宮城県栗原市鴬沢 細倉鉱山(細倉マインパーク) Photo:2012年8月 (1/1) |
●主な採掘金属 :金、銀、亜鉛、鉛、硫化鉄鉱。 ●地 質・鉱 床 : 熱水性鉱脈鉱床(グリーンタフ) ●経営企業 :〜高田商会→共立鉱業→三菱鉱業→細倉金属鉱業(三菱マテリアル)。 細倉鉱山の歴史は古い。確たる証拠となる文献は見つかっていないが言い伝えによると発見は平安時代、9世紀中頃と言われている。略史を簡単に下に記す。 ・9世紀中頃 :平安時代の西暦800年代中頃に発見されたと言われているが信ずるに足る古文書や文献は見つかっていない。 ・16世紀後期:(戦国時代)1500年代後期に某山師が採掘を開始。 この頃伊達正宗等諸大名は戦国時代故、戦費調達など物入りが続き金、銀山の開発に注力していた。そんな背景 もあり細倉鉱山は当初銀山として開発の手が入った。 (1603年江戸時代に入る) ・17世紀初期:江戸時代に入りしばらくは銀の生産も順調に推移していたがまもなく生産も減少。 ・1650年頃 :北側に位置する大土ケ森山(後の大土森鉱山)で鉛の鉱脈が見つかりこれ以後細倉鉱山も鉛の採掘に注力するよ うになる。 この当時鉛は武器としても重宝したが何と言っても大量に必要なのは金、銀の製錬だった。灰吹法によって金銀鉱 石から金や銀を製錬するには鉛が必要であった。そのため鉛の増産が求められた。 ・1750年頃 :この頃になると鉛鉱山として活況を呈していた鉱山も先細りする鉱脈や周辺農民への鉱毒問題、飢饉などで次第 に衰退してくる。 ・1850年頃 :数ある山師の中でも経験豊富な突出した菅原某氏のような山師が現れ技術面のみならず経営面にも才覚を発揮 し衰退していた鉱山は持ち直しそのまま明治期にはいる。この頃有望な間歩は30数箇所あり別名”細倉三十三ケ 山”とも呼ばれていた。 (1868年明治維新) ・明治当初 :鉱山採掘で一番厄介なこと、湧水問題が規模を拡大するに従い大きくなる。これまでももちろんあったが切羽深度 が深くなるに従い水問題が深刻になる。菅原某氏は明治政府に国有なのだから排水工事の支援をしてくれ、と頼む がうまくいかなった。 ・1890年 :清水和兵衛、杉本正徳(投資家)、大島道太郎(鉱業界の父と言われた大島高任氏の子息)、高田慎蔵(商社高田 商会創業者)等が”細倉鉱山株式会社”を創立。数年後鉛生産高が国内一位になる。(1894年日清戦争) ・1898年 :数年来の鉛市場価格の下落や金銀複本位制から金本位制への移行による銀の大暴落、集中豪雨による坑道水 没など大規模水害に見まわれたりし鉱山経営が危なくなる。 ・1899年 :高田商会が単独で鉱山経営に乗り出す。名前も「高田鉱山」となる。 ・1904年 :(日露戦争)2年前に一旦休山した高田鉱山は戦争特需により亜鉛の生産に注力。亜鉛を採る閃亜鉛鉱はそれま で鉛を採る方鉛鉱とともに採掘されていたが全てズリとして捨てられていた。戦争により亜鉛が見直され高田鉱山も 息を吹き返す。 ・1914年 :第一次大戦勃発により亜鉛の国際相場が急騰。高田鉱山も好景気にみまわれ増産、挙句輸出するまでになる。 ・1918年 :戦争終結後大不況に。亜鉛相場も暴落。大火災などもあり高田鉱山も経営が苦しくなる。 ・1928年 :共立鉱業(株)に経営権が移り名前も”細倉鉱山”となる。 ・1934年 :不況により共立鉱業(株)は細倉鉱山を三菱金属鉱業(株)に売却。三菱はその資本力にもの言わせ次々と近代 化、合理化を進める。探鉱はもちろん坑道掘削、選鉱場増築、製錬場の新設、その他増産に向けあらゆる近代化 を実施。結果数年でそれまでの粗鉱生産量の3倍近くを産出。戦時中の1943年には増産要請もあり30万トン近く の粗鉱生産量があった。 (1945年終戦) ・’45〜48年:終戦後は早々に操業復帰を願うも復員もなかなか進まず鉱山施設も思うように稼動できず電力、食料その他諸事 情が悪く鉱山稼動は遅々として進まなかった。 ・1950年 :(6/25朝鮮戦争勃発)いわゆる”朝鮮特需”で国内景気は一挙に活況。(金属)鉱山関係も戦後の不況を爆発的 に盛り返すことに。 ・1971年 :ニクソンショックで円高になり国際競争力が落ち細倉鉱山も次第に先細りに。経営合理化や一部解雇など緊縮財政 に励んできたが1973年オイルショックにより殆どとどめを刺されこの後はほとんど雪崩落ちるように閉山への道をか け下っていく。 ・1987年3月:遂に細倉鉱山閉山となる。1000年以上もの長きにわたり掘り続けたヤマの灯は消えることに。 ・1990年 :観光坑道”細倉マインパーク”がオープン。現在に至る。 |
■左:細倉マインパークの近くまで来るとそれと分かる看板が見える。 ■中と右:やってきました。目的地です。営業開始まもない時間だったせいかあまり人は多くない。それでも夏休みのせいか子供連れの ファミリーが結構マイカーで来ている。 |
入坑(場)料を払い観光坑道に入ってゆきます。”栗原市観光坑道 細倉マインパーク”の看板の下にこれも扁額と言うんでしょうか、「感天通洞坑」の文字が。通洞抗というのは実際に鉱石を掘る最前線の現場(切羽<きりは>と言う。”せっぱ”ではありませんヨ。)と言う)の採掘坑道とは違いそれら採掘坑道同士をを繋いだり人や物資の運搬、掘った鉱石の搬出などのための坑道である。ただ当然ながら内部奥深くではどこまでが通洞坑でどこからが採掘坑道か厳密な区別はない。常に重複しているのが鉱山である。 |
■左:坑内の火薬庫。ダイナマイトやアンホ、電気雷管、アランドマイトなどなど物騒なものが置かれていたようだ。 ■中:坑道の奥側。右手には4人用の人車が見える。4人用と言っても肥満体だと無理だろうね。鉱山労働者には肥えた人はいないのだろ う。 ■右:坑内事務所。ここで作業の指示を受ける。 |
細倉鉱山産出の代表的な三つの鉱物、方解石と方鉛鉱と閃亜鉛鉱。 ・方解石は誰もが知っているセメントの原料,石灰石(炭酸カルシウム、CACO3)のこと。大理石も同じ仲間。ちなみに鍾乳洞はこれが地 下水に溶けて出来た洞窟。 ・方鉛鉱は鉛の鉱物。鉛はほとんどをこの方鉛鉱から製錬する。もし機会があれば持上げてみればよく分かる。ズシツと思い。 ・閃亜鉛鉱は亜鉛を採る主要鉱物。亜鉛は非常に用途の広い金属で代表的なものにはサビ止めの亜鉛メッキ鋼鈑、いわゆる屋根などの波板である。そして合金材料、真鍮などほとんどの合金に入っている。もっとも最近では健康面でのサプリメントとしての亜鉛消費が増えている。 |
■左:蛍石と方解石の普段の姿。ブラックライト(紫外線)照射なし。 そこで〓このボタンを押すと〓 ■右:ブラックライト(紫外線)を照射するとこのようにきれいに光る。蛍石(宝石名はフローライト)というのはそこからついた名前である。 フッ化カルシウムが主成分で宝石としてのフローライトが一般には知られているが金属の製錬や融剤など工業的にも用途は広 い。 |
総延長600キロの坑道っていつもながら想像の域を超えている。同じ三菱系の尾去沢鉱山もそれぐらいあったように思うが。 |
■左:ファミリー向けにここの鉱山もいろんな催しごとをしているようだ。私の場合いこういうのはあまり興味がないので写真を2〜3枚 撮るだけでテーマの方は読んでも頭に入らない。このときも何だったか覚えていない。ただマグマのような演出だったことだけだ。 確か玖珂鉱山(山口)もこんな風なアトラクションらしきことをしていたような。廃鉱山を残そうと必死なんだろう。 ■中:少ないながらも金も採れていたようです。 ■右:例の砂金採りです。20分ぐらいねばって巾着袋の中の三粒だけが成果。これがその記念のパウチカード。ここの砂金プールちょっ と砂金の量が少なくない・・・?なかなか見つからなかったヨ。 |
現在の細倉鉱山の姿。県道側から撮影。1987年閉山後は細倉金属鉱業(株)としてバッテリーからの鉛リサイクルを専業としている。 |
■左:県道脇にある細倉鉱山資料館。中は撮影禁止のため写真はなし。 ■中:資料館のすぐ前にあった石碑。何が書いてあるのか目を凝らして読もうとしたが皆目ダメだった。風雨にさらされていて全然読めな い。 ■右:資料館の裏手側にあった坑口?ではないと思うが。何か分からないので写真だけを撮って離れる。 |
■左:資料館の前には少ないが若干の鉱山用機械が展示されている。 ■中と右:昔のボーリングマシン。シンプルですね。動力は高圧エア。坑内での使用だからでしょうか。こんなシンプルマ シンで200mも掘れるんですね。 |
■左:バッテリートロッコの前はガソリンエンジンでの気動車を使っていた時期もあったがこれがそれ。エンジン車はパワフルでいい のだが揮発性故万が一を考えると危険が大きい。それと排ガスの発生と何よりも坑内奥深くになると通気というか空気不足 になりやすい。なのにそれを大量に消費し且つ排ガスで汚す内燃機関だと人が酸欠の恐れが出る。バッテリーなど電気式だ とその心配はなくなる。ただ鉱山も大規模な鉱山や時代が進むと効率化が優先されどんどんトラックレスマイン化が進み地 下深くにまで大型ダンプが入って行きそのまま鉱石を積み運び出すという風になっていった。もちろん通気やエアの供給もき ちんとしてのことだろう。そんな鉱山も今ではもう日本では見られない。 (鉱山・炭鉱にとって”通気or換気”がどれほど大事なことかまた別の機会にでも書きます。お楽しみに) ■右:坑道の外での作業だとガソリンエンジンでも大丈夫。あたりまえだが。 |