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徳島県吉野川市山川町奥野井 高越(こうつ)鉱山 Photo : 2011.11 (1/1) |
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高越(こうつ)鉱山というのは徳島県内で最も大きな銅鉱山であった。銅鉱山といえば誰しもが知っている東の足尾、西の別子(私が勝手に言っているだけですが)だが同じ四国の銅山としては影に隠れているようだがここ高越(銅)鉱山もそれなりの規模ではあった。採掘金属は当然銅が主で僅かだが金や硫化鉄鉱も採れたようである。以下略歴を時系列で記載。 ・開山は明治の初め頃に露頭が発見されたことから始まる。 ・明治29年(1896)頃:[日清戦争終了翌年]・個人経営により手堀りで採掘を始める。(この間)銅170トン生産したと言う。 ・明治36年(1903):[日露戦争前年]・経営権が高田商会に代わりこれ以後大正5、6年までに高越鉱山の経営は比較的安定しだす。 と同時に設備関係も索道や発電所など次第に充実し銅生産量も月産約75トンを達成。 ・大正〜昭和にかけ:日本鉱業(当時は久原鉱業)が同鉱山の経営権を取得し次第に周辺の鉱山(久宗、名越、大内などその他)も買 収し始める。 ・昭和13年頃(1938):この頃から鉱石の品位に陰りが見え始める。あちこち探鉱に尽力するがなかなか有望な鉱床にあたらず先行き 不透明感がただよう。 ・昭和27年(1952):[朝鮮特需]・日本鉱業の進出により探鉱、採掘、選鉱、精錬、輸送など各方面に近代化・機械化を促進した結果、 生産量は飛躍的に増大したが有望鉱床にあたらず遂にこの年撤退を決定。 ・昭和28年(1953):日本鉱業高越鉱業所長であった岡村氏が「高越鉱業」を設立。日鉱所有の県内の全鉱山を継承。そのおかげで同 地の失業問題解決。 ・昭和42年(1967):岡村氏率いる高越鉱業はその後も探鉱や作業の合理化その他で努力し採掘続行を試みたが品位の低下はいか んともしがたく、この年「合同資源」と「新高越鉱業」に経営権を移しさらに探鉱に努力したが出鉱量の低下は止まら なかった。 ・昭和46年(1971):貿易自由化など社会情勢の変化もあり明治以降の長年の高越鉱山経営もここにいたって遂に終わることになる。 |
●L写真:高越鉱山の歴史が刻み込まれている顕彰碑。カメラをいろいろアングルを変えてみたが文字を石に彫っただけで色付 けしていないので内容は写し取れなかった。 ●M写真:この場所に選鉱所やシックナー、事務所などがあったらしい。数年前まではここに温泉と言うか保養所みたいな施設が あったという。今はご覧の通りなんにもない。単なる更地。下の写真の坑口はこの更地の後ろの方にある。 ●R写真:フェンス右側から入っていくと坑口の方に上がる道路がある。途中、左側に何となくズリ山のような場所がありちょっと 掘ってみたが目ぼしいものはなかった。今度来るときはハンマーぐらいは持参しないと。 |
●L写真:ズリ山を過ぎ”こっちかな〜?”と思える方向に行くとありました。真正面に坑口が。 ●R写真:手前には坑内からの水が流れ出ている。長く流しっぱなしなのだろう藻が発生しいる。 |
坑口のUP。石とコンクリートでがっちりと塞がれている。が温泉の源泉だろうかパイプが二本出ている。しかし温泉が出ているようには見えなかったが。熱も蒸気もそれらしき物は皆無だったが。温泉が枯れたので保養所が閉鎖になったのだろうか・・・? |
●L写真:この下半分が埋まっている建物は元火薬庫だったらしい。建物が比較的新しいのは保養所時代に別の使い方をしたせい かもしれない。詳細は不明。 ●R写真:これは坑口のずっと上のほうに行った場所。恐らく元鉱山住宅跡だろうと思う。こういう場所によくある廃車がここにもあっ た。 |
同鉱山住宅跡の様子。石積みの階段状の更地が結構広く続いていた。風呂用か暖房用か分からないが住宅地内にもそれらしき配管パイプが残されている。 |
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Osimai |