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   北海道雄武町上雄武    北隆鉱山      Photo:20128  (1/1)  
主な採掘金属と鉱物 :金(自然金)、銀(輝銀鉱、濃紅銀鉱)、銅(四面銅鉱)、鉄(黄鉄鉱)など。
鉱 床      :鉱脈型鉱床(熱水鉱床)  
主な鉱業権者 :日本鉱業(株)。

 北隆鉱山は1918年(T7)、音威子府川の上流で発見された金鉱山である。発見者は札幌在住の某氏といわれるが詳しくは不明。上幌内越峠辺りを源流とする音威子府川というのは北海道北部のオホーツク海に面した紋別と枝幸の中間辺りにある雄武町(おうむちょう)という小さな町に流れ込んでいる小さな川である。すぐ南側には砂金山という名前の山も存在するぐらいだから余程金に恵まれた土地柄なのだろう。
 1927年(S2)には日本鉱業が鉱業権を得、大資本を投資して本格採掘に入る。当初は選鉱だけをし精鉱は茨城の日立鉱山に送鉱していたようだが効率悪く1935年(S10)同地に青化製錬所を建設、同時期に元山から元稲府海岸(オホーツク海)までトロッコ軌道を敷設し製品や生活用品、人々などを運んだ。この頃記録によると年間に約200キロ以上の金を生産していたようだ。
しかしその分事故や災害も多く公害問題も発生し青化製錬のため青酸溶液の流出その他で音威子府川に汚染が発生、海にまで影響が及び漁業にも多大な問題が発生したと言う。
 有望な鉱脈は5つあったという。最大の物がチャンピオン(C)脈と言われ品位は金:37g/t、銀:96g/tだった。他に1号ひ〜4号ひまであったがいずれもC脈よりはぐんと低い品位だった。

 しかしそれも戦中の1943年(S18)には金山整備令により採掘停止。人手も機械類も大部分を銅や鉄、鉛など他鉱山に配置転換された。戦後に復興しようと再度、探鉱などされたようだがうまくいかなかったようでその後再開は出来ず結局開鉱後25年間で閉山になる。ちなみに日本鉱業が経営していた16年間の生産量は金が約3トン、銀が約12トン(金だけで現在時価150億円以上<@5000円以上>になる)。


興部からオホ−ツク海沿いにR238を北上、雄武町役場を過ぎ2〜3キロ行くと写真の場所に着く。左折箇所には親切に北隆鉱山保存会が案内標識を立ててくれている。周りの景色は北海道らしく乳牛が草を食んでいたりサイロがあったり玉葱やジャガイモの広大な畑が広がっていたりと本州の私達にとってはうらやましいような自然だ。もっとも冬の寒さは半端じゃないだろうが。

左:”北隆鉱山の碑保存会”の電話番号まで記していた。ここまでしているのは珍しい。
中・右:”音稲府開拓線”をしばらく走ると三叉路に。そこにも標識があり矢印通り右に行く。

左:ここから”音稲府開拓線”にはいる。標識の向こう側の道路はR238(左方向:枝幸方面、右方向:興部方面)。
中・右:しばらく行くとこんな道です。殆どまっすぐの道。両サイドは全〜部畑。広大です。右写真は途中でかいトラクターとすれ違った
   四つ角。ここにも保存会の案内があった。要所要所に案内があり親切だ。本丸まではここからまだ10数キロずっ〜とこんな道を
   ひた走る。全部砂利道。ただ定期的に整備しているのか走りやすい。

左:こんな道がいつまでも続く。まさに”クマ道”だ。走りながら何気なく考えていた、鉱山操業中にもクマの犠牲になった鉱山労働者や
   家族がいたのではなかろか。もともとクマの生息地に人間が入っていったのだから。
中:北隆鉱山線という道路らしい。鉱山の場合よくあることだがそのための開発道路が閉山になってもそのまま残って利用されている
   ケースかもしれない。
もう少し奥に行ったあたりの墓地。と言ってもそれらしき墓石も卒塔婆らしきものもなかったが。墓地跡なのだろうか。それとも今も
   誰か墓参にくるのだろうか?”跡”という表示はなかったが。お墓なのでむやみに踏み歩くわけにもいかずそのまま進行。

途中ご親切にこんな案内看板があった。(見づらかったのでPCでちょこっと細工しました。)”昭和14年12月末日現在”とある。地図で見るとどうやら薄茶色の道路は行き止まりではなく道道49号線の上幌内越峠に出るらしい。行けばよかった。後の祭りだ。

左:どんどん進んでいくと左手に目的の慰霊碑が見えてきた。某サイトにあった慰霊碑の写真と同じものだ。定期的に手入れをし
   ているのか実にきれいだ。
中:今にもクマが出そうな道だ。天気はまあまあだがまっ〜たく人気がない。むろん車なんか全然来ない。三叉路からココまで20
   キロ近く走ったが途中、トラクターと交差しただけで何もなし。これが夜だったら・・・最もこの道をまっすぐ行くと道道に出るらし
   いが。
”元北隆国民学校門柱跡”とある。バックの樹にもたせかけていただけなので本当は何処にあったものか分からない。国民
   学校というからには戦時中のことだろう。

北隆鉱山慰霊之碑、立派な碑である。元鉱山住宅の跡だったようだ。  

左:慰霊碑を斜め後方から望む。
中:こちらもブレてますが一応読めます。(今回説明が簡単すぎるようなので字数稼ぎに「碑文」を載せます。)
      
大正末期金山発見[空白]昭和参年日本鉱業株式会社金銀鉱採掘開始精錬所建設[空白]雄武町発展に貢献極めて
       大[空白]昭和拾六年国の金鉱業整備計画断行閉山[空白]爾来歳月五拾有余年[空白]二千有余人の集落の往時を
       偲び物故者の霊を慰め此に碑を建立し後世に伝える。  平成六年十月吉日   北隆鉱山の碑保存会

”北隆鉱山について”、さっぱり読めない。ブレたようだ。興味のある方は他サイトを見てください。たくさん載ってます。

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