山の山頂が石垣で囲われているのが蘭塔場である。櫓太鼓のある勘場の右の谷は土持谷で蘭塔場の裾を巻いていた牛車谷は土持谷に架かる永久橋を渡って勘場の表門まで通じていた。 左の谷は見花谷(喧嘩谷)、さらにその谷の左は両見谷(了見谷)といいあの急な山肌にしがみつくように製錬関係者の住宅が重なるように建っていた。明治32年8月28日に来襲した台風で背後の山が崩れて山津波となり見花谷は押し流されてしまった。当日の被害は全山に及び513人という生命が一瞬の内に奪われた。 *表門:勘場(選任局)入り口に石積みの門がありこれを表門と称した。 (上の写真説明文より全文。) |
やっと来ました。ここは仲持と言われる人々が製錬所で製錬した粗銅や帰りに鉱山で必要な物資や生活物資などを背中に背負って運んでいたときに最も難渋した峠、”銅山越え(峰)”である。海抜は約1300m。ここから北側に降りて東平(トウナル)地区まで行き今のマイントピア別子横の県道を通って新居浜市内まで往路は男で約45キロ、女で30キロの粗銅をかつぎ復路は生活物資その他をかついでまた銅山越え目指してただひたすら歩いてきたのである。しかし気候や天気の良い時期はともかく冬や悪天候の時などは相当の犠牲者があった。上のR写真は銅山峰の一角に犠牲者を奉った祠である。また夏などはここで出店やのぼりなど祭りも催されたという。 |
銅山越え(標高1.294m) 開坑以来の悲願が叶って元禄15年(1702)別子銅山の粗銅はここを越えて新居浜の大江の浜まで二日で運び出せるようになった。それまでは村の東外れの小箱峠を越えて宇摩郡天満の裏まで2継3日もかかっていた。 以来明治19年に第一通銅が開通するまでの184年間粗銅とともに山内に住む数千人の食料も中持人夫に背負われてこの峠を往来した。 しかし海抜1.300mある銅山峠はしばしば厳しい表情を見せ風雪のため行き倒れた者もあった。峰の地蔵さんは三界万霊、その無縁仏を祀ったものである。その地蔵さんの縁日は旧暦8月24日であった。明治の頃には道筋には幟がはためき横の舟窪には土俵があって子供相撲に歓声が涌いたという。 |
これは銅山峰の頂上にあった標識である。「旧別子を経て日浦へ約1時間30分」が今登ってきたコースである。「角石原を経て・・・」が新居浜市内方面である。 |
←正面の白っぽい部分が新居浜である。銅山越えから見下ろした風景だ。その向こうが瀬戸内海。 |
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↑西山方面。 各所にズリ山が見える。林業には素人だが別子銅山が閉山して久しいのに未だ山の木々があまり繁っていないのはやはり鉱山時代の公害のせいだろうか? |
↑西赤石山方面 | |
←同じく銅山越えから南側を望む。正面は伊予富士、冠山方面だと思うが。石鎚山はもう少し右手か・・・。 |
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>おしまい< |