杵島炭鉱   佐賀県東松浦郡玄海町大鶴  1/1   
                き  じま  たん  こう                探 訪 : 2006年11月



 九州の炭層は中央構造線、大分〜阿蘇〜雲仙ラインの北側に固まっているようだ。福岡県内の筑豊、そして三池炭鉱の大牟田、荒尾周辺、長崎の高島、軍艦島(端島)周辺の炭鉱群などなど。これらが地質学的に何を意味しているのかまでは素人の私にはちょっと分からないが何か法則があるようには感じる。とはちょっこっと資料を読みかじっただけの知識なのでこれ以上の深入りはよしておこう(すぐに馬脚を現すので<笑>)。
 
 杵島炭鉱大鶴鉱業所は明治には開鉱されたがその後いろいろな変遷があり炭鉱として事実上軌道に乗ったのは昭和に入ってからのことになる。1934年(S9年)に香春鉱業の経営となり翌々年の1936年になって杵島炭鉱が近隣の唐津炭鉱と一緒に買収。当地を杵島炭鉱大鶴鉱業所として採炭をはじめる。以後1957年(S32年)に閉山されるまでの間ここもまた他の炭鉱・鉱山と同様に朝鮮人、中国人の強制連行が盛んであった。あとでも書いたが特にここの場合、地理的にも近いせいか全炭鉱労働者での朝鮮人の比率が際立って高かったらしい。そのため戦後は彼らが帰国しかなりの人手不足に陥ったこともあるという。自由渡航でならいざ知らず強制連行での労働なら当然のことだろう。ちなみににあんちゃんのご両親の場合は強制連行ではないが当時、日本の植民地政策で朝鮮国内での作物や米をはじめその他あらゆる物資(鉄鉱石、タングステン、モリブデン、マンガンなど各種金属類や金、銀など貴金属類もおびただしい量を日本本土に略奪していった<内鮮一体だから略奪ではないという人もいるが何おか言わんやである。>)を日本に徴用されたため自国では生活できなくなり仕方なく日本に単身or家族で来日した朝鮮人がなんと多かったことか。こういう人々は軍による直接の強制連行ではないが果たしてこれを”自由渡航”といえるだろうか。
 現在、かつての杵島炭鉱大鶴鉱業所は写真のように若干の坑口と船積みのための施設の残骸らしきもの、かつての炭住などが残っているだけである。これらもはたから見る限り坑口だけを残し近年にはもう姿を消すのではないかという感じもする。歴史的産業遺跡として保存したいものだが。



    杵島炭鉱 大鶴鉱業所   


 案内どうりの”旧杵島炭鉱 大鶴鉱業所 第二坑口”の跡。解体されずに一応は保存されている。右の道路は国道204号線から梅崎を鋭角に左折してきたその道である。写真奥の方向が国道204号線つまり’梅崎’方向。カーブを曲がってくると標識の類を注意していると分かる。交通量はあまりない。


 第二坑口のアップ。ご覧のとおり坑口は保存とはいっても壊していない、というだけで見方によれば’放ったらかし’ともとれる状態だ。手前の田んぼも’坑口が邪魔だけどしようがない。これが無ければ・・・’と無言で言っているようにもとれる。内部はRのようにご多分にもれずコンクリだ。雑草だけが元気よく伸びている。この第二坑口が何処まで延びてどの程度の長さまでいっているのかその辺はよく分からない。ただ戦前・戦中は国策により相当量の出炭があったとの記録がある。ある資料によると地理的に近いせいもあるのか特にここの炭鉱は朝鮮人の比率が多かったという。そのためか戦後は朝鮮人鉱夫が大部分帰国したために人手不足により一時は採炭事業そのものも危うくなったことがあったという。


右側の案内看板の右にあるコンクりート様のものが第二坑口の一部だ。この写真は梅崎から大鶴方面に向いた風景である。


 往時の大鶴鉱業所風景。船積み場だろうか。-にあんちゃん記念碑より -


石炭搬送用の炭車を間の入り江(川ではない)をまたいで行き来するための軌道用橋脚の名残。右がその入り江。


対岸を眺めていると何か炭鉱時代の名残の跡らしき物があった。何かは分からない。ズームでアップしたがよく分からない。


    にあんちゃんの里    


”「にあんちゃん」・10歳の少女の日記”安本末子著、西日本新聞社出版、\1200
 旧杵島炭鉱大鶴鉱業所の炭鉱住宅を舞台にまだ幼い頃に両親を亡くした在日韓国人の少女が兄弟とともにけなげに懸命に生きようとする姿を描いた実話。
 本は1958年に出版されその後今村昌平監督の手で映画化もされた。ちなみに余談だが私が小学生の頃だったかに学校の授業?でこのにあんちゃんの話を先生から聞いた記憶がある。まだ石炭全盛の時代である。上記写真の本は最近購入した2003年版の本。


 国道204号線を北上、備前町梅崎で鋭角に左折、しばらく道なりに降りていくと仮屋湾に出る。湾の一番奥まったあたりだ。すぐに右側に特養老人ホームがある。それをそのまま進むと最上段の写真にある炭鉱坑口があり、まだそのまま進むと上の”にあんちゃんの里記念碑大鶴”の看板が見える。


”にあんちゃんの里”石碑。北に向いて走ってきて道路の左側にある。R写真に写っている法海寺が炭鉱操業時の犠牲者を奉っている寺である。


大鶴鉱業所の歴史だ。主だった内容だけを書くと、
S11年

S18年
S20年

S25年
S27年
S28年

S31年
S32年
香春炭鉱と唐津炭鉱を買収し杵島炭鉱として操業する。日支事変、大東亜戦争中、国策により朝鮮の人たちを大勢移動せしめ石炭増産に取り組む。
安本末子、生まれる。
終戦により朝鮮労働者は一部を残して帰朝。そのため一時は採炭不能状態になるが引揚者を集めて労働力不足を補う。この年労働組合が結成される。
朝鮮動乱により好景気に沸く
この頃から石炭から石油に代わっていく
鉱員1133人組合員のみ。末子10才(小4)父の死から日記始まる。7月から希望退職者200人を募る。
12月、杵島炭鉱大鶴鉱業所 閉鎖。同月入野小大鶴分校閉校。
3月31日、大鶴鉱業所の坑口を閉鎖。8月2日より無期限スト突入(96日間スト)。
これで事実上、杵島炭鉱大鶴鉱業所は閉山となる。


これが表側だ。
碑 文(写真右側)
にあんちゃんの里記念碑建設にあたり
 どん底の貧しい生活の中で明るく生き抜く10歳の少女の日記、昭和28年から親もない家もない兄妹4人が厳しい現実の中でくじけることなくいつも励ましあって生きる姿を正直につづった日記は生のままの描写で時代を超えて読者に深い感銘を与える。
 当時4000人もの人が居住した大鶴の地も今や50人ほどの人が暮らしています。にあんちゃんの発祥の地に大鶴炭鉱20年の歩みとにあんちゃんの日記の一部を刻し訪れる人々の兄弟愛、家族愛の醸成を願うものです。この碑建設に当たり地元菖津区大鶴区の強力と町内をはじめ全国各地よりのご支援に感謝いたします。

2001年秋 建立 安本末子同級生世話人一同


杵島炭鉱 大鶴鉱業所
      炭鉱住宅
            


かつての炭鉱住宅の一部です。もっとたくさんあったのでしょうが今はほとんど撤去されて残っているのは写真の物ぐらいでしょうか。あるいはもっと歩けば別の炭住も見つかったかもしれないが。こういう長屋式の住宅で殆どすべての炭鉱マンの家族は生活をしていた。


何気なく見ると実に気持ちよさそうにネコが目をしょぼつかせてました。 こちらは近所のもの置き換わりに使っているようです。


”大鶴公民館”の看板。’大鶴’の文字は薄いですが。



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