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   山形県尾花沢市大字名木沢    福舟鉱山      Photo:20128  (1/1)  
主な採掘金属 :(発見された江戸時代は)、(近代には)亜鉛など。
経営母体    :森通久氏→三菱金属鉱業→福舟鉱山(株)→尾富鉱業。

福舟鉱山は山形県尾花沢市の北側、分かりやすく言うと山形新幹線「舟形」駅の東方約5〜6キロの山中にある銅、鉛、亜鉛を採掘していた鉱山である。5〜6キロと言っても実際の道のりではもっとある。唯一の道、県道318号線は失礼ながら左程立派な道ではない。長沢〜南沢間の山中部分にはどうやら集落がなさそうだ。あるのは廃坑の福舟鉱山のみ。そのせいか道路整備がいまいち。因みに最上川周辺、特に尾花沢市〜船形町一帯はその昔、最上炭田といって日本三大亜炭田のひとつだった。亜炭と言うのは石炭の中でもあまり品質が良くない部類で時に褐炭と同一分類されることもあるが炭化度は70%以下とそれよりも低い。それでも戦時中や戦後の復興期には盛んに採炭された。勿論今でも炭層は存在する。福舟鉱山はそんな地質構造のなかにある金属鉱山である。

本鉱山は江戸時代、最上藩によって開坑された金、銀鉱山であったがその後長くその歴史はよく分からない。近代に入り1938年森通久氏により銅や鉛などの鉱床が発見されにわかに活気ずいた。時はまさに軍事一色でこの3年後にはあの地獄のような太平洋戦争に突入する。まさに”行け行けどんどん”で石炭、石油、金属地下資源など少々、質が悪くても量を必要とする時代であった。4年後の1942年(戦時中)には三菱金属鉱業が経営に参加するが何故か2年後の1944年に休山。再び復活するのは戦後の1949年、まさに復興景気だ。1954年には選鉱場も新しくなり生産高UP。翌’55年に福舟鉱山株式会社が設立、経営に参画、’64年には尾富鉱業も経営参加。この頃が本鉱山の最盛期で亜鉛、鉛も増産されたが特に銅精鉱を2、000トン/年近く生産した。

鉱山の宿命で鉱石の分析と探鉱は常に実施されていないと鉱山経営と言う物は難しい。本鉱山も当然分析と探鉱は継続していたがこの頃から品位の低下が目立ち始め探鉱にも力を注いでいたが有望鉱床に当たらずまもなく福舟鉱山(株)が撤退。その後も細々と続けていたが1976年遂に尾富鉱業も撤退し福舟鉱山は閉山となる。閉山後はこれも鉱山の宿命、鉱毒水処理をしなければならない。いつ終わるともしれない水処理だけが現在も続けられている。


県道56号線、JR「長沢」駅の方から南に向いて県道318号線を南下しようとナビを見て走るのだが曲がる箇所が分からない。ナビ通り走っているのだが曲がる道がない。一度引き返しよ〜く見てみると細い道がある。標識もない道だがどうやらそれだった(ナビは正しかったのだ)。その道路を道なりにずんずん行く。いわゆる山道で道幅も狭い。くねくね九十九折の道路が延々と続く。一本道の筈だが所々、分かれ道があり多少弱気になりながら”この道に間違いない!”と自己マインドコントロールしながら走った結果、峠を越えてしばらく下るとやっと上の写真の場所に到着。
右手は選鉱場の遺構、最下段部。今はもう基礎の石垣とコンクリしか見えない。上物は全部解体され自然回帰の最中かも。下写真に出る坑道は正面左手の小さく赤い屋根の脇から右手方向(選鉱場方向)に向いて掘り進んでいる。

鉱山のど真ん中に立ち選鉱場、坑口、修繕など工作場方向を望む。写真右手前方向にはズリ山があり赤屋根の作業室の左手にもズリ山があった。坑口は写真の真正面。今は坑内水の中和事業だけをやっており鉱山跡も整然としている。

左:選鉱場上部を望む。もうすでに何もない。あと数年もすれば雑草や木々が生長し前を通っても気付かないだろう。
中:ここが坑口。当然ながらがっちりと管理されている。扁額は見当たらなかった。坑道名が分からない。
右:格子から内部を撮影。かなりきっちりと管理されているようだ。奥のほうから排水用のホースだけが坑外に延びている。

左:県道の脇にはどうやらズリ山らしき残存物が(これも遺構と言えるか・・・)
中:こちらにもズリ山が。上でも説明したが写真右端の半分だけ見えている建屋が坑口前の修理作業室。
右:ここでも例のヤマユリが満開。香ほりがかなり離れた場所でも感じられる。さすがカサブランカのルーツ。天晴れじゃ〜!

左:現在の福舟鉱山の事務所兼坑内水浄化管理棟。きれいで立派な建屋である。コンクリの丸っこいものはシックナーか。その上に
   建屋があるがどういう仕掛けなんだろうか・・・
右:管理棟外の沈殿池。工事はまだ終わっていないのかもしれない。

      (1/1)     HOME    >完<