別子銅山シリーズ <そのB>
 B 筏津抗&日浦抗 1/1
愛媛県新居浜市筏津・日浦       訪問年:2009年3月


 筏津抗は別子銅山閉山(1973年(S48))の一番最後まで稼動していた坑口である。詳細は下の案内板に書いてあるのでここでは割愛する。当時は全国の鉱山どこもだいたい同じだがその地域内では生活様式の近代化が一番早かった。電気の通電、ガスのプロパン化、水道も井戸水ではなく蛇口をひねると出る、など鉱山周辺の一般家庭にはまだ手が届かない物がたくさんあった。住居なども木造全盛の頃にいち早く松尾鉱山や鴻の舞金山のように鉄筋コンクリート造りが導入された。だから周辺の人々は鉱山に住む人々をうらやましく思ったという。筏津抗でも同じで別子山村内の村人から食べ物から着る物までうらやましがられたと言う。当時筏津抗周辺には各種売店はもちろん診療所、学校、娯楽施設などが数多くあったらしい。今では想像できないが。当然収入も多かった。その分危険も多いが。
 今の筏津抗の観光坑道はちょっと分かりにくい。川から筏津山荘を挟んで反対側、山荘の奥側(山側)に位置する。コーラの自販機の横に”筏津2番抗”の大きな看板が見えるが。







筏 津 抗
 ・L写真:愛媛県内の銅山川に沿った県道6号線を法皇湖から西へ進む。床鍋辺りで県道が47号線に変わりそのまましばらく行くとまもなく写真の筏津抗が銅山川左手に見えてくる。
 ・R写真:銅山川の中にかつてのトロッコらしき橋梁の跡が残っていた。


 高浜虚子にもほめられたと言われる本田三嶺子作”炉辺に聞く 元禄別子開坑史”の石碑。橋を渡った入り口にある。


 坑口は何処かいな?と探しながら歩いていると川沿いの突き当たりにこんなものが。がっちりと石とセメントで固められている。これは何抗だろうか?


 上の右写真の奥にあるものだ。
 穴だらけだがダイナマイト用の穴あけの練習だろうか。阿仁鉱山にも同じ様なものがあったが。


 筏津山荘の横をなにげなく覗いたらなんとあったじゃないですか。ここに来たかったんですよ。もう少しでチョンボするところだった。写真は当時の抗車と右写真は何でしょうか。送風機のようなサイレンのような・・・。


 こちらが筏津二番抗。観光用の坑道です。奥行きはあんまりありませんが一見の価値はあります。上の写真の拡大を下に載せました。時代は明治15年(1882年)。文面は次に、
   筏津抗跡
 本舗、余慶、筏津、積善とある別子の四鉱床のうちの筏津鉱床の坑口である。ルイ・ラロックは弟地で本舗とは別の鉱床の路頭を発見し鉱床に沿って斜坑を掘り採鉱する重要性を「別子銅山目論見書」に書き記している。明治11年(1878)に開抗して試し掘りに入る。明治18年(1885)に採鉱場と湿式収銅所の建設に着手し翌年に操業を開始した。最初は弟地抗(おとじこう)と呼ばれていた。明治34年(1901)には休抗となった。
 大正5年(1916)に探鉱を再開し大正7年(1918)に鉱床を確認して筏津抗の名で操業を再開した。昭和4年(1929)には第二斜坑の開削を開始し以後下部に向かって進められた。昭和18年(1943)に大立抗と筏津抗下部との間に探鉱通洞が貫通して第四通銅と連絡することになった。昭和20年代に入っての筏津抗の下部開発は別子の産出銅の増加に大きな役割を果たした。
 昭和48年(1973)3月31日の筏津抗の終掘で元禄4年(1691)の開抗以来283年間に及ぶ別子銅山の歴史を閉じた。
 


 ・L写真:三段上の写真の”筏津抗”看板の左側にある白く反射した案内板です(下に拡大写真)。銅山越えの真下に大鉱床があるんですね。
 ・R写真:入り口手前にあった石(岩)。多分ここで採掘された鉱石でしょう。黄銅鉱かどうかはちょっと分からない。らしくなかったが。


 こちらは入ってすぐ。坑道枠は木材。床はコンクリートで往時のトロッコ軌道がそのまま埋まっている。  こちらはその奥側。坑道枠は鉄柱枠。奥に見えるのはかご電


 突き当たり手前にあった通称”かご電”だ。子供たちの願いがかなって30有余年経った今もこうして保存されている。


 ・左写真:かご電の内部。人車と同じかそれ以上に狭い。狭いトロッコ軌道だから仕方がないが。
 ・右写真:かご電向こうの最奥部。内部の写真は下に。


 内部写真。どちらも当時の様子。


 坑道内保抗状況および軌道点検のため第四通銅と探鉱通洞(筏津)で使用された巡回用自転車。ペダルも見えている。本来のハンドルは必要ないから漕ぐ為に体を支えるためのものでしょうね。


 坑道から出る時に中から外を撮った。これで分かるように建物(筏津山荘)に隠れている。道路からは見えない。このため人によっては”行ったが何処にあるのか分からなかった”とそのまま帰る人もいるとか。


 銅山川沿いにあるズリ山。よく見ると木に隠れてあちこちにある。これは上から三段目の塞がれた坑口写真の場所より西寄り。


別子山資料館


 県道47号線を走っている時、保土野あたりでトイレに行きたくなりトイレから出てきて正面を見ると別子山資料館の看板が。おぉっ、これは見なければ!と即、中に。(トイレは天の声だったかも<笑>)


 昔のコンプレッサー、ふいごです。写真手前のとってを握り前後に動かすだけ。反対側から空気がスー、カー、スー、カーと出たり入ったりする。当時はこんなものでも画期的だったんでしょうね。


             鉛を吹図
 この図は、鉛を鍋の中で溶かして銅で作った型へ流し込み成品に仕上げるものです。これを棹銅と呼びました。
         銀鉛を吹分る図
 銀を含んだ鉛をもう一度灰床の中に入れて炭火で徐々に溶かすと銀より鉛が重いため溶けた鉛が灰の中へ沈み銀ばかりが中央に集まります。これを灰吹銀と言いました。
        銅鉛を吹合す図
 粗銅には銅の他に金、銀が含まれていたのでその銀を取り出すために鉛を加えて溶かすと銀が鉛につきます。これを合せ吹銅といいました。


          棹吹の図
 間吹きした純度の高い銅をもう一度るつぼに入れてとかし型の中へ流し込んで棹銅を造ります。これは長崎交易御用として純銅に製錬したもので地売銅にするのは同じ工程によりますが型だけが違ったものです。 
           間吹きの図
 銅山から送られてきた銅を再び炉の中に入れて溶かし土や灰の不純物を取り去って一層純度の高い銅を精錬しその後、水を注いで冷やし固めて鉄杖で取り上げます。製品は直径が約30cm、厚さは約15cmくらいで一回の作業で約150kg溶かし一日三回程度の生産状態でした。
ヤキたる鉱石(ハク<王偏にボク、石>)を鎔化して銅(カワ、金偏に皮)を取る図
 銅の品質を上げるため火床を作って2人がふいごを吹き1人が長い鉄火箸をもって火力が上がるようにします。風と火が回ると鉱石は溶けて湯になり銅分は沈みその他の滓が浮くのでこれを流しだして捨てます。銅分が溜まるとこれを冷やし残ったものは半成品銅塊となります。


     はく(鉱石)<「僕」の人偏でなく王偏>を採る図
 江戸時代の坑道は高さ巾とも現在のものよりやや小さい物でした。坑夫はこの絵のような服装をして灯火は「さざえ」のつぼに布をいれ油を侵し て点火していました。また「蔓(かずら)」で編んだ負袋を背負い入坑時には所持品を入れ採掘された鉱石もこれで運び出していました。そして腰にはわらで編んだ尻すけを下げ「足中」と言って短く切った草履をはいていました。
(この図は旧別子の歓喜坑と思われます。尚歓喜坑は現在もその形態を残しています)
 こちらは説明を撮りわすれたのかデジカメの中をみても入ってなかった。のでまあこんな感じです。
 実際にはこの当時の坑道はこんなに立ってもまだ余裕のある高さまでは掘っていなかった。


日 浦 抗


 県道47号を西進して別子ダム湖方向に向かい旧別子銅山コースの駐車場より1キロぐらい手前に左側、銅山川に架かった”日浦橋”がある。ここが日浦抗の入り口だ。


 日浦抗敷地内にある日浦揚水場。坑内水の処理だろうか?


 左端の坑口が日浦通洞。手前の赤い鉄橋がトロッコ軌道用の橋。平屋建物は事務所だと思うが。


 こんな感じである。R写真にはほうきを持ったおばさんらしき人が掃き掃除をしている。トロッコの後ろ側には男性らしき人の腕が見えている。


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