鉛山鉱山   和歌山県西牟婁郡白浜町三段壁   1/1    
                   (かなやま こうざん)                      行ってきた日:2008.3




  鉛山鉱山(かなやまこうざん)の歴史はどちらかと言えばマイナーな鉱山の部類に入るせいかあまりよく分からない。冒頭から若干失礼な言い方で申し訳ないが今回、ホームページのUPを機会にちょっと調べてみたがあまり資料が多くなかった。そういう環境下での書き込みです。あしからず。
 
 鉱山が開かれたのはおよそ日本に鉄砲が伝わった頃という。つまり鉄砲伝来が1543年と言われているのでその前後ということになる。と言うことは戦国時代の信長ら戦国武将が群雄割拠していたころということになる。
鉱山の場所が海辺なのであるいは”金山の御神燈”よろしく海から陸地を見ていて何か”妖気?”を感じて発見されたのかもしれない。この当時、戦費調達のため金山開発に各藩は躍起になっていたので山師もさぞかし忙しいことだったろう。  

一説では鉄砲の銃弾用に鉛が必要であったという説もある。あるいは金、銀の精錬用に水銀同様、必要だったのかもしれない。いずれにしろ鉛は採掘当初からあまり採れなかったらしい。方鉛鉱の鉱脈はすぐに枯渇し後は主に閃亜鉛鉱が残ったらしい。ついでに言うと黄銅鉱と黄鉄鉱も少しは採れたという。下の説明の看板にもあるように江戸時代18世紀半ば頃には藩主や幕府もそれなりに鉛採掘を奨励していたようである。
 時代は飛んで1954年(S29年)に時の経営、昭和鉱業/株が鉛ではなく亜鉛を数十トン採掘したという記録がある。ちなみに説明看板にある平草原は三段壁の東方約2キロぐらいの地点。今の白浜ゴルフ倶楽部の真ん中あたりで旧白浜空港の西側。湯崎地区というのは三段壁の北東約1キロぐらいの地点。千畳敷の真東辺りだ。つまり三段壁と旧白浜空港跡地に挟まれたエリアに”鉱穴(まぶあな)”が約三百箇所ぐらいあったということである。 





 ここは和歌山県の有名観光地、白浜温泉です。ここがかつて鉛を採掘していた鉛山鉱山(かなやまこうざん)の現場です。R写真は三段壁のUP。詳しい説明はなかったがこの三段壁の内部も坑道が走っているのか?   


 ・L:建物の名前が「三段壁洞窟」。もっと観光名所らしい名前があるのかと思ったがなかった。この建物の中をズドーンと真下に海面まで36mをエレベータ−で下る。途中下車はなし。こんな岩盤をよく掘ったものだ。また観光地はなかなかこういう許可は降りないものだし。Rがその図だ。なかなか分かりやすい。  


 ・Lは内部。受付の向こう側がエレベーター。
 ・Rはエレベーターそのもの。ここから36m下まで行く。  


 ・Lはエレベーター降りたところ。正面が鉛山鉱山の坑道跡入り口。でも入って驚き! エェ〜ッ!! な、なっ、何これ? 短い!うわさには聞いていたがこれほどとは。 10Mあるか?


 入ってすぐにLの”鉛山鉱山 鉱石”の展示がある。これがないと”本当にここが鉱山跡?”と思うかもしれない。Mは韓国・中国からの観光客が結構多いみたいだ。筆者が行ったときも中国人の団体客が来ていた。Rは一番奥。と云ってもほんの数メーター奥なだけ。ここが突き当たり。ほとんど物置だ。  


 鉱石の説明が何もなかったがたぶん真ん中の大きいのは方鉛鉱か閃亜鉛鉱だと思う。その周りの物は黄銅鉱か黄鉄鉱だろう。
 当地の観光の目玉が温泉や三段壁、洞窟などのためか鉱山跡地はいまいち予算が削られているようだ(一鉱山マニアのつぶやきより)。  


 鉛山鉱山の跡といえばエレベーターを降りたところだけと思っていたがこの写真は熊野水軍の洞窟めぐりの途中にあった鉱山跡である。写真は真っ暗だったので明るさ加工してます。坑道内には鉱石の他にゴミも多数あるみたい。Lの時代劇に出てくるような松明みたいなものはいつの時代のものだろう。奥に床机でも置けばより様になるか。ただすぐにドンつきだが。たぶん壁の向こうは海だろう。RはUPだが奥にうっすらとロープで編んだ網のようなものが見えると思うが鉱山時代に使ったものか?あるいは水軍で使ったものか、よく分からない。あるいはどちらでもないのかもしれない。  


鉱(まぶ)  穴(あな)
 当時の採掘は人力のみの時代ゆえ井戸堀式の竪穴で縄梯子を投げ込み採掘に降りて行っては葛篭(つづら)に入れて背負って登ってくるという方法であったようである。
 こうした竪穴坑が三段から平草原を経て湯崎にかけての山中に300箇所以上あったらしい。現在に至っても200数箇所は残っており土地の人々は一般に鉱穴(まぶあな)と呼んでいる。
 尚当時の古文書によると、その時々の為政者たちは採掘を督励するために鉱山関係者に種々の恩典を与えたと言う。
<参考文献> (今も当地湯崎山神社のご神体として祭る)。

                      免 税 書 
一、公用の鉛一人頭250目であるが山の目方として200目に定めてつかわす。
一、田辺から山へ入る者が分を過ぎた高値を言っても一割高に申し付けることを許す。
一、この外仕事の上でことごとく相許すから堀り子達を集めて怠りなきよう精を出すこと。

                                 元和5年8月27日
帯刀(たてわき)とは元和5年7月当時の将軍徳川家康が我が子紀州藩主頼宣の後見人として紀州に下らせ田辺藩(現在の田辺市)主となった。


              瀬戸鉛山鉱山由来
瀬戸鉛山鉱山は現白浜町三段地域に正親町天皇の時代に開鉱されたと伝えられこの鉱山は数十箇所にも及ぶ竪坑で構成、特に天文12年8月鉄砲伝来以降銃弾に用いる鉛の需要が増大するようになった。祇園南海の享保18年(1733年)の「鉛山紀行」に「金杭数十あり、鉱を開きて百年鉱脈海に入りて中止と聞く。鉱砂礫累々、皆銅船を挟み、今尚歳、銭若干を出し以って船貢に充つと言う」
慶長頃大いに衰え程なく中止となったのであろう、これがはっきりしないが「御用留」安政5年(1858)6月8日の条に鉛山村庄屋の「善右衛門申候は二百年来山は相休み御座候得共、今以て掘り姿にて年々鉛運上に仕り候言々」16世紀末から17世紀前半にかけて浅野氏や南紀徳川氏が鉛山に注目ししばしば租税を免じて躍起となって採鉱を奨励していた。これはその頃の様子を再現したものであります町には租税書が今も残り温泉神社の秋の祭礼(11月2日)には(御書祭り)と云って租税書を先頭に羽織袴の長老に続き稚児行列が賑やかに進むのは、当時を偲ばれます。  



 三段壁真下の洞窟。その昔、熊野水軍はこんな風にして出撃?したのだろうか。イラストは上手に書かれている。が洞窟の大きさがこんなに大きい?(まあまああまり細かいことは気にしないように・・・・チャンチャン)
 おそらく当時の坑道はこの三段壁の岩の奥の方にもあるのだろうか。


 ・Lは洞窟内にあった温泉の湧出口。書いてるとうり少し飲んでみたが・・・。なんともはや、慣れていないせいか妙な感じだ。

 ・Rは飾りつけも壮麗な熊野水軍軍船。左が船首?





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