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  2010年1月撮影    生野銀山  (3/3)     


     <2006年撮影>
左:観光坑道”金香瀬坑”の裏手の方にちょっと登って行くと昔の手堀りの旧坑道が今も残っている。興味ある人には面
   白いが坑道に入るのはやめたほうが良い。危険だ。
右:露天掘り跡「慶寿樋(カネ片)」
   慶寿樋は生野銀山最大の鉱脈である千珠樋の一部で非常に品質の高い銀(自然銀)を産出しました。この鉱脈が発
   見されたのは、室町時代末期の永禄10年(1567年)頃と記録されています。ここから見える堀跡は慶寿樋の一部で江
   戸時代の末期までの300年間休むことなく採掘され地下200mの深部まで達しています。
                                       平成4年3月 生野町教育委員会  


これより下は2010年1月撮影。  

     <2010年撮影>
4年前の時と随分変わっていますがこれって同じ場所だろうか?何か違うような感じも・・・。「露天掘り跡(慶寿ひ)」は同じだが。何か変・・・!?の写真は佐渡金山の”道遊の割戸”のようである。


左:もうすこし奥へ行くとこのように江戸時代の古い坑口が点々とある。これは辰巳坑口。
中:こちらは荒木坑口。しかしいつも思うことだが大した測量器も何もない時代に自分の知識や経験、五感と周囲の状況と地元の言い
   伝えや古文書などでよくも露出(露頭)しているとはいえ見つけるものだ。小生も”これが銅の露頭です”って案内があるのを見たが
   どこからどこまでがそれなのか分からなかった。
右:小日向坑口。割と大きいせいかがっちり塞がれている。


左: >鉱夫の掘った線刻<
   〓戦国時代、徳川時代に抗夫たちが仕事の合間に坑内作業の安全を神に念じながら一心にノミで掘った<彫刻の跡>仏像?〓
   同じような物を確かどこかの鉱山でも見た覚えがあるが。当時の鉱山は文字通り””地獄の一丁目”。暗いし、いつもじめじめしてる
   し、狭いし、空気は悪いし病気でも休めず信じられんぐらい重労働だし。鉱山は当時はほとんど”治外法権”状態だった。と言うのも
   常に人手が不足なので極端に言えば罪人でも誰でも良かった。長崎の隠れキリシタンが東北の鉱山にまで逃げそこで働いたとい
   う事実もある。当時の鉱山はそんな理由で抗夫の前歴をあまり問わなかったようである。松本清張の「佐渡流人行」という短編小
   説があるがこれなんかも岡っ引きがある私怨で一人の無罪の男を今で言う冤罪をでっち上げて佐渡に島流ししてしまうという物語
   だ。当時佐渡金山は幕府の直轄金山であった。最後は岡っ引きが逆に坑内の閉塞坑に落ちて死ぬという結末。それぐらい当時の
   鉱山は”生かして返さない”分には都合がよかった。
右:どこの坑口だったか思い出せない。  


左:鉱脈内で垂直方向に小さな断層「ズレ」が発生しその後、北東方向に大きな断層が発生。ややこしいですね。頭の中
   で三次元的に考えないと・・・。
右:これも昔のどこかの坑口です。中はまむしの寝床かな。  


上の「鉱脈と断層」案内板の”粘土断層”。これだけではよく分かりません。実際に断層面を見ながら位置関係を考えないと。できれば上のほうに登りたいですけどね。そんなツアー、生野銀山さんで組んでくれませんかね〜。”非日常”を求める昨今、きっとネットで告知すればばかすか応募者が殺到しますよ。絶対、採算はとれる。ついでに言うならば「鉱山めぐり」もどなたかツアー組みませんか?  


ここも江戸時代の金盛ひ(”ひ”というのは鉱脈のこと。確か”金”偏に”通”だったかな?)と言う名前の鉱脈(鉱床)。の写真の高札(案内板)の後ろ側の若干、黒っぽい岩壁はどうやら亜鉛鉱石(閃亜鉛鉱)らしい。  


ここも昔の狸掘りの大亀ひ。鉄柵の間から中を撮影。かなり奥は深そう。ゴミだろうか奥に何か石ではないものが見えるが。まさかこんな所に捨てるやつがいる?  


左:右側にすっごく気になる坑口(洞穴?)を確認。タテに長いが露頭かも・・・その下にも坑口らしき穴が見える。
右:一般者が行けるところはここまで。守りましょうね。でないと鉱山・鉱物愛好家の評判が悪くなりますよ。  
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(おわり)