北見鉱山     1/1     
                    北海道紋別郡遠軽町丸瀬布          Photo : 2008.09


                                  


・主な産出金属(鉱物)  :金、銀、銅、亜鉛、鉛、 インジウム、ビスマス(どちらも少量)  
・鉱脈発見時期〜閉山年:1914年(T3)頃〜1963年(S38)  
・主な経営企業      :主に住友系企業が閉山まで経営。 


 北見鉱山は別名「伊奈牛鉱山」ともいい伊奈牛川沿いにある山神鉱床、六ノ沢鉱床、八ノ沢鉱床、九ノ沢鉱床、一号・二号・三号鉱床など数ある鉱床を抱えた金鉱山であった。鉱山の歴史を丸瀬布町史から一部引用させていただく(要約)。
 1914年(T3年・第一次大戦)に遠軽在住の安江氏がイナウシ川口で(鉱床)を発見し同年四月、試掘許可第248号で40万坪の鉱区を設定。安江氏はこれを翌年東京の浜本氏に二万円で売鉱。浜本氏は新たに試掘を申請、鉱区を設定し当初15人程で着手。看板を北見鉱山から浜本鉱山に架け替え数箇所試掘したが結果、はたいしたことなくT7年(1918年)廃坑となる。一旦廃坑となったがその後15年ほどしてからS8年(1933年)に同じ鉱区を札幌の片岡合名会社が再度、試掘許可を申請。試掘登録第3331号で金、銀、銅、82万1.800坪の鉱区を設定。しかし実際は試掘を着手することなく同年住友に売鉱し翌S9年から住友は「伊奈牛坑」として開坑する。

 下の案内板には”昭和8年住友の調査で有望な鉱床を発見〜云々”とあるがこの部分だけを読むと北見鉱山を発見したのは住友なのか、と思うがそうではない。その理由は上に書いた。こう言うことは世間でよくあることだがおそらく住友が片岡合名会社から売坑の話があった時、あるいはその前後に徹底調査した結果、自社で開発しても利益が取れると思えるような鉱床を見つけたのだと思う。その後経営主体も住友合資会社→住友本社→住友鉱業→井華鉱業→別子鉱業→住友金属鉱業と変遷しているが一貫して住友である。

 住友金属鉱業が北見鉱山から得た成果は金:26キロ、銀:16.000キロ(16トン)、銅、鉛、亜鉛:それぞれ約5000トン〜9000トン産出があったという。  





 国道333号線をJR石北本線「丸瀬布」からJRを左に見て遠軽方向へ数キロ行くと線路を斜めにまたぐ陸橋がある。降りたところに湧別川にかかる「金山橋」(かなやまばし)がある。その橋の手前に左斜め前方に入る道がありそこを行くとすぐにまた右に入る道路がある。分岐点に資材置き場あり。そのままちょっと行くとすぐ左に写真の”旧北見鉱山案内図” が立っている。 


@ A
 写真四枚まとめて、(上の2枚は「旧北見鉱山案内図」看板の写真から。)  
@:操業時の北見鉱山選鉱所の姿。初冬か初春か、積雪具合から見て厳寒ではないだろう。  
A:選鉱所内部を視察しているようすか。たぶん大正か昭和初期ぐらいだと思う。手前のモーターも相当年代を感じる。
B:伊奈牛川と山との間の道路から山の斜面を望む。かろうじて斜面下部あたりに選鉱所跡らしき区域を発見(赤丸部分)。@を逆から見たところだと思う。
C:Bの
赤丸部分をUPで撮ったもの。やはりコンクリートの土台だけしか残っていない。  
B C






 ・L写真:上の案内看板の写真だがおそらくR写真の地点とほぼ同じ辺りだと思う。後述するが山と道路との間には鉱山住宅や各種施設があったろうと思われる平地が各所にある。もちろん現在は一部資材置き場になっていたりゴミ焼却場だったりと当時の面影を思い出させるものは何もない。   



   上下2枚(四枚)の写真
昭和初期の光景。




 ・L写真:この煙突はおそらく製錬所のものでしょうが製錬所自体がどの辺りにあったのかよく分かりません。「鉱山のシンボル〜」と書いてあるのを見るとこの区域からさほど離れてはいないと思うのだが。
 ・R写真:”明治34年金山(かなやま)鉱山発見”とあるがこの金山鉱山というのは北見鉱区の西側、現、金湧川(ニセケソマナイ川のことだと思う)沿いで発見された金銀含有の黄銅鉱床のことである。北見鉱区と金山鉱区とは山一つ挟んで東西に開坑された金鉱であった。金山鉱区の方が明治34年頃で北見鉱区の方が大正3年頃の発見だから10数年程の時差がある。
 ちなみにこの界隈には他に大小の金鉱がたくさんあった。名前だけ変わったものもあるが列挙すると日出鉱山、泰生鉱山、三和鉱山、北湧鉱山、伊奈牛鉱山、などなど。
 金山鉱山の露頭を発見したのはアイヌ人といわれている。丸瀬布町史から一部抜粋すると、「明治24年旭川網走間の中央道路開通に伴い、上川当麻から先祖の土地丸瀬布へ移住してきたアイヌの人たちの中に布施イタキレがいた。探鉱にも長じていて明治33年頃ニセケソマナイ川口近く(現金湧橋下北東畦)で金銀を含有する黄銅鉱床を発見した。〜後略〜」とある。


 現在の住宅地域。戸数は何戸ぐらいあるのでしょうか。パッと見た感じではさほど多くない感じだったが。北海道を走っていて感じるのはどこの家もみんなとなりとの間隔が本州では考えられない程の”ゆとり”がある。道路との間も同様だ。こういう地域に長年暮らしていると人柄もユ〜ッタリ人間になるのでしょうか。細かい事に目くじら立てて言い争ったりしない人間になるのでしょうか・・・・。  


 上の三枚は”旧北見鉱山案内図”の左側の道をちょっと登った突き当たり周辺です。
 ・L写真:ここは非常に広いグランドのようです。が緑が一切ありません。察するに沈殿池ではなかったかと・・・。
 ・M写真:沈殿池(?)の右側、選鉱所跡の方向です。奥の方に少し民家があるように見えますが。
 ・R写真:途中の斜面にあった鉱山時代らしい遺構。何かさっぱり分からない。  


 ・L写真:選鉱所跡付近を東側から見た光景。手前の平地も人為的に作られた様子。かなり広い。
 ・R写真:箇所箇所はこのようにゲートで塞がれている。もちろん不法侵入はしませんよ。  


 伊奈牛川に沿って北に上がっていくと左側にこんな坑口がありました。この界隈で見つけた唯一の坑口です。名前も何もそれらしい表記も一切なしでした。左下のモノクロ写真はもちろん最上段の旧北見鉱山案内図からのものですがこれが唯一見つけた坑口かどうかは分かりません。なんとなく似てそうなので載せただけです。上の方に上がる道があったのですが行っていません。  


 ズリ場はどこかにないかな〜?と思いながら途中、いくつか橋を渡りましたがこの橋の袂からやっとズリ場を発見、と思いきやなんとなく違うな〜・・・ガックリ・・・。でも水はおいしそう!いやいや冷たそう・・・でした。
橋の名前は「中伊奈牛橋」です。  


 途中、よくあるチエーンみたいなもので”通行不可”になってるかな、と思いながら走りましたが全然そんな風にはなっていませんでした。なっていればもちろんそこまでです。それ以上は入りませんが今回はなんにもなしでした。道路もそれなりに車の通行があるみたいでさほど悪くはなかったですね。所々に写真のような平地がありかつては貯鉱所か何かにつかわれていたような空間がありそれもゴミなどはなく整備されているようだった。  




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